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「イメージズ」のメランコリー:カサヴェテス『フェイシズ』についての覚書/伊藤連

「私はセックス・マシーン?」
「だから、映画を観に行くのか?」

ジョン・カサヴェテス『フェイシズ』

  『ガラスの動物園』の長男トムは、夜ごと映画に出かける。多くの読者(観客)から同性愛者と見なされているこの人物の習慣には、どうやら別の動機を伺うこともできそうなのだが、それについてはたしか新潮文庫版の訳者後書きでもすでに指摘されていたからここで触れることはしない。トム本人の語っていた事情を、本を探す手間を省いて、ただ思い起こしてみることにしよう(言い訳めくが、ウィリアムズの作品はつねに、確かめることではなく、思い起こすことに賭けるのだから)。

 トムは冒険を求めて映画を観る。彼が勤める倉庫の業務は、退屈であるだけでなく、冒険の不在によって才気を消耗させる。トムによれば、いま、冒険するのは映画スターだけである。労働者たちは、奪われたのか、自ら放棄してしまったのかはともかく、もはや自分には不可能になってしまった冒険を映画スターに託して、気散じする。

 さて、1968年(あるタイプの人には特別な意味を持った数字である)に公開されたジョン・カサヴェテスの出世作『フェイシズ』の登場人物は、やたらと笑い転げている。破綻した中年夫婦のそれぞれの一夜を描くこの作品で、いちおう主人公と言えそうな男を演じるジョン・マーレーは1907年の生まれでテネシー・ウィリアムズの4つ年長だから、だいたい、件の自叙伝的戯曲の長男の同世代とみなしてよいだろう。言うまでもなくウィリアムズの戯曲においては文字通り致命的な意味をもつ階級と地域のことをそれでも一旦おくとすれば、『フェイシズ』のジョン・マーレーは、「年老いたトム」と呼ぶこともできよう世代に属しているわけだ。そして、その男はやたらと笑い転げている。彼の友人も笑い転げている。その妻も──おそらく役の設定年齢はマーレーの演じる夫よりいくぶん若いだろうが、主婦たちは自らの世代を「夫の世代」によって自己規定しているふしがある──夫といるときには、休みなく笑い転げている。

 この笑いはごく痛ましいものだ。笑う理由もなく笑っているからではない。そこで発せられるジョークのうちには、抜群に笑えるものもたしかにある(「1200kgに棒が刺さったものってなんだ」「答え:象のアイスキャンディー」)。そうではなくて、彼ら彼女らの笑いが、身体的な症状としての痙攣のように見えるからだ。実際、爆発的に笑い転げたあとの彼ら彼女らは、身体の制御を一時的に喪失したことにショックを受けるように、今度は爆発的に怒る。怒鳴り、立ちあがり、叩き、泣く。あるいは、笑ったことがそれ自体、笑われ、侮辱されたことであるかのように。

 映像の面から指摘すれば、笑い転げているとき、俳優の顔はほとんど正視できない。手のひらで顔を覆ったり、天を仰いだり、反対に下を向いたりしているからである。「顔」と題されたこの映画で、観客は、笑いの渦に巻き込まれるようにして、その「顔」をまじまじと見つめることを拒まれるのである。

 唐突は承知のうえで、単純な連想から、パウロのよく知られた言葉を引いてみる。「私たちは、いまは鏡におぼろに映ったものを見ているが、そのときには、顔と顔を見合わせて見ることになる」。伝統的には「鏡におぼろに映ったもの」がイメージのステータスとされ、そこから詩篇39の一節にも汲んでアウグスティヌスが語ったような「私たちは影(イメージ)の中を歩んでいる」という理解も生じてきた。この章句を導きとして、試みに「フェイシズ」とは「イメージズ」の対義語なのだと考えてみよう。

 垣間見ることしかできない笑い顔は、本来の(「シリアス」な)顔のイメージでしかない。たとえば実際の人物を前にしているのなら、こうしたテーゼには記号論的に複雑な論証が必要にもなるかもしれないが、これは映画なのだから、半ば隠された笑い顔はあくまで独立したひとつのイメージとして、別にあるはずの真の顔を不十分な仕方で指し示していると言うこともそれほど無理ではないだろう。すると、「フェイシズ」と題された映画で観客に与えられるのは、実際にはその大半が「イメージズ」であることになる。

 しかし映画は──倉庫の詩人たるトムにとっては──、あくまで偽装された夢であるとはいえ、それを見ているひとときには己れの人生では絶対に見ることのない「真の顔」を、代わりに見せてくれる何かではなかったか。「老いたトム」たちにとって、映画とは──エピグラフに引いたやりとりが示すように──性欲を逸らすための冗談じみた何かでしかない。それどころか、この性欲を逸らすという目的についてでさえ、映画はもはや真面目な何かではない(そういえばトムには、映画館に出かけることが性的な冒険そのものであった可能性もあったのだった)。フロイト主義をおちょくりながらジーナ・ローランズが嘯くように、いまや「トイレに行くことさえ性的」なのだから、要するになんであっても構わないのである。映画はもはや、自らが「フェイシズ」であると騙ることさえしない「イメージズ」の群れにすぎない。そして、イメージならどこにだってあるのだ。

 こうなれば当然、映画はもはや「フェイシズ」それ自体のことも、真剣に取り合いはしない。「老いたトム」たるマーレーは、映画の終盤に「シリアス」な顔をして、ジーナ・ローランズ演じる20代の女性に「何かシリアスなことを言ってくれないか」と頼むのだけれど、彼女の答えといえば「シリアスの定義──うんぬんかんぬんである」といったものだ。「イメージズ」の群れしかないのなら、「フェイシズ」の内容など、なんでも代入可能なそれ自体「イメージ」でしかありえない。お望みならなんだって見せましょう、けれども、もはやそれを「フェイシズ」だと偽るような滑稽さは勘弁願いたい──とでもいうのだろうか。実際、『フェイシズ』の中年たちは、自らは終始笑い転げているものの、自らが笑いの的になれば途端に顔を顰め──滑稽にも──怒鳴りだすのである。

 では、この映画でカサヴェテスが見事に撮りあげたものとは、「笑うものこそが笑われる」(後藤明生)という人間の喜劇的構造だったのだとして、しかしその構造を差し出す顔はといえば──私たちの語らいは天上にあるともいいますが、必ずその後には、「いまは……」とくるわけです──とでも言いたげな、メランコリックな微笑みが浮かんでいるだけだ。だが、「老いたトム」たちはそのような喜劇的構造を免れえないのだとして、笑われ役さえも気楽にこなしてしまうような若者たちの方はどうだろうか。

 役者の身体の水準で見ても、若者たちは、中年どもよりずっと期待が持てそうである。軍隊式の「起立」をネタに硬直した身体で笑いを取ろうとするマーレーとその友人に対して、それじゃ興醒めと割り込むローランズは、ソ連の官僚たちが娼婦に首ったけになって弛緩するコメディソングを朗々と歌い上げながら、軽やかなコサックダンスを披露する。ダンスクラブに出かけてみても座って話しているばかりの妻たちを、「楽しくさせるため」にナンパした学生風の男は、ロックンロールに合わせて軽やかにステップを踏んでみせ、呆然と眺めながら踵でリズムをとるのがやっとだった中年女たちの方は「これが、歌えもしない踊れもしない私たちの夫が恐れている新世代だわ」と呟くしかない。

 けれども、この「歌って踊れる新世代」が達成したことを正確にいうなら、それはただ、笑う中年たちの身体的な痙攣を、ちょっとばかし制御して見世物にしてみせたにすぎないのではないか。中年たちの痙攣は──ここまでの論旨からすでに明らかなとおり──「フェイシズ」と「イメージズ」の絶対的な断絶、古典的な言葉で言い換えるなら、「魂」と「身体」の断絶に由来しているわけだが、「新世代」たちはこの断絶が与えるメランコリーを適当にやりすごす術を獲得したにすぎない。なおも、この断絶構造は不問のままに置かれているのである。

 顔と顔を見合わすことのできない私たちの世の条件を、シニカルな笑いでやり過ごそうと試みても、その笑いそのものが痙攣にまで至り、いっそう痛ましいダメージを身体に刻みつける。現世における仮説的な超越の試みは、笑っているとき笑われるという人間的な構造のうちに挫折するほかない。歌って踊って、朗らかな諦めを生きようとする若者たちも、現実の死を前にしては、その軽やかな身体の軽やかさの無意味を浮き立たせることしかできない(気付ぐすりを探す学生風の男の役立たずの跳躍をみよ)。私たちのメランコリーを突破するには、やはり魂と身体の断絶こそを問わねばならないはずなのに。

 こうして論じてきて、ふと自らが『こわれゆく女』(1974年)の手前にいることに気がつく。『フェイシズ』から6年を挟んだこの映画で主題とされるのは、まさしくジーナ・ローランズのヒステリー身体であるのだった。しかし、そこでカサヴェテスが何をなしたのかを検討するためには、たしか今から10年ほど前(当時、私は中学生だった)、下高井戸シネマの特集上映で観て以来の「朧ろ」な記憶ではそれこそ心許ない。なんとしても、イメージフォーラムに出かけなくてはなるまい。

伊藤連(フランス思想・文学)

(私は『フェイシズ』を現在イメージフォーラム他で上映中の特集「ジョン・カサヴェテス・レトロスペクティヴ」内のプログラムとして、鑑賞した。本文中にも記したように中学生の頃に下高井戸シネマでカサヴェテスをぐうぜん観たのだが、それはちょっとした事件のような経験だった。今回の上映は、それだけに待望のものだった。)

イメージフォーラムでの特集上映については、以下のリンクから。https://www.imageforum.co.jp/theatre/movies/6354/


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