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「なんで子ども産んだの?」への答えを考える

カレンダーと噛み合わない遅さで、秋が深まっていく。双子の子どもたちの1歳の誕生日が近づくにつれて、妊娠中のことを思い出すことが増えてきた。からだの中で3つの心臓が動いていた日々。息をするだけで苦しくて、寝返りをうつことすらままならなかったあの頃。

産後の状態はひとによって大きく違うけれど、わたしはかなり悪い方で、半年くらい経つまではまともに日常生活を送ることができなかった。子どもが生まれた喜びに浸る余裕もなく、子のお世話をしながら自分も生きることで精一杯。

あの時期感じられなかった幸せとあふれるような喜びを、生活が落ち着いてきた今、じんわりと噛み締めている。

同世代から「なんで子ども産んだの」と聞かれる

産後に友人と会うと、だいたい「さらりんは子ども産むタイプだと思わなかった」と言われる。いつ時代からの仲であっても聞かれるので、自分って相当そういうイメージだったんだな……と思う。

子どもがいない友人からは、「(結婚してから)産むまで早くない?」、「なんで今にしたの?」などと聞かれることもすごく多い。話していくと、たいてい根底に「そもそもなんで子ども産んだの?」という質問がある

厚生労働省の人口動態統計によると、日本は、2023年上半期も過去最低の出生率を記録した。今みたいに、あらゆる意味でお先真っ暗な社会では、子どもを持ちたくないと考えるのは当然だと思う。親世代は違うかもしれないけど、同世代の中では、子どもを持たない人生ってかなり普通。

むかしは子どもを産むことが自然だった(のかもしれない)けど、今は子どもを持つのには理由が必要、という空気感。

産もうと思ったきっかけは、目的じゃなくて価値観

わたし自身も、もともとは子どもを持たないタイプだと思っていた。そもそも、「国家のために人口を増やすべき」とか「子育てこそが立派な人生の条件」というような考え方はむしろ嫌い。かなり嫌い。

じゃあなんで産んだんだと聞かれると、「〇〇がしたかったから」というような明確な目的はない。どちらかというと、20代後半になって、ひとつの価値観が定まってきたことがきっかけだった。

それは、この世の命にはすべて等しく価値があると(思い込む)こと。なんか壮大に聞こえるけれど、こういう漠然とした命題は、一つ抱えているだけで、生きるのをだいぶ楽にしてくれる。この価値観が、子どもを持つことへの過剰なプレッシャーから自分を解放してくれた。

過剰な不安が多すぎる現代で、他人を信じる機会の貴重さ

現代は、子どもを持つにあたって不安に感じることが多すぎる。

育児と仕事は両立できるのかな?
教育費は足りそう?
ところで日本の大学はレベルが低いって聞くし海外の大学いかせなきゃだめ?
ってことはおうち英語ってやつやらせなきゃだめ?
日本で就職しても豊かな生活を送れない?
子どもは税負担まみれ?
というか自分の老後は大丈夫だっけ?
そもそも健康に生まれてくるんだろうか?

SNSやニュースからインプットされてくるこんな不安を打ち消してくれるのが、さっきの価値観だった。

「すべての命に価値がある」と思い込むことは、生まれてくる子どもへの信頼につながる。よく、「子ども産むメリット……?うーん、大変だけどかわいいよ」なんて会話を聞く。実際自分もそれでお茶を濁すこともある。けれど子どもと暮らして感じたのは、無条件でひとを愛して信頼する機会が得られることが最大の喜びだということだった。ひとを信じたりするのが得意でない自分にとって、今までに感じたことがない幸せ。

子どもの人生に不安を感じすぎるということは、子どもを信頼していないのと同じなんじゃないだろうか。国も社会も信頼できないけど、子どものことは信頼できる。

子どもたちがお腹にいる時に、生まれてくる子たちがどんな子どもでも、彼(女)らを無条件に信じるのが自分の役割だと思えた。他の時代や他のひとと比べなくていい。その子の尺度で幸せになってくれればそれで。その気持ちが、1年経ったいまもずっと続いている。


そんな勝手な思い込みで、無責任に生命を誕生させていいのか、という疑問も感じる。でも、生まれてきた子どもたちに「こんな世の中に産んでごめんね」ではなく、「この世に生まれてきておめでとう」と思うことは、『君なら幸せになれるよ』というわたしなりの信頼のかたちでもある。

1歳が近づき、日に日にできることが増えていく子どもたちをみて思う。「きっとできるよ」と信じる時間をくれてありがとう。

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