生成AIでイラストを描く生活

何を生活の中心に置くかで人生が決まる。もちろん、いろんなことに興味を持つことはできるけど、職業は基本1つしか選べないし、向いていることや好きなことがそこまで幅広くない人がほとんどだと思うから、「自分が何に向いていて、何を生活の中心にするといい感じに人生が転がっていくのか」ということを考えるのは大事なことだと思う。僕は「創作」「作品作り」を中心にするのが合っているのかもしれない、と最近思ってきた。ちょっと前まで、好きなVtuberの乳首を舐めるだけの生活をしたいなとか考えてたんだけど、そういう生活は長続きしないし、自分らしく生きれないなと思ってきた。

自分を形作る軸をつくるための方法は、「街に出ると自分が何を考えるか?」がヒントになると思った。例えばかわいい小物を見つけた時に、「これ彼女/友達が喜ぶかな」とか考える人は人間関係を大事にしたい人で、「この景色良いな、描いてみたいな」と思う人は絵を描くとかクリエイター的なことがしたい人で、みたいな。どっちも思うとかいう場合は、「自分は街を歩きながらどのようなことを考えていると自分らしいかな?」という問いをさらに投げかけてみると面白いかもしれない。僕は、あそこの店が潰れたから経営難だったんだろうとか、そういう経済的なことを考えながら街を歩くのは苦手だなと感じる。「何も考えずに歩いてるよ!」という人は、スマホのメモ帳を片手に散歩中浮かんだ思考を書き出してみてほしい。10分ほどでも、自分がたくさん思考をしていることに気が付くし、その思考が自分にとってどんな意味を持つのか?どんな感情を起こさせたか?を考えてみると面白いと思う。

生成AIの良いところは、すぐに結果が出るところと、自分のアイデアが拡張するところ。自分で絵を描くと、想像したものを紙に書くために、大きな時間と労力を費やさなければならないし、自分が想像したものしか書けないという欠点があるけれど、ぼんやり想像したのをAIに言語で指示すると、そのぼんやり感がくっきり感になる感じが感動するし、ぼんやりがぼんやり2になる感じが「そう来たか」ってなってそれが新しい発想を生んでくれたりと、自分を表現する手段としても、自分という主体がどう感じるのかを知るためにもとても良いなと思う。「想像したものしか実像できない」というこの人間側の仕組みは、能力至上主義みたいな要素があると思っていて、生まれつき想像力の無い人が自分を表現することを制限してしまうことにも繋がる。こういった、「表出化しない能力を補助するためのAI」は、そのAI自身も表出化して「この能力の補助は任せてください!」みたいな面して寄ってこないので、敏感に感じ取るのが大事なんだろうなと思う。

あとは、みんなが思いつかない組み合わせを考えて一つの絵にする、というところも楽しいポイントだ。今日は「マリオカートに乗りながら鎖鎌を振り回す初音ミク」のイラストを作ってみて一人部屋で感動していたのだが、「この要素とこの要素が組み合わさることでこんな味わい深い世界が実像できるのか!」という新たな発見が刺激になる。人は年を重ねるごとに「自分の性格、能力は変わらない」というマインドになっていくけど、これからのAI時代ではそんなマインドは役に立たないものになると思うし、むしろそもそも、「今の自分のままでいたいという保守的な防衛本能」の方が手放したい要素であることに気づくと思う。まぁ、変わるって何って話があるし、解釈の余地が人によってズレる言葉を乱用するのが嫌いなのでシンプルに言うと、「貴方は世界の実像者である」ということです。言葉に意味を与えるのも、感情に意味を与えるのも、全て内的なもので、外からの要素はそれを補助する役割に過ぎないのです。個人主義的にならないため補足すると、人間はみんな永遠に補助輪を外せない小学生のような存在で、その補助輪を含めて自分である、ということで、自分も誰かの補助輪である、ということです。

こないだ芥川賞取った人が、「音楽聞く時と文章書いてる時同じ脳の領域を使っている感じがする」と言っていて、僕はそこまでは思わなかったものの、確かにこの2つは近いところにあるなとは思うし、アートはそことは遠いところにあるのかなという感じはする。ただアートにも2種類あって、Twitterで流れてくるエロい二次元の女の子とかは、脳死で見てチンピクするって感じで受け身的な態度でも娯楽として成り立つんだけど、新しい概念同士の組み合わせとか、見慣れない構図や書き方をしているアートを見ると、今までの経験から測れないものを見たと脳が認識し、これは何なのかということを「考える」モードになる。この「考える」ということは、つまりアートとの対話であり、生まれた頃の赤ん坊がお母さんの反応を見ながら成長していくのと同じような、純粋な世界との繋がりを体感するプロセスです。まぁもちろん、音楽や文章にも新しいものはあるだろうけど、少なくとも僕は今の生活でアートがその役割を果たしているな、ということです。でもみんなにとっても新しい体験って、アート的な要素があると思うんですよね。この世の苦しいこともアートにすることでチャラになるっていうか、理不尽が不条理によって調和されるというこの世界の理解できない側面に触れることができるし、不条理の役割の大きさと論理のバランス感の不透明さについてぼんやり考えることで思考が柔軟になるんじゃないかな、とか思ってます。これからの世界は、そういったアートを技術不足により他人からしか享受できなかった人が、自分の内側から出たアイデアにより生み出すことができるようになり、アート側も自分の意思により柔軟に変化してくれるっていうプロセスがどんどん加速していって表現の幅が増えると思うので期待している。この世界の変わりようは結構革命だと思うし、「世界ver2,0」来たなと思う。ただまぁ、アップデートされたところで新verに価値を見出すのは人間だから、体調管理などをして整った心でその光景を味わうっていう側面も大事なので、新しいことを考えすぎて疲れたら知っているものに触れて安心する時間も大切にしていきたいと思う。

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