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うちにも居たい、旅にも出たい気配

どうやら天気が悪い日の3回に1回くらいは頭が痛くなる。
そのことに気が付いたのは、
発した言葉は必ずどこかで誰かを傷つけていることに気がついたその季節と同じだった、かもしれない。

一緒に暮らしているパートナーとの生活では当然あまねく全ての恋人同士同様にケンカをするし、仲直りもする。
心のうちにとどめておいた言葉を発する時、
僕たちは傷つけ合い、同時にその傷を癒やし合う。
営みの実体に触れるのは、案外その前後なので諦めて言葉を用いて会話することを続けるつもりだ。
それを生活だとしよう。

面と向かって傷つけ合うなら傷ついた場所が分かるからまだ良いと思うのだが、
言葉は広範囲で無意識のうちに他者を傷つける。
直接にも、時には内省させる形で。

だから、どことなくエッセイを書くことを避けていた。
自分の内面に、時に自身の過去に僕が向かい合って、
その結果の言葉を発散することを怖いことだとしていた。

久々に文章を書くからと言って何かあったわけではないんだ。
誰に言うでも無いけれど、
本当に何かあったわけではないんだ、と言っておく。
強いて言うなれば、
サカナクションが新しいアルバムを配信したからだとか、
今日の仕事の帰り道に目に止まった消火栓の赤い看板と青空のコントラストが心地よかったからなんだ。

話しをするより聞く方が何かと辛いと思うんだ、
苦しんで話してくれる話しを聞く苦しみもある。
聞いてしまったら最後、花粉症の症状に気がつくことと同様に、元の世界には戻ってこれない列車にうっかり乗りこんでいることだってあるだろう。

知らなくて良いことは知らなくて良いと思うのだ。
開けた場所、明るい場所、あまり人のいない場所に行ってしまいたくなるし、反面では、この住み慣れた相方との家を出る気も無い。

1人になる気もないし他者とも近い距離でいたいわけではなくて、パートナーと2人っきりでプライベートビーチのような場所があればそこで330mlの瓶ビールを飲みたいし、
“この間2人で行った近所の愛想の良い焼き鳥屋さん”にだって行きたい。

どっちもいいし、だから、どっちかだけを大切にすることはできない気持ちなんだ。
人との近さも知らなさもどちらも必要なんだ。
言葉を用いることで自分も傷つくし、傷つけてしまう近い距離の人を大切にして、
お互い傷つきにくい人とは一緒にはいないんだろうと。

言葉は用いていい。だから、言葉で人を傷をつけてしまってもいいんだってこと。
でも、傷はつく。
傷つくことを必ずしも悪いことだとしないでいたい。
お互い傷つく覚悟めいたものがあればそれがいい。
一千年先の木々になれるならばなりたいけれど、
そうじゃない。だから、今ここに居たい気持ちも、
どこか旅に出たい気持ちも両方抱えて毎日を生きていくのだ。

何が言いたいとかではないのだけど、
今ここで、
傷つくことと言葉のこと、
毎日を過ごしているここに居たい気持ちについてと知らない世界を見に行きたい気持ちについて触れてみたくなったんだ。
何かあったわけではなくて、
欠けたり満ちたり、隠れたり明るかったり暗かったりする月の今を見たいから歩き始めたんだ、まだ日も暮れてないのに。
それぐらいぼんやりと軽い気持ちで書き始めた。

散歩のような散文。
書かなくたっていい駄文を書いてしまう、この営みの許しを請う。

どこかへ歩き出して、何故か立ち止まって、いつかを振り返って何かを見上げている。


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