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ケサランパサラン

小松菜を1束、適当に刻んだ。

お昼ご飯にインスタント塩ラーメンを食う。
刻んだ小松菜とネギだけ入ったままごとの様なラーメンを食い終わる頃、
僕は1人の休日に飽き始めていた。
だから、さんぽへ出かけることにした。
「この世界を震撼させるような劇的な言葉や鮮烈な景色を探したい。」なんて言ってさんぽに出る人は珍しい人だ。
普段使いの商店街を、普段着のまま、いつもの音楽を聴きながらただ漂よう様に歩いた。

商店街へ行くまでの道中、ネコを見つけた。

いつもの野良ネコだ。
人に慣れすぎたネコ、そのネコが棲む道を行き来する人全員に飼われていると言っても過言ではないネコ、僕と僕のパートナーはそのネコをブロッサムと呼ぶ。
ブロッサムは、片耳が切れていて桜の花びらの形をしている。
ブロッサムが棲む道の掲示板には、さくら猫と紹介されている。
去勢しただか、注射済みだかの証明に耳の端が切れているらしい。

僕はネコが好きだ。
飼われてしまっていることに無自覚な野良ネコが好きなのだ。
数少ない好きなものの1つで、1人で歩いている時、うっかり野良ネコを見つければ、「にゃー こっちきい」と由緒正しい人語で話し掛ける。
それをしないと、僕が僕でなくなってしまう気さえする。
ネコはそれを無視して歩き始める。

それで良いのだ、と僕も再び歩き始める。

月曜日の商店街は火曜日の商店街と何も変わらないし、これが金曜日の商店街だと言われても何も気にならない。
人はこの飲食チェーン店と不動産屋だらけの商店街を退屈な商店街と言うかも知れないけれど、確かにそうなのだけど、僕は割と好きだ。
生活なんてそんなもんでしょ、と思う。

昼間と夕方の間の時間、おじいちゃんとおばあちゃんと無数の自転車を回避しながら、いつもの本屋へ行く。
梶井基次郎の「檸檬」を30行ほど立ち読みして、雑誌を読むと見るの間くらいの感覚でパラリパラリとめくることを3冊くらい繰り返した。
特別用事のない本屋へ寄ってしまうのはなんでなのか。

今日の晩ご飯は、麻婆豆腐にすると決めている。
豆腐が半丁しか冷蔵庫に残っていないことを思い出し、いつものスーパーまで歩く。
短パンの僕は、まだまだ夕暮れとはいえない熱を帯びる日を浴びながら、ケバブ屋の匂いがする6月の風とともに歩く。

なんとなく今日は、少し遠いいつものスーパーまで歩くのが嫌になった。

「豆腐だけだし」そう思って普段使わない、
品揃えが高級路線の近くのスーパーで100円しない絹豆腐を買った。

あと何時間かすれば、少しの昼寝をすれば、すぐにでもパートナーが仕事から帰ってくる時間になるだろう。
僕はパートナーを待っているし、そのための豆腐でもある。
それと同時に、今日の仕事を終えたパートナーを迎えるということは、つまりは僕の明日の朝を迎えることと同様なのだ。
僕の朝は早いし、明後日の朝は明日の朝よりもっと早い。
それが嫌ということではなくて。むしろすっかりこの身体に馴染んでしまって、改めてそういう生活そのものに付随した機微を言葉にすることも出来ないなと思うのだ。

商店街は今日も明日も変わらずに生活の足場を整え、
野良ネコには明日も今日も同じだけの1日がある。

だから僕にも、僕とパートナーの生活を整えることが出来るし、
明日も今日も、明後日も、同じくらいだけ稼ぐ1日がある。

僕がまだ若かった頃、大学生上がりだった頃、2、3年前、
意識的に何かを名付けようとしていた。
人と人との関係も、何者でもない自分も、夜明けの薄暗さも、夕暮れの景色も、よその家から香ってくる夕飯の香りも、全て語り尽くせると思っていた。
名付けて、心の余白に納めて、カタチの無いものさえも手に取ってみようとした。
それをエモーションだとしていた。
一瞬の煌めきの中にあるものを特別で優れたものだとしてきた。

けれども今ではすっかり、普段の、普通の、当たり前の、みんなの、よくある、繰り返されるものであることを知ってしまったし、そういうものが良い。

あるかどうかは知らないけれど、それをあるものだとして「普通」を目指す物語へと章が移った気がした。

アパートの入り口から玄関へ向かう途中、ベランダに干していたバスタオルが風になびいてしゅるりと落ちるのが見えたから、少し慌てるようにして家へ戻った。

パートナーが婚約指輪のお返しにと新調してくれたソファで、僕が書かなくても誰も困りはしないこの文章を書いていた。

その、言葉をパソコンのデスクトップに並べ立てる行為が、歩き始めたらなんとなくで本屋に寄ってしまうことと似ていることに気がついた。

それは、僕にとっては悪くない、むしろささやかにでも心地の良い気づきだった。
何かを少しだけでも許された気持ちがした。

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