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けさのまにえふしふ

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けさのまにえふしふは、テルヤが朝に読んだ万葉集の歌について、ひとり読書会よろしく、あれやこれや呟いたものである。
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記事一覧

けさのまにえふしふ95

妹と言はば無礼(なめ)し恐(かしこ)ししかすがに懸(か)けまく欲しき言(こと)にあるかも(12-2915)  妹登曰者 無礼恐 然為蟹 懸巻欲 言尓有鴨 けさのまにえふ。「『妹』というと無礼で恐れ多い。しかし、口にかけたいことばだなあ」 正述心緒。現代的には、「彼女」とか「恋人」って呼びたいなあ、という読みだろうし、まあ実際そうなのだろう。 ただ、ここにきて、妹って、明らかな条件のようなものがある言葉だったのか、という驚きがいなめない。検索してみると、妹は「親しみを込

けさのまにえふしふ94

うたがたも言ひつつもあるかわれならば地(つち)には落(ふ)らず空に消(け)なまし(12-2896)  歌方毛 曰管毛有鹿 吾有者 地庭不落 空消生 けさのまにえふ。「きまったようにも言いつづけていらっしゃるよ。いいえ、私なら、地に無残に落ちたりせず空中で消えましょう」 正述心緒。この歌はよく分からないよね。「うたがた」からして定説がないらしい。いちおう「未必」の意味らしいが、「はっきりしない」ようなもので、方丈記の「泡沫(うたかた)」へとつながっている、らしい。 で、

けさのまにえふしふ93

人言(ひとこと)の讒(よこ)すを聞きて玉鉾(たまほこ)の道にも逢はじと言へりし吾妹(わぎも)(12-2871)  人言之 讒乎聞而 玉桙之 道毛不相常 云吾妹 けさのまにえふ。「他人の言う悪口を聞いて、玉鉾の道の行きずりにも逢うまいといっている吾妹よ。」 正述心緒。あのー、あれですよ。お互いを意識しているけどまだ付き合ってない二人が、友達に「この人だれ?」と訊かれて「ただの友達です」って答えたもんだから、相手までひそかにダメージ受けちゃって、友達去ってから「友達って何だ

けさのまにえふしふ92

このころの眠(い)の寝(ね)らえぬに敷栲(しきたへ)の手枕(たまくら)まきて寝まく欲(ほ)りする(12-2844)  比日 寐之不寐 敷細布 手枕纒 寐欲 けさのまにえふ。「近頃は眠られないままに敷栲の手枕をまいて寝たいと願うことだ」 巻十二。正述心緒。手枕ってのは腕枕で、腕枕は一人でも横寝で可能だが、手枕"まく"となるとこれは二人だ。でもこれ、まさか口説き文句じゃないよね。「最近眠れないんだよね、一緒に寝ない?」どんだけプレイボーイだよ。 いやまあ「きみと寝ると安心

けさのまにえふしふ91

里中(さとなか)に鳴くなる鶏(かけ)の呼び立てていたくは泣かぬ隠妻(こもりづま)はも(11-2803)  里中尓 鳴奈流鶏之 喚立而 甚者不鳴 隠妻羽毛 けさのまにえふ。「人里の中に飼われて鳴くような鶏とは違って、呼び立てて大声で泣くこともない隠り妻よ」 この感性なあ、と思う。これ、隠り妻へのいじらしさみたいなことをうたってるんだよね? 鶏のこと「かけ」って、まんま鳴き声やん、という感想がすっとぶね。 ただ、あまりに演歌的なので、本当にその読みでよいのか疑問はある。

けさのまにえふしふ90

天地(あめつち)の寄り合ひの極(きはみ)玉の緒(を)の絶えじと思ふ妹があたり見つ(11-2787)  天地之 依相極 玉緒之 不絶常念 妹之當見津 けさのまにえふ。「天地が接する果てまで、玉の緒のように仲が絶えまいと思う妻の家のあたりを、私は見た」 これ、「君んちの方を見た」というだけの歌なんだよね。でも情報が多くて、面白い歌だ。 まず「天地の寄り合ひの極」、これいわゆるhorizonのことだけど、地平線っていうほどこの国は平らじゃないので、まあ峠の向こうくらいの意味

けさのまにえふしふ89

神名火(かむなび)の浅小竹原(あさじのはら)のうるはしみわが思ふ君が声の著(しる)けく  神南備能 淺小竹原乃 美 妾思公之 聲之知家口 けさのまにえふ。「神名火山のほとりの浅小竹原が美しいように、美しいと思うあなたの声がはっきりと。」 これも寄物陳思だけど、というより序詞を駆使したテクニカルな歌。 ふつう、序詞は、「刈る萱(かや)の束(つか)の間」みたいに、「つか」の音を次の言葉につなげる「音変換」を行なうのだが、ここでは、「うるはしみ」を同じ意味で使いながら「

けさのまにえふしふ88

志賀(しか)の海人(あま)の火気(けぶり)焼き立てて焼く塩の辛き恋をもわれはするかも(11-2742石川君子)  壮鹿海部乃 火氣焼立而 燎塩乃 辛戀毛 吾為鴨 けさのまにえふ。「志賀の海人が煙を立てて焼く塩のように、辛い恋をも私はすることよ」 志賀は九州の志賀島。そこでは海人が海藻を焼いて塩づくりをしている。で、ここから恋につなげるのに塩の「味覚」を使うのは、新しいよね(1000年以上前だよ)。 1982年に糸井重里が「おいしい生活」というコピーを考える前に、「塩辛

けさのまにえふしふ87

玉藻刈る井堤(ゐで)のしがらみ薄(うす)みかも恋(こひ)の淀めるわが心かも(11-2721)  玉藻苅 井提乃四賀良美 薄可毛 戀乃余杼女留 吾情可聞 けさのまにえふ。「美しい藻を刈る柵が水をせきとめるように、恋をせきとめるものが薄いから心がかえって燃えないで恋しさが淀んでしまった私の心か」 寄物陳思。寄物陳思は観察ではない、みたいなことを以前書いたっけ。もしこれが観察による歌ならすごいことだと思う。たぶん違う。 なんというか「障害があるから恋は燃え上がる」というプロ

けさのまにえふしふ86

かくばかり恋ひつつあらずは朝に日(け)に妹(いも)が履(ふ)むらむ地(つち)にあらましを(11-2693)  如是許 戀乍不有者 朝尓日尓 妹之将履 地尓有申尾 けさのまにえふ。「これほど恋に苦しみ続けていないで、朝となく昼となくいつも妻が踏む土ならよいものを」 そうか、万葉時代にも変態はいたんやなあ、と思ってしまいがちな歌だけど、それは現代が変態な時代の読みなんやで! たぶん!(たぶんかい) この歌、わりとテンプレになっていて、上の句(こんなに恋に苦しんでいないで、

けさのまにえふしふ85

馬の音のとどともすれば松陰に出でてそ見つるけだし君かと(11-2653)  馬音之 跡杼登毛為者 松蔭尓 出曽見鶴 若君香跡 けさのまにえふ。「馬の音がどんどんと響くと、松陰に出ては見た。あるいはあなたかと思って」 シンプルでいい歌やね。現代においては連絡なく会うことはサプライズとされて、うれしいか引くかのリスクをともなう行為なので、ぱっと読むと、一度関係が切れてからの歌と読めなくもない。 君を待っていても来ない歌としては、額田王の「すだれ動かし秋の風吹く」が1000

けさのまにえふしふ84

燈(ともしび)の影にかがよふうつせみの妹(いも)が笑(ゑ)まひし面影に見ゆ(11-2642)  燈之 陰尓蚊蛾欲布 虚蟬之 妹蛾咲状思 面影尓所見 けさのまにえふ。「燈の光に輝きつづける現実の妻の笑顔が、今面影に見えるよ」 これいいよなあ。「ともしびに照らされてるきみのいまの笑顔が、なんだか面影のように見えるよ」だよ。ちょっち現代的じゃない? でもたぶん元はそういう意味ではないんだろうね。「明かりを使ってみたらきみの顔がはっきり見えるよ、笑ってるのが」くらいな意味が

けさのまにえふしふ83

思ひ出(で)て哭(ね)には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ(11-2604)  念出而 哭者雖泣 灼然 人之可知 嘆為勿謹 けさのまにえふ。「私を思い出して涙にくれることはあっても、はっきり人にわかるようにはお嘆きになりませんように」 正述心緒。なかなか、ポエジーじゃないよね(笑)。現代的な読みだと、関係のあとの、身勝手なキツい歌に読める。 正述心緒って、つまり「本音トーク」のコーナーだったかもしれない。そういうコーナーを設けないと、言わない民族。身に覚え

けさのまにえふしふ82

言(こと)にいへば耳にたやすし少(すくな)くも心のうちにわが思(おも)はなくに(11-2581)  言云者 三々二田八酢四 小九毛 心中二 我念羽奈九二 けさのまにえふ。「ことばでいってみると大した事でもないように聞かれるだろう。心の中では少々の事とは思っていないものを」 正述心緒。♪なんでもないようなことが〜。ちょっと違う。心がアメーバのように不定形で、言葉は豆腐を切るようにすべてを伝えることができない。普遍的かもしれない、心と言葉のテーマだ。 言文一致が話し言葉と