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三月歌舞伎座 第一部《花の御所始末》感想

皆さんご覧になったテイで参りますのでネタバレされたくない方は今すぐ画面を閉じてください。



 
今月の歌舞伎座《花の御所始末》は、主人公義教の、アイデンティティの喪失と再獲得の物語だとわたしは思った。
義教が次第に心を病んでゆくのは、「良心」のためだと解説されるけど、“アイデンティティが揺らいでいく不安と孤独” が大きいと思われて、それが脚本から(ひいてはインスパイア元の《リチャード三世》から)そうなのか、それとも幸四郎丈の演じ方なのか、気になるところであったけれど、どうも幸四郎丈の解釈によるのではないかと感じてきた。日を追うごとに、内省的というか、義教の意識が、内に内に、萎びた葉が丸まるように渦を巻いて向かう傾向が強くなっているように思うのです。
 
さて、順を追ってみてゆきましょう。キーパーソンは「父の腹心」管領・畠山満家です。(芝翫丈の満家、めっちゃっめっちゃに適任でいらした。は~~~ありがとうございました…… 心から……。)
 
一幕の柳の広場の場、義教から満家への関心がよく分かる。才覚光る畠山満家を、一人の男として彼は買っているふしがある。凡庸な父よりも。父義満は、時の将軍の地位にはあるが、権高い妻の一瞥に委縮する、病で衰えた老人である。男としての第一線を既に退いたような父に比べて、この場の=この日の満家は堂々として、図太く、輝きを放つように自信に満ちている。野心を見せてギラつく義教の、目指すべき姿として完成されている。
 
その満家からの叱責の言葉にキッとなる義教、自分のことでなかったと分かって表情を緩める義教、「はにかみ屋」と内面を評されてまんざらでもない顔を見せる義教……
殊に顕著なのが「妙案あり、近う」と満家を傍に呼んで策謀を打ち明けた後である。
満家はこってりとした笑顔のまま成程と頷き、「では」とだけ言って去ろうとする。義教、その反応に拍子抜けのような物言いたげな表情になり、結局「満家、」と呼び止める。「余の案はどうじゃ」
問われて、満家は感想を述べる。「ご立派な案にござります」
そこでやっと、義教の顔に安堵と自信の色が浮かぶ。
続けて満家は昔語りを交えて義教の成長を讃える。それに対して、ニヤリと笑んだ義教の返しは「生まれた赤子も、三年経てば三歳」。己だけが特別なのではない、時が経てば誰しもが育つであろうと、これも彼の “はにかみ” である。後に在る、天下人である父からの褒め言葉には悠然と受け答えできるのに、満家からのそれは、はぐらかす。照れがあるのだ。本心から嬉しいためだ。
義教は満家を、成熟した男の理想形としてとらえている。家来筋であるが、優れた人物として一目置いていることが感じられる。その、己が立派に思っている男から褒められるから、喜びを噛みころすのだ。
 
(ちなみに鑑賞の二回目以降、入江がそちに想いをかけておる、と左馬之助に告げた後で義教が笑って言う「どうだ満家、そちの倅も余に劣らぬはにかみ屋だ!」にドボボボ……と泣いてしまう。同じなのは……実の兄弟だからだよ……!!)
 
二幕一場の金閣で、不意に現れた満家に義教はぎょっとする。血の繋がりを聞かされたばかりの本当の父、しかもその大事な跡取り息子が己のために命を絶ったばかりの男である。関係性の転換による混乱、思いもよらぬ出現による動揺、そして、左馬之助の死によって己が嫌われるのでないかという恐れ。義教の表情は固く、言葉は少ない。
しかし義教が注視する満家の様子は平素のままだ。落ち着いて、堂々とし、ふてぶてしくさえある。
嫌わないのか。この余を。嫡男を失ってなお、余を責めも見捨てもしない。それほどに余は特別なのか。この男に、心底大切に思われているのか。
じれったく寝所を抜け出て、すり寄ってきた北野を掻き抱いてなお、そちの女は余が貰ったと見せつけてなお、満家は鷹揚に笑っている。構いませぬ、男として負け申したと示している。そうか。そうなのか。余は許されている。愛されている、この満家に。義教はそう確信を得たのだと思う。
 
しかし、この場の幕が下りる間際、満家は顔を下手へ向ける。義教には表情が見えない角度である。芝翫丈はそこで眉根を寄せて目を細め、悲しみを見せた。
初めの数回、わたしはこの表情を、血気盛んな青年に女を獲られた、初老の男の苦みと見た。けれど何回か観たあとに、義教には隠した、左馬之助を失くした痛切な悲しみだと気づいた気がした。
満家の野望のためには、義教からの盤石の信頼が絶対に必要である。二人の間に、禍根は勿論、些細な傷ひとつ生じさせるわけにはいかない。ゆえに息子の死を悲しむ本音はちらとでも出してはならない。完全に隠し切らねばならない。そしてそれが出来る度量をもつ男が、義教の憧れた管領満家だった。
眉すら動かさない冷淡さと見えた、そう義教には見せきった、野心家満家の、観客だけが見ることのできる一人の父親の悲しみが、あの数瞬の表情だったとわたしは思った。(泣いた)
 
この二人の、目指すところを同じくした共謀者として最も幸福であった地点が、義嗣を縊死させた直後である。ずけずけとした親しみと、同時に家臣としての分をわきまえた慇懃さを、畠山満家はきっちりと示す。天下をとるのは義教であり、自分はその懐刀に過ぎないのですと。どちらも優れた男として、互いに相手の力量を認め合い、信頼し合い、父子の関係も陰で認識し合い、強固な関係が構築されて、義教の栄光はここに輝きだしたのである。
 
だからこそ、次が辛い。
三幕、謁見の間。既に将軍職にも馴染み、大国の使者にも堂々と対峙できる、一国の王たる義教。その権勢は揺るぎないが、白い顔の鋭い目の下には既に青みが差している。
そこへ、不吉な存在として現れる満家。齢を重ね、肉体の全盛期は遠く過ぎ、足取りはおぼつかず、声は渋みを失って甲高くひょろつく。髪は白いものが目立ってぼそぼそし、顔には老人斑がまだらに浮かび(※指先でちょんちょんと砥の粉をつけたようなお化粧でした)、満家の存在そのものがこの空間のシミのよう。同時に、義教の人生にとって消えない汚点のようでもある。
理想を体現していたかつての威容は消え去り、くだくだしい訴えを垂れ流す厭らしい老人となった満家。眼前から遠ざけようとも、己の人生から切り離せない、執念くへばりついた忌々しい者。その声に耐える義教は、傲然とした無表情を保ちながら、重たい暗雲を纏ったように陰鬱だ。
それでも、彼は満家を手なずけようとして見える。いいかげんにあしらって、宥めて帰そうとするように。この鬱陶しい老いぼれを、まだ無傷で追い払ってやるだけの義理と温情が、義教には残っている。
そのいくらかの温もりを、ぱたりと消すのが、満家のこぼした台詞である。「たった一人の我が子」と、左馬之助を指して満家が言った途端に、義教の心が、フッと離れる。
余もまたお前の子ではないのかと。実の父から、息子と思っていないのだと、愛した我が子は誠心に散ったあの左馬之助だけなのだと、そう言外に告げられて、義教は急に冷める。秘中の秘として内密にしていても、互いに親子の親愛と絆を感じているのだと、そう信じていた男との繋がりが、ぷつりと断ち切られる音を聞く。(こうしたことを、以前の満家なら良好な関係保持のために決して言わなかったであろうことを口走ってしまうあたりが、満家の耄碌を示してもいる)
お前の子でなければ、余の親は誰なのだ。あの凡庸な、将としても男としてもつまらない義満の血をひいた息子と思わねばならぬのか。
心のどこかで頼りにしていた繋がりが絶たれて、義教の足場は宙に浮く。そこへ満家が追い打ちをかける。貴方は前将軍の子ですらないと。本当の父はこの畠山満家、権勢を誇った有能な管領職の満家でなく、今の老いさらばえた満家だと。その倅に過ぎないのだと。黙れ、黙れ。義教は混乱する。自分は己が見込んだ実の父に愛されておらず、由緒正しき血筋でもなく、貴人の妻を寝取った汚い男の血をひいて、簒奪者として此処に在る。その事実を彼は突きつけられる。今や認めたくない父親に。
混乱と激昂の中で義教は父を殺す。かつて自分もそうなりたいと憧れた男の成れの果てを、自らの手で葬り去る。
その自分とは、何者なのか。
義教の混乱は収まらない。いま息の根を止めた男は、かつては父の腹心で、自分を将軍の座に押し上げてくれた切れ者で、理想の姿で、実の父で。
「生かしておかれぬ人間だ」と、説明がましく彼は言う。当然の処置だ、と自らに言い聞かせるように。
しかし近づいてきた北野には、そんな言葉は不要のようだ。彼女に動揺は少しも見えない。蠅を殺したほどにさえ。かつて大恩を受けた愛人の最期だというのに。
なぜ悲しまない、と問うと、なぜでも、と返す。過去のことなどお忘れなさいと。わたくしは疾うに忘れていますと。
義教は茫然と立ち尽くす。この女は過去を見ない。時は刻々進んでいる。自分だけが、過去に囚われて動けない。周りじゅうの何もかもが、自分を正当な将軍として崇め奉って流れているのに。
余は何なのだ。どこから生じて、どこへ行くのだ。
渦巻く内面を抱えたまま、義教は将軍の殻をかぶる。将軍として、流されてゆく。
 
四幕。御所の居室。
義教の面窶れはもはや凄まじい。彼が幸福でないのは明らかだ。
若き日に燃えるような意欲で追い求めた将軍職に就いて長い時が経っている。世情は怪しく鳴動すれど、御所の中は安穏と停滞している。饐えた水のようにどろりとして動かない。義教の心も、もはや倦み疲れて淀んでいる。自分は何がしたかったのか。何を欲していたのか。生きていても喜びは無い。だが、己から生を手放そうという意欲も無い。何も湧かない。感じない。満たされない。満たされない。満たされない。
このときの義教は、どうかすると死んでもいいと思っているのかもしれない。死者の全員を恐れているわけではないからだ。手に掛けた兄や父の亡霊からは身を離すが、満家の亡霊には、手を伸ばす。救ってくれと言わんばかりに。
しかし、能舞台へ向かうときには、満家からも視線を外す。そちらに行くわけにはいかぬと、知っている。対外的な、社交の場へと赴く意識が、義教の僅かな意欲をこの場と現世に繋いでいる。たとえ中身が虚ろでも、将軍の殻を脱ぐわけにはいかない。
 
その心を燃え立たせたのが、土民一揆の急襲であった。突然の緊張、けたたましい襲撃が、義教の生存本能に火をつけた。反射のように敵を倒す。斬りつけ、薙ぎ払い、蹴倒し、生きる。淀んでいた意識が生に向かう。あの青年期の獰猛さが、己ひとりが世界の全てだった傲慢な価値観が、漲って殻の内側を満たす。自分は生きる。生きるべき人間だ。下郎の血を啜ってでも、将軍たる余は生きてみせる。
 
井戸から這い出した義教に、因縁の下郎が向かい合う。あの頃の、野心に燃えていた若き日の記憶と感覚が蘇る。そうだ、それが余であった。将軍義教、と相手は迷いなく言い放つ。そうだ、余は間違いなく将軍だ。まごうかた無き、天下の将軍足利義教だ。そこへ妹さえ現れる。二度と兄とは呼ばない、と言って別れた妹が、今またあの頃のように、「ちい兄さま」と呼んだではないか。自分を兄だと認めたではないか。
この最後の場の義教は、ことさらに自らを「将軍」と呼称する。そうして対峙する行秀を下郎と呼び、土民と呼ぶ。貴様と余とは位が違うのだと、己の特別性を強調する。その口調のなんと活き活きしたことか、嘲る声音の愉しげなことか。
もしも一揆に襲われなければ、彼は屍のように腐った日々を鬱々としてまだ何年も生きたかもしれない。けれど急襲を受けたことで、命の危機に見舞われたことで、貪欲な己の性に立ち返り、また過去の確かな関係性の中に在った下僕と妹との再会によって、己の足場を取り戻せた。
自分は、王になるべくして生まれた人間。そしてその通り一国の王者となった者。
地獄に落ちても、王となる。それが余だ。
ここに於いて、義教の自己同一性は完全に復活する。
彼は死に臨むことで、再び充足を得たのである。
 
 
 
――――― っていう見方に、最新の回で思いがけなく至ってバカ泣きしました。
良かったね、良かったね義教、自分に立ち戻れて良かったね、という思いで、押し当てた手拭いを貫通して嗚咽が漏れてしまいそうだった。“アイデンティティの物語” として観るとこれは義教のハッピーエンド…… いや死んじゃいはするのでメリーバッドエンドというやつか。
 
〽花の御所 花の御所と囃せども 花は散るもの散り果てて
あとに蔓延る草の名問えば 名無し小草 名無し小草のめでたさよ
の戯れ唄も、ほんとうにうまいなと思っている。
正統な血筋でない不義の子義教という雑草が将軍の座に「蔓延っている」とも読めるし、「名無し子草」とすれば、二人の父親から関係を断ち切られた(→〇〇の子、という名乗りができない)宙ぶらりんの孤児という義教のコンプレックス(※わたしの解釈です)を刺激するものとも読める。
 
北野のキャラクターの変化とか、入江のこととかも書きたいのですが、それは出来たらまた改めて……。
 

しかし、場の確認で筋書を見てつくづく思ったんですけど、これ筋書読んで受ける印象と実際の(今月の)舞台の印象がぜんっぜん違いますね。すごいな。
《寺子屋》で源蔵を松緑丈と日替わりでされていたのを見比べて、こうしろさんのほうが内面に篭もるな、と思ったのだけど、今回も同じ傾向が出た気がしますね…… 苦悩する人間の精神を描き出してみせている。 そういえば《大江戸リビングデッド》でもそうだった。わたしは好きです、その方向。

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