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《籠釣瓶花街酔醒》勘九郎丈の次郎左衛門感想

二月猿若祭初日、勘九郎丈の《籠釣瓶》次郎左衛門は、何よりも顔貌コンプレックスが基盤にある、と感じられた。
(前に観た勘三郎丈版の感想はこちら → シネマ歌舞伎《籠釣瓶花街酔醒》感想|猿丸 (note.com)

ひどい痘痕面で、初めて自分の顔を見た者は(ストレートに表すかどうかの差異は有れど)ぎょっとするのが当たり前で、だから次郎左衛門本人も慣れっこで、それが自分の定めなのだと諦めて、受け入れて、────でも確かにその都度傷つき寂しさを覚えていた人らしく思われた。
しっかりと壮年だった勘三郎丈の次郎左衛門に比べて、まだまだ九丈の次郎左衛門が恋に親しむ年代で、かつ九丈が青年をなさるときに立ち上る優々しいナイーブさが、裕福であるがユニークフェイスという枷を負った次郎左衛門の哀しさを浮き彫りにしてるのだと思う。

勘三郎丈の次郎左衛門の痘痕は「女にモテない」「あれさえ無ければ」の説明としてキャラクターに付与された特徴、という、云わば物語を組み立てる上で必要な設定 "でしかない" 感じがしたのだが、(それは勘三郎さんのごく自然な陽の気配によるのかもしれない)
勘九郎丈の次郎左衛門の痘痕は、彼の人格形成と不離一体に存在した暗い陰として生々しく感じられた。
要するに、『この人は、(対異性を含む)対人関係に際して辛い思いをたくさんしてきたんだろうな』ということをより大きく感じたのである。
栄之丞が出てこなければそこまではっきり彼の顔に対して意識が向かなかったかもしれない。でも脚本上出てくるのである、あんな、どっからどう見ても問答無用の【いい男】が。ヒロインを挟んで対極に。

次郎左衛門の、八ツ橋への恋は、金さえ払えば応分の扱いをする廓において、それも店の雇い者へきちんと教育を施している良識ある立花屋において、とてもめでたく成就していったのが想像される。馴染みになるにつれ、店の者が皆敬愛を込めてニコニコと応対するたびに、次郎左衛門は少しずつ、"外" でつくった心の傷を癒していったのではなかろうか。トップスターの八ツ橋でさえ、金払いがきれいで、心根も優しい彼の美点を、ちゃんと認めてくれていた。ここに来ると心が和む。ここに居れば心地よく居られる。全員が自分を祝福してくれている。
その夢を、八ツ橋の突然の不可解な縁切り宣言によって軋み出した夢を、決定的に切り裂いた刃が、障子の向こうに見えた栄之丞の顔だった。抜けるように肌の白い、痘痕はおろか傷ひとつシミひとつ無い、美しい男の顔であった。

ああ、やはり、そうなのか────
おまえでさえも、そうなのか。

この顔だから、駄目なのか。

あの瞬間、栄之丞が障子を タン、と閉めるよりも早く、次郎左衛門の総身を駆け巡り燃え立った感情は、栄之丞や八ツ橋への憤激や憎悪でなく、己の中で蓋をしていた、ルッキズムへの長年の憎悪と見えた。彼が今まで辿ってきた人生すべてにおいて受けた傷の蓄積が、いちどきに破れて血を出したように。八ツ橋が縁切りを言い出す前の彼は、幸福の絶頂には在ったが、得意の絶頂ではなかった。満ち足りて穏やかな心持ちであった。それが今や。裏切りであった。背信であった。どうにもならないのだった。この顔の所為で。この顔の所為で。この場所ですら "外" と同じだ。何も変わらないのだ。

その身の内に溢れ出た鮮血と膿が澱んで凝って、妖刀と引き合って悲劇を生んだ。美しいものを斬りたかった。


二月初日の勘九郎丈の次郎左衛門は、そのように見えた。

今月のうちでも感じ方が変わるかもしれないし、勘九郎丈が御年を重ねてゆかれると当然また変わっていくんだろうなと思った。

今観られることを有難く思います。

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