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《ラ・マンチャの男》感想② 与えられた夢とアルドンサ

※①はこちら ⇒ 《ラ・マンチャの男》感想① 大河の先とサンチョ・パンサ|猿丸|note

《ラ・マンチャの男》のヒロイン、アルドンサ。名前の意味を知りたくて検索したら、Aldonza〈アルドンサ〉「良い」と出た。良子ちゃん。


キハーナ/セルバンテスが「なりたいもの」を思い描け、ドン・キホーテが己の「人生」を武勇で華々しく彩ろうと欲するほど暮らしに余裕のある教養人であったのに対して、アルドンサは与えられた生にしがみついて日々を送るのに精いっぱいで、彼女にとって「人生」とは、ただ今日を明日まで生き延びることでしかない。
生まれ落ちるなり古い革袋の中へ投げ込まれ袋の口を固く締められ、光も差さぬ暗闇で育ったように、親の顔も知らないみなしごのアルドンサはごく狭い世界しか知らない。憧れる生き方のモデルなど居ない。そんなの知りようがない。


鉄鍋から掬った粗末なスープを、木匙が歯にかつかつ当たるのも気にしないようにがっつき、堂々と歯をせせるアルドンサのガラの悪さ(※見事でした)。野生の獣のような粗暴さは、すなわち育ちの悪さと、それゆえの教養の無さを明確に示す。

彼女に魅力を見出す者は、その肉体にこそ用事があるので、彼女がどんな様子で何をしていようが、問題にしなかったのだ。だから長じて売春婦となっても、客に媚を売る必要は無かった。仏頂面でも、とげとげしい振る舞いを見せても、客は彼女の身体への関心を失わなかったし、彼女の意思に頓着せずとも、好きなときに攫って好きなように目的を果たすことが出来た。

男とはそういうものだと思っていたアルドンサが、ドン・キホーテから(強い困惑とともに)受け取ったのは、己の「意思」への初めての求めだった。サンチョを通して知ったキホーテは、彼女の人生に初めて介入した、我が物顔に奪うことをせず、自分をうやうやしく崇め讃え、ただ慇懃に懇願するだけの無害な存在だった。


そして己を別人の名で呼ぶ。ドゥルシネーア、と。


これも検索すると、Dulce〈ドゥルセ〉「可愛く優しい娘」が近いようだ。iネーア、には深窓のお嬢さんらしい甘やかさが感じられる。(※イタリア語の「ドルチェ」の親戚かな?)

自分に理想の姫君を重ねようとする老いた男に、貧苦に喘ぐ若い娘は反射的に反発する。娘が言い募る汚濁の現実を、しかし男は認めようとしない。

(このあたりは、まるで性風俗に手を染めた実の娘の真実を受け入れがたくて否定する父親の姿が重なって見えた)


けれどアルドンサは、やがて髪を覆い、胸元を隠し、スカートを地味な色みのものに替えて、まるで "普通の" 女性のようななりをして、病床のキホーテ/キハーナを訪ねてゆく。

あるがままの人生を受け入れるしか選択肢が無く、為すすべも、「なりたいもの」も無かった彼女が、己の上へ投影されて初めて意識し得た幻の女性「ドゥルシネーア」に、少しでも近づこうとするように。


アルドンサの暮らしは変わらないかもしれない、少なくともしばらくは。
けれど、もしかしたら、悲惨な生活の合間を縫って、彼女は読み書きを覚えるかもしれない。帳簿のつけかたを習うかもしれない。裁縫や小間物作りを学習するかもしれない。今よりもましな人生のために小さく踏み出す一歩を幾つも幾つも重ねるかもしれない。

食べるものは変わらなくとも、スプーンをそっと口に運び、音を立てずに食事するよう気をつけるよう変わるかもしれない。

初めて自分の肉体以外に関心を向けた、あの老人の描いた夢の女性に近づくために。


ドン・キホーテの、狂気と呼ばれるほどに飛躍した想像が、現実を堂々と無視する理想観が、ひとりの片隅の娘の心を救い、光に向けた。そういう側面も持ち合わせているのではないか、《ラ・マンチャの男》は。

そしてその「なりたい自分」を目指せと奮い立たせる力が及ぶのは、アルドンサ一人ではないのだろう。


折に触れて思い出すと思う、この物語を。観られてよかったです。

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