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奇想ノ弐「会津は日本征服のメルクマール」

古代から近世までの歴史を見ると、日本を制覇するには幾つかの場所を獲得する必要があるようです。その中で最も重要な2地点が「北の会津」と「西の吉備」です。歴史の中で多くの征服者が目論んだ日本征服戦略を見てみましょう。(注・メルクマールは目標、経由地などの意味)

奇想の始まりは会津の美味し居酒屋

 福島県会津若松市、誰もが知る会津地方の中心都市です。私は岡山生まれで、長く東京の学校に行き、仕事をしていたのでなかなか縁遠い地でした。さらに北の北海道や仙台には行く機会もあったのですが、会津にはその機会がなかなかありませんでした。そんなとき東日本大震災が起こりました。福島や会津地方も多大な被害を被り、今なお復興の途上にあるといっていいでしょう。
 震災前から私には、会津に住む知り合いの作家さんがいました。元々は私のつくる雑誌に連載をお願いした方で、一時期私自身が担当もしていました。美味美食やお酒の好み、また歴史好きの趣味も合い、会津に伺ったときには大いに盛り上がります。会津でよく行く酒と肴の美味い居酒屋さんのご主人がまた歴好きのようで、私と作家さんが話していると、よく話に入ってきました。後で聞くとそのご主人なかなかの偏屈者らしく、初見のお客に話しかけるなどまずないとのこと。それが私たちの話に嬉しそうに加わるとは、周囲はびっくりしたとのことでした。


 そんなこともあって、私は未知の地である会津の歴史について、色々と調べ始めました。次の機会にまたご主人に喜んでもらいたかったのです。そして意外にも自分の故郷である岡山(吉備)との不思議な繫がりを次々に発見していったのです。それは本当に意外な繋がりの発見で、その後の私の奇想癖の始まりだったかもしれません。

「会津」の地名由来は征東軍の合流地?

 会津の歴史を調べると、まずその地名の由来に行き当たります。会津の地名は一般的にはここが多くの川が集まる場所なので「相の津」と呼ばれたのが語源とされています。尾瀬からは只見川、南会津からは大川(阿賀川)、猪苗代湖からは日橋川、飯豊山からは押切川が流れ込み、これが会津盆地で合流して阿賀野川となり新潟へ、そして日本海へと流れます。こうした地形を見ると、会津は太古から近代まで交通の要衝であったことが簡単に想像できます。河川は移動の大道になります。

 別の地名由来説もあります。日本書紀によると崇神天皇10年に四道将軍という地方を帰順させる軍が発せられました。四道とは北陸道、東海道、西道、丹波道です。それぞれの地域を大和朝廷に服従させる征服軍です。そして北陸には大彦命(おおびこのみこと)、東海〜関東には武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)、丹波には丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)、西道の吉備国には吉備津彦命(きびつひこのみこと)がそれぞれ派遣されました。
 大まかな時代は大和朝廷成立すぐの頃(多分古墳時代)で、まだ大和しか支配できていない朝廷が、全国制覇を目指して発した軍でした。それぞれの地で戰もあったでしょうが、北陸に進撃した大彦命はさらに北上し、越国(新潟)から内陸に入って行きます。東海〜関東に進撃した武淳川別命は、どうやら常陸国(茨城)あたりから海路で磐城国(福島)に入ったようです。そして沿海部より内陸に西進します。やがて東進する大彦命と合流できた場所が「会津」とういうことです。つまり2つの遠征軍が落ち合った合流点が会津なのです。

 まぁこの四道将軍の話は、時間をかけて次第に統一国家になっていった大和朝廷の版図の広がりを、神話的に四人の将軍に投影されたものともいわれます。ただ私の奇想では四道将軍がいたかどうかは重要ではありません。奇想の要点はなぜ会津で落ち合ったかです。
 逆にいうと、これ以上北には進軍できなかったのではないでしょうか。今の我々は日本全土を日本と思いますが、大和朝廷の人々にとってはそうではありません。大和と畿内一円がまず日本です。その周縁部の国々は征服すべきフロンティアであり、また征服できないのなら同盟や友好関係を結ぶべき近親国(友邦)でしょう。その限界点が四道将軍が進んだ版図なのではないのでしょうか。
 つまり会津は大和朝廷が精一杯背伸びした北限の地なのです。

古代に繰り返された北限の会津と、西限の吉備への遠征

 北陸、丹波は大和にも近く、もし反旗をひるがえせば一挙に大和朝廷を攻撃できます。そのため征服というよりも同化策を取ったのかもしれません。丹波の氏族からは多くの天皇や皇子の后や妃が生まれていますし、北陸からは継体天皇も生まれています。
 次に大和に近いのが吉備の勢力です。吉備津彦命の吉備征討物語は、昔話の「桃太郎の鬼退治」として今も語られます。大和朝廷にとって吉備までは安全圏にしたいと考えていたのでしょう。ですから吉備国内の反大和勢力は「鬼」という纏ろわぬ異形の者どもと表記したのです。
(私は当時強大な勢力だった吉備国は親大和派と反大和派に分裂していたのではと考えます。大和朝廷はそれに内政干渉し、反大和勢力を駆逐するために吉備津彦命を派遣したのではないかと思いました。それに乗じて吉備国自体を弱体化し、大和の属国化を企んだのではないかと奇想します。実際律令時代には巨大な吉備国は備前、備中、備後の三国に分割され勢力を削られました。ちなみに岡山では鬼の「温羅」は結構な人気者です。吉備津彦命は大和からの征服者ですからね。下の写真は国宝建造物の吉備津神社社殿です)

 吉備は北陸、丹波より大和までの距離はありますが、海(瀬戸内海)を道にすれればあっという間です。現に戦国時代、羽柴秀吉は備中からたった7日で山﨑の合戦に臨みました。
 つまり畿内に政権基盤を置く権力者は、日本統一のための基本戦略として会津から吉備までの征服を意識したのです。それを証明するような神話があります。景行天皇時代の日本武尊命の征伐神話です。四道将軍と同じように実在したかどうかは問題ではありません。日本武尊命(下錦絵)が征服に歩んだ場所が問題なのです。


 日本武尊命はまず西討に向かいます。九州狗奴国の熊襲を下します。その帰途には出雲国の出雲健を討ちます。これらは全て吉備国西側です。大和にとって吉備までは安全圏なので、その外側の強大化する敵(夷狄)を討ったのでしょう。
 この後、日本武尊命は東に向かいます。日本武尊命が至った北限は北上川あたりの日高見国といいます。大まかにいうと宮城県あたりです。これは朝廷の安全交流圏が会津までなので、その外側の蝦夷征伐に向かったと思えます。
 日本武尊命による征伐の後も、阿部比羅夫や坂上田村麻呂(日本最初の征夷大将軍)などによる北方遠征は行われました。しかしその遠征地はいつも会津の北側なのです。畿内から見て会津が日本の北限だった証です。

戦国の覇者、織田信長の戦略は四道将軍をなぞる

 戦国の覇者、織田信長の統一戦略はまさに四道将軍の足跡をトレースしているかのようです。戦争には地政学があるといわれますが、四道将軍の足跡はその地政学に適っていたのでしょう。たとえ時代が変わり、勢力分布が変わっても地の利は依然残ります。
 簡単に記すと北陸の柴田勝家=大彦命、関東の滝川一益=武淳川別命、丹波の明智光秀(写真下)=丹波道主命、備中の羽柴秀吉=吉備津彦命なのです。攻めた場所も配置も四道将軍そのままです。もし信長が横死しなけれ、きっと柴田勝家と滝川一益は会津まで進軍し、そこで戦国の覇を唱えたのではないでしょうか。


 豊臣時代になると少し全国の勢力配置も変わります。秀吉が会津に蒲生氏郷という若手きっての優秀武将を置いたのも、北限の統一戦略でしょう(ちなみに会津若松の若松は、蒲生家の元領地、近江国日野にある若松村から来ているそうです。近江からは多くの産業を持ち込み、会津塗は日野塗から生まれたとか)。
 蒲生氏郷が早逝した後は、五大老の上杉景勝を会津に置きます。同じ頃、備前岡山には養女豪姫の夫で、子飼いの宇喜田秀家(五大老)を置きます。そして北陸には唯一の盟友前田利家(五大老)です。丹波は微妙ですが、明智光秀を裏切り秀吉に与した細川幽斎がいます。いわば悪事の共犯者なので当分は信頼できたのでしょう。秀吉は四道将軍が攻めた地に、豊臣政権中枢の五大老を布陣したのです。やはり四道将軍の配置をアレンジしたかのように見えます。

新政府軍は日本再統一のために会津を目指す

 いよいよ幕末です。日本最後の統一戦、戊辰の役での新政府軍の進軍を見ます。新政府軍の中核は薩摩、長州、土佐に西国の諸藩です。実は備前岡山藩もこれに加わります。吉備の末裔である備前岡山藩は、重要な尊攘藩として長州藩と密約を結びました。もし攘夷戦(鳥羽伏見の戦いから、戊辰の役)に失敗したら、天皇を岡山に遷座させるというものでした。畿内政権の西限が岡山という意識があったのでしょうか。
 江戸城開城以降の新政府軍は、ここでも四道将軍の軌跡をなぞります。京から北陸道を進む山縣有朋は長岡に至ります。そこで越後長岡藩家老の河井継之助(写真下)と激戦を戦います(北越戦争)。長岡を抜いた山縣有朋はそのまま会津に向かいました。まるで四道将軍の大彦命です。


 一方で板垣退助引率いる新政府軍は江戸より北上し、日光、白河、三春、二本松で連戦しました。二本松を下した板垣退助は西進し会津を目指します。これも四道将軍の武淳川別命の行軍と同じです。そして東西から進軍した新政府軍は、遂に会津に至りました。四道将軍の合流再現が完成した瞬間でした。
 最初の会津(四道将軍合流)から千年以上を経て、再び会津(新政府軍合流)になったのです。この宿命はこの国にかけられた呪のようにさえ思えます。日本を征服する者は「必ず会津を獲れ」という呪です。(写真下は会津戦争後のボロボロのヶ城)


 幕末の歴史を観ると、必ずしも会津藩が攻められない可能性もありました。しかし会津は統一への生け贄のように、新政府軍に攻撃されます。そうしなければ日本再統一はならないという熱病に、日本国中が呻いていたのかもしれません。
 私の奇想もそろそろ終焉です。もし崇神天皇時代の四道将軍の足跡から「会津」の名前が生まれたとしたら、名前そのものが呪のようにも思えます。そのためかどうかは不明ですが、その後会津地方は会津の呼称を捨て「若松県」「若松町」「若松市」と名前を変え、1955年に「会津若松市」になります。1871年の廃藩置県で若松県になって以来、実に84年ぶりに会津の名を復活させたのです。

呪からの解放か、新たな祈りの始まりか

 最後に少し温かい話をします。
 会津戦争では、この地に新政府軍に参じた日本全国よりさまざまな藩兵が集合していました。薩長土肥は勿論のこと、人吉、中津、小倉などの九州勢、広島、岡山、鳥取、今治などの中四国勢、紀州、彦根、大垣など近畿勢。もう書ききれませんが東海、北陸、信州、関東の藩兵たち。実に75000人に及びました。
 会津方にも奥羽越列藩同盟の藩兵や旧幕軍の9500人が集いました。ほぼ日本全国から実に10万人近い人間が会津に集結していたのです。一つの場所に全国各地からこれだけの人間が集まった歴史はほとんどありません。まさに「会津(合流)」の名前の光芒のように思えます。 
 会津若松城開城儀式のおり、新政府軍は何か憑き物が落ちたように、会津藩主松平容保に対し実に丁寧な対応をします。降伏状を提出する容保に対し、会場には緋の毛氈敷き、礼儀に則った儀式(下の錦絵)でした。決して敗軍の将への対応ではありません。そして戦後処理も家老萱野権兵衛の切腹に止め、藩主松平容保の死は免れます。統一の呪縛から解き放たれたような寛大な処置でした。


 会津若松城開城には備前岡山藩も参画し、会津若松城受け取りの大役をこなしたそうです。それは北と西のメルクマールの地の人々が初めて出会ったときでした。この瞬間に、長くこの国にかけられていた「統一の合流点」という呪からも解放されたのかもしれません。もう互に攻めることも攻られることもなくてよいのだと。

 この時より150年が過ぎました。福島は震災の影響からまだ回復せず、原発の脅威も取り除かれていません。そんな福島や会津を助けようと、日本全国から多くの人が訪れています。今は征服ではなく共助のために会津に集っているのです。
 実は会津への呪はまだ解かれていないのかもしれません。ただし今の呪は、人々の心を繋げるための呪です。日本中の、そして世界中の人々の心が繋がる(合流する)ように、会津の地霊が施した新しい祈りの呪です。会津の地霊は千年を越える呪のプロフェッショナルです。きっと世界中がこの呪縛に囚われるのではないかと秘かに期待しています。
 おっと、私もその呪に囚われたようです。会津にまた行きたくなってきました。会津は花が美しい地です。春の桜は涙が出るほどに美しく、また夏の大輪の向日葵からは生命の息吹を感じます。そして私が大好きな6月頃の稲穂が花開き風に揺れる風景。それはこの国が失った原風景のような田園の光景です。
 そろそろ私も会津のあの居酒屋に行って、銘酒天明をいただきます。そしてご主人には会津への奇想を話そうと思います。楽しんでもらえるかどうか、少し不安もありますが。(写真下は喜多方市三倉山高原の向日葵畑)


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