見出し画像

コイン・チョコレート・トス_第3話


↓ 第2話はこちら

🪙 4.5グラム


2月9日(月)

「眩しい」

幸子はペラペラのカーテンから漏れる日の光で、朝が来たんだと気づいた。

アラームにも気づかないくらい眠りこけていて、泥のように眠っていた。ここ一週間以上、感情の起伏が激し過ぎたせいだ。疲れていても仕方がない。

幸子はずりずりと畳の上をほふく前進し、充電コードを挿したままのスマートフォンを手に取る。画面で時刻を確認する。9:32。

うつ伏せになっていた体を転がし、幸子は畳の上に仰向けに転がって伸びをした。背骨からぼきぼきと音が鳴る。睡眠を十分にとり頭はスッキリしているし、体も軽いが、布団が薄すぎるので違う意味で体が疲れている。幸子はスマートフォンを畳に置き、そのままストレッチを始めた。

こんなに朝寝坊したのはいつぶりだろうか。幸子はストレッチをしながら、最後に朝寝坊をした日の記憶を手繰り寄せようとしたが、ここ数年、そんな日はなかったなぁと思い直した。

悟は休日でも早起きをする。幸子もそれに合わせて休みの日でも早起きをしていた。

休日は朝ごはんを作らずに、起きたら外に出かける支度をする。顔を洗って、軽くメイクをして、パジャマから軽装に着替えて、お揃いの白いコンバースのスニーカーを履く。二人で手を繋いで出かけるのが、習慣だった。

休日の朝の散歩は、人も車も少ないので平日より空気が澄んでいるような気がする、と二人で話していたのを幸子は思い出した。二人はお気に入りの近所のカフェで朝食を済ませたり、いつもと違うルートを散歩をして新しいパン屋さんを見つけたり、そんな休日の朝を楽しむのがルーティーンだった。

「早起きは三文の得」を探す休日の朝の散歩。

歩きながらたわいのない会話をする。空の写真を撮ったり、何気ない風景の写真を撮ったり、朝食の写真を撮ったりもした。話すことがない時は、サブスクで聴いているお気に入りの音楽を一つのイヤホンを分け合って聴いたりもした。

夏頃に見つけたパン屋のクロワッサンが、感動的に美味しかったことを幸子は思い出した。外側はものすごくパリパリしていて、中はには空気がたっぷり入っていてふんわりというより、ふぅんわりしていたクロワッサン。バターもたっぷり練り込まれていて、味も抜群。全てが完璧なクロワッサン。

ただ一つ欠点があるとすれば、家で食べるとフローリングがパンくずだらけになるところ。

これは家じゃ食べれないねということになり、夏の間はクロワッサンを食べるのを我慢した。金木犀の匂いがところどころで香り出した頃、二人は心弾ませながら手を繋いでパン屋に行った。

一人一つずつ、スタンダードなクロワッサンを買う。幸子はチョコレートが練り込まれたクロワッサンを追加購入。悟はクロワッサンにハムとレタスとチーズが挟んでいるクロワッサンサンドを一つ買う。
コンビニでホットコーヒーを買って、近所の公園のベンチに二人並んで仲良く食べた。

外で食べるクロワッサンの美味しさはひとしおだった。ボロボロとパンくずが溢れても気にしない。気がつけば二人のベンチの周りには大量の鳩が集まってきた。幸子は、それすらも楽しいと感じていた。

二人は、秋の間の休日は飽きもせずそのパン屋のクロワッサンばかりを食べた。外で食べるには寒くなってきて、少しクロワッサンにも飽きてきた頃、次は春になったらクロワッサンを食べようという話になり、今度はバゲットばっかり食べていた。

腰を捻りながら、幸子は早く悟と仲直りをして春にはあのクロワッサン食べたいなあなんてことをぼんやりと考えた。

とはいえ、結論を出すにはまだ早い。まだ電話もしないし、家にも帰らない。幸子は安易に悟を許してしまおうとする自分の思考を切り捨てた。

幸子は体が十分にほぐれたところでおき上がると、玄関の新聞受けから新聞をとった。
「北朝鮮弾道ミサイル発射」

「またか」と幸子は小さくつぶやく。

このニュースを聞くたびに幸子はうんざりしていた。いい加減、やめてほしいと幸子は思う。

幸子は新聞をひっくり返してラテ欄を見た。今日が月曜日だと気づき、夜10時台の欄を目を凝らすようにして見つめる。幸子には毎週欠かさずに見ているドラマがあった。先週は悟の浮気のこともあり、気もそぞろで集中して見れなかったけど、どういう展開になっているのかが気になるところだ。幸子はドラマのサブタイトルを確認しようとドラマのタイトルを探す。

そこで幸子はラテ欄に毎週見ているはずのドラマのタイトルがないことに気づいた。幸子の頭の中で一つの可能性が浮かんだ。まさか……と。

幸子の血液がブワッと沸騰するのがわかった。日付を確認して愕然とする。また誤配。10日も前の新聞だ。沸騰した血液は幸子の体内を駆け巡ると、心臓を通り越して頭へとのぼった。

3日連続とはあまりに杜撰すぎる。電話なんかじゃダメだ。ここはガツンと月俣に言っておかなければならない。

幸子はそう決めると、すぐに軽装に着替えダウンコートを羽織る。ショルダーバックを斜めにかけ、手には10日前の新聞を握りしめた。
無駄に重たい玄関のドアを閉め、理恵の母親から預かった理恵のアパートの鍵をショルダーバックの内ポケットにしまいこんだ。


1月30日(金)

夜月新聞までは、理恵のアパートからは歩いて7分。幸子はとにかく苛立ちながら頭に昇った血を自分で沸騰させながら歩く。ここでも幸子はヒールでなくてスニーカーを選んで履いてきて正解だったと思った。ヒールの高い靴をカツカツと音を鳴らして歩くのは爽快だけど、急ぐとヒールの踵のゴムが減るのが気になって仕方がない。

急ぐなら見た目よりも、断然、機能性。すでに走りだしたい気持ちもあったが、グッと堪えながら幸子は歩く。


幸子は10日前の新聞を手に、夜月新聞のドアを叩いた。

月俣がデスクに座っていた。幸子は月俣に向かって話しかける。
「〇〇3丁目の竹下ですが、また誤配で古い新聞が届いたんですけど!!」
鼻息荒く、幸子は10日前の誤配新聞を月俣の顔の前に突き出した。

月俣はう〜んと、首を捻る。
「〇〇3丁目の竹下さん? 確認しますね……。ん? ご契約なさってます? 一体何のお話でしょうか」
幸子は月俣が何を言っているのかわからず、思わずグッと眉間に皺がよる。月俣は幸子の表情も気にせず、続けた。

「うちは竹下さんと契約させていただいておりませんが……。それに今、あなたが手にお持ちの新聞は今日の新聞ですよ? 誤配というのは、契約をしていないのに新聞が届いているという話ですか?」
いつもは感じの良い好青年の月俣が、今日は完全にぶっきらぼうな対応だ。客に対しての態度とは到底思えない、と幸子は苛立つ。

「契約はしてますし、これは10日前の新聞です」
幸子はぐいっと誤配の新聞をさらに月俣に突き出した。
月俣は「はぁ」と大きくため息をつく。接客にはあるまじき対応。幸子は自分が頭のイかれたクレーマーだと思われていると感じた。三日も連続で新聞を誤配しているのはそっちなのに、と頭の中がぐつぐつと煮えたぎるのがわかる。

「ご契約はなさってません。日付もよく見られてください」
月俣の語気が強くなった。クレームには毅然と対応しますとでも言わんばかりの態度だ。そして、月俣はポケットから自分のスマートフォンを取り出すと画面をぐいっと幸子の顔の前に突き出した。さらには苛立った様子で、スマートフォンを持っていない方の手で画面の日付の部分をトントンと指差す。

「ほら、見てください。今日の日付はお持ちの新聞と同じ日付です。見たらわかるでしょ? 私も忙しいんですよ。あなたの相手をしてる暇なんてないんですよ。それとも契約して帰ります?」

「そんなわけ……」
と幸子は呟いて、その後の言葉を飲み込んだ。確かに月俣のスマートフォンの日付と新聞の日付は一緒だった。間違いなく1月30日(金)と表示されている。

幸子は月俣の画面を確認した後、手に持っていた新聞を小脇にさし、自分のスマートフォンをカバンから取り出した。スマートフォンの画面を確認する。確かに新聞と同じ日付、1月30日(金)と表示されている。

幸子は狐につままれた気分になった。確かに月俣の言うことが正しい。幸子は一旦出直そうと、混乱した頭を抱えたまま、すごすごと夜月新聞を後にした。

来た道を帰りながら幸子は考える。一体今日は何日なんだろうか、と。

幸子は今日は令和X年2月9日(月)だと思っていた。なぜならば昨日は2月8日(日)だったのだ。しかし、新聞の日付は令和X年1月30日(金)。そして、スマートフォンの日付も令和X年1月30日(金)。

幸子は1月30日に何があったのかを回想する。令和X年1月30日の金曜日と言えば、と振り返り背中に悪寒が走る。2月9日の10日前である1月30日。その日は今一番思い返したくない日であることに幸子は気づいてしまった。

悟が浮気をした日。


1月30日(金)

その日、悟は酔っ払って帰ってきた。職場の飲み会だった。悟が飲んで帰ってくることも酔っ払って帰ってくることも、特に珍しいことではない。
幸子も悟も好んでお酒を飲み、それに外で飲むのが楽しいことはよく知っている。

その日の朝もいつもと同じように、幸子は「飲みすぎないでね」と悟に声をかけて送り出した。
玄関先で悟は、「今日行く店は、幸子と行きたいって話をしてたフレンチレストランなんだ」と申し訳なさそうな顔をした。

幸子は顔の前で手をひらひらと振って、優しく微笑んだ。
「いいよ、いいよ。仕方ないよ。仕事だもんね。感想楽しみにしてる。美味しかったら今度ゆっくり一緒に行こうね」

「もちろん! 何が人気メニューか確認してくる。あとはワインの品揃えもチェックしてくるよ」
幸子の笑顔を見て悟は胸を撫で下ろし、いつも通り家を出た。
「よろしくね」幸子はそう言って悟を送り出した。

いつもの日常、いつも通りの朝。
特に何も変なところはなかったし、悟もいつも通りに家を出た。

その晩、と言うより日付を超えた真夜中。悟はネクタイを外して帰ってきた。飲んでいればネクタイを外すことはあるだろうが、これまで悟がスーツで飲みに行って、ネクタイを外して帰ってきた記憶が幸子にはなかった。緩めると言うことはもちろんあったが、外していた記憶はない。

幸子がそれに気づいたのは1月31日に日付が変わった、夜中の3時のことだった。

わざわざ起きて待っていたわけではなかった。幸子は夜中に目が覚めて、一杯だけ水を飲みトイレに行こうとした時に、玄関先に座り込んでいた悟を見つけたのだ。

「こんなところで寝たら、スーツがシワになっちゃうよ。明日が休みで良かったよね」と幸子は悟を起こした。よろよろと起き上がる悟からスーツを剥ぎ取り、ハンガーにかけた。

「ん、ごめん」と言いながら悟はワイシャツを脱ぎ、肌着とパンツになってベッドに倒れ込んだ。

「靴下も脱がないと」笑いながら、幸子は悟の靴下を脱がした。スマートフォンも充電しておいてあげようと、幸子は悟のスーツのポケットから悟のスマートフォンを取り出し充電コードを挿す。

その時、幸子の目にLINEの通知画面が飛び込んできた。

(今日は気持ちよくしてくれてありがとう♡  すごく幸せだったよ♡)

幸子の手がブルっと震えた。震えたのは幸子の手ではない。震えたのは手に持っていた悟のスマートフォンだ。再びLINEの通知が画面に現れる。

(サトルくん、大好き!!)

今度は幸子の体が震えた。心臓が早鐘を打つ。画面に現れた夫の名前に大好きという単語の組み合わせ。幸子は震える手でスマートフォンをギュッと握ると、悟にLINEをしてきた相手の名前を確認した。

ーー佐藤佑美さとうゆみ

今年、悟の会社に入ってきた新入社員の名前だ。鼓動は全身に広がり、血の気が引いていくのがわかった。動悸は治まりを見せず、幸子の手はどんどん冷たくなる。

幸子はベッドの上で口を開けて眠っている悟を叩き起こした。
「悟!  起きて。これどういうこと?」
信じられないという気持ちとありえないと言う気持ちがないまぜになり、幸子は鬼の形相とも赤子の泣き顔ともつかないような複雑な表情を浮かべる。

幸子は悟を叩き起こしながら、佐藤佑美に関する情報がなかったかどうか、記憶を手繰り寄せた。

新入社員の佐藤佑美のことを、悟はとても気のつく新人だと言っていた。新卒だったが飲み込みは早く、すぐに戦力になりそうだと喜んでいたのを覚えている。

可愛がっていたのは知っていたが、上司と部下の関係を超えていただなんて考えもしなかった。それに悟はこれまでにだって何人も新入社員を指導してきた。その中には女性もいたし、これまではこんなことなかった、はずだ。

「幸子、どうした?」
寝ぼけ眼を擦りながら悟が起き上がる。
「これ!!」
幸子は悟のスマートフォンをベッドに投げつけた。

「は? 何?」
しょぼしょぼとした眼を開けて、叩きつけられた自分のスマートフォンを手に取ると悟はLINEの通知を一瞥した。幸子には悟の目が一瞬、泳いだようにみえた。

次の瞬間、悟は肩をすくめる。
「こんなの冗談だろ。それより勝手に見るなよ、人の携帯の画面なんか。寝ようよ。眠いし」

そういうと、悟はスマートフォンを枕の下にスッとしまい、横になった。
「誤魔化さないでよ!!」
幸子は悟の枕をふんずと握り、そのまま枕を取り上げる。枕の上に乗っていた悟の首がぐにゃりと曲がり、そのままの首の形を保ったまま、ドスンとベッドの上に頭を落とした。

「何するんだよ」
突然の幸子の行動に悟は当然驚いた。
「浮気してるんでしょ?」
何かを誤魔化していると疑っている幸子は、悟に誤魔化されまいと問い詰める。

「浮気なんかしてないって。送信相手間違ったんじゃないの?」
明らかに悟の声がうわずっている。
「サトルって書いてあったけど?」
「別人じゃないの?」
幸子の尋問に悟の目線が泳ぐ。明らかに嘘だと幸子にもわかる。

「そんなわけないじゃない。適当なこと言わないで」
「そう言うこと誰にでも言う子なんだって。冗談なんだって」
何が冗談なんだろう。そんな嘘が通用すると思ってるのだろうか? 誠実だと信じていた悟の態度に、幸子は怒りよりも悲しみが込み上げてくるのがわかった。しかし、幸子の苛立ちは止まらない。

「その前の通知も見たんだから! 気持ちよくしてくれてとかなんとか。今日は二人でデートでもしてたわけ?」
「は? 何もしてないって。ただの職場の飲み会だよ。確かに佐藤さんもいたけど、他にもたくさんいたし」

幸子は絶対にクロだと思った。女の勘がそう言っている。

「そもそも、なんで今日はネクタイ外して帰ってきたわけ? 普段は飲んでてもそんなことないでしょ。ネクタイを外さないといけないようなことをしてきたんじゃないの?」
「なんだよそれ。ネクタイ? なんのことだよ。……ネクタイ?」

悟の動揺が激しくなった。自分で浮気をしていると認めているようなものだと幸子は思う。

「じゃあ、佐藤さんとのやりとり見せてよ」
「なんでだよ。何もないって」
「何もないなら見せられるでしょ」


昨年の12月からのことを悟は話し始めた。

悟は佐藤佑美からストーカー被害に困っているという相談を受けたらしい。もしかしたら元カレがストーカーかもしれないと。

佐藤佑美が家に着くなり、連日、無言電話がかかってきていたらしく、「ストーカー化した元カレに見張られているかもしれない。帰るのが怖い」と悟に泣きついてきて、仕事帰りに相談に乗ることになった。

その日は仕事が立て込んでいて帰りが遅くなり、悟が佐藤佑美を家まで送り届けることになった。家まで送って、元カレからの着信を見せてもらい、色々と話を聞いた。佐藤佑美が言うには元カレはDV気質で、乱暴だったとのこと。

「臼井さんは優しいですよね。今度は佑美も臼井さんみたいな人がいい」
なんてことを佐藤佑美に言われたと悟は言った。

いちいちそんな報告はいらない。全然、聞きたくないと幸子は思った。
そもそも、自分の第一人称をファーストネームで話す女なんて胡散臭いと思わないのかなと思う。多分、佐藤佑美のストーカーの話なんて嘘っぱちに決まってる。幸子は悟の話を聞きながら、そう感じた。これも女の勘だ。

佐藤佑美はお喋り上手、聞き上手だったらしく、なんだかんだと話が盛り上がった。悟の記憶は途中から曖昧になり、気がついたらベッドで二人が裸になっていて、その写真を撮られたと悟は話した。
悟は自分でも何が起きたのかはよくわからないと言った。その時に何があったのか、全く記憶がないと。

それが昨年の年末の話。

その後、その写真をチラつかせて佐藤佑美が悟に体の関係を迫ってきた、ということだった。

「佑美、悟さんのことが好きなんです。あと、一回だけでいいんです。ちゃんと悟さんが覚えてくれてる時に、一度だけ抱いてほしい」と迫られたと。

悟は断ったけど、一度でいいからと懇願されたとかされないとか。
写真も消してほしいと何度もお願いしたけれど、のらりくらりかわされたとかどうとか。

だけど、最終的に一度だけ抱いてくれたら、写真は削除すると約束してくれた。
でも、もし叶えてもらえないなら会社と幸子に写真を見せて、不倫関係を強要されたと訴えると脅された。

「そんなの誰も信じない」と悟は言ったが、「佑美は臼井さんのお話色々聞いてるんで『義務的なセックスに飽きた臼井さんが、上司という立場を利用して佑美に体の関係を持ちかけてきた』とか、そういうちょっと本当っぽいこと言っちゃえば、みんな簡単に信じちゃうと思うんですよね♡」と笑顔で脅されたということだった。

正直、佐藤佑美の目的はよくわからなかったけど、一回だけなら、それでなかったことにしてもらえるなら、と思ったと悟は言った。

最終的に悟は、佐藤さんと関係を持ったことを認めた。
けれども幸子のことを愛しているし、仕方なかったんだと土下座をして謝った。

幸子は思う。
何が仕方ないんだろう。全然仕方なくない。

悟の話に、若干モテ自慢的なものがチラチラ入ってくるのも幸子を苛立たせた。若い子に言い寄られて、嬉しくなって調子に乗ったんじゃないの? 脅されたなんて、デタラメじゃないの? と幸子は悟に苛立った。

あまりに自分に都合のいい展開を話し続ける悟に、幸子は次第に白けていった。悟の話に引いているうちに、血の気も引いていき、顔も白んできて、具合も悪くなって、幸子はどことなしか息苦しくなった。

許すつもりもないのに、謝り続ける悟になぜか「わかった」と幸子は言ってしまった。その幸子の「わかった」を耳にした悟は、胸を撫で下ろして眉毛を下げ、「ごめん」と再び謝った。

幸子はその姿を見て、思わず吐きそうになった。

その日は同じベッドでは寝たくないと幸子は悟に告げた。悟はまた「ごめん」と謝ると、リビングのソファーに移動して眠っていたようだった。

幸子はさっきまで悟が横になっていたベッドに横たわり目を瞑ったが、眠れるわけがなかった。そもそも悟の言うことが信じられなかった。もしかしたら……という妄想が、真っ白になった頭の中を埋め尽くすように駆け巡る。

あることもないことも、全てがごちゃ混ぜになった。
新入社員の女が配属されてからの悟の言動を事細かに思い出したりしながら、この日はどうだったのだろうかと、幸子はベッドの上で考えてしまう。

現実の悟の行動と、妄想の中の悟が勝手に結びつき始めたりする。何が真実で何が妄想なのか。うつらうつらと夢を見て、夢の中で休日の公園で二人クロワッサンを食べる映像が頭に浮かんできては消えていく。思い出の中の幸子が、会ったこともない見たこともない佐藤佑美にすり替わり、悟が佐藤佑美に微笑みかけたりもした。あれは本当に私だったのだろうか。さっきの出来事が夢だったらいいのに。そんなことを考えながら、幸子は現実と夢の中を行ったり来たりした。

気がつけば外は白んできて、朝になった。二日酔いの悟が、トイレに駆け込み嘔吐している声を聞いた。

幸子はその声を聞き、ザマーミロと思いながらも、私もこの全ての感情を吐き出せればいいのにと羨ましくも思った。

気持ち悪い。とにかくムカムカする。それに視界はぼんやりとしていて、頭の中にも霞がかかったようで、幸子は正常な判断ができない気がした。

悟が言うとおり、本当に脅されていて本当に一度限りの浮気だったんなら許してもいいかもしれないと言う気持ちと、嘘をついてるかもしれないし1回だけじゃなかったかもしれないし、浮気なんて許せないという気持ちが幸子の心を反復横跳びする。

許す、許さない、許す、許さない、許す、許さない……。

「許す」と「許さない」がとてつもなくうまいラリーを繰り返す。
どちらかが優勢ということでもなく、永遠に続くラリー。

「許す」と「許さない」がラリーを続けている間、幸子は余計なことを考え始めた。佐藤佑美とかいう新入社員の女とのセックスの時に悟が出した精子の中に、もしかすると自分と悟の子どもとしてやってきてくれた子がいたかもしれないと、そんなところまで妄想してしまった。

受精したって着床しないかもしれないけど、もしかして悟が無駄に出さなければ、元気な精子が私の卵子と出会ったかもしれないなんて考えて、幸子は泣いた。


2月9日(月)

浮気を知った後、そんなことばかりを2日間考え続けて、頭がおかしくなりそうだった。もうダメだと思った3日目の朝に理恵に電話をし、悟が仕事に行っている昼間に荷造りをした。その日の夕方に、幸子は理恵の母親からアパートの鍵を借り、2月3日の朝に家を出た。

思い返したくもない10日前の出来事を反芻しているうちに、気がつけば幸子は理恵のアパートの部屋の中にいた。

結局、幸子には今日が何日なのかがわからなかった。あまりに混乱している。

1/30、2/9、1/30、2/9、1/30、2/9……。
「許す」と「許さない」と同様に、こちらもものすごくうまいラリーを続けていた。しかし、今日が1月30日であるはずがない。なぜならば、あんなに最低な1日は人生であれきりだと信じたい。同じ日が繰り返されるなんて、そんなものドラマか映画の世界でしかありえない、と幸子は2月9日でラリーをやめた。

手に握りしめていた新聞を畳の上に投げ捨てた。強く握りしめていたせいで、手にインクが付いていたので、すぐに手を洗った。タオルで手を拭き、再びスマートフォンで日付を確認する。

令和X年2月9日(月)

やっぱり、と幸子は思う。
そして再び手元の新聞に視線を落とす。日付は令和X年1月30日(金)。悟が浮気をした日。

嗚咽しそうなほど嫌悪感がある日。日付は間違っていない。やっぱり誤配だ。

よく考えてみれば、そもそも1月30日はまだアパートに来ていないし、新聞だってとっていない。自宅で新聞はとっていなかったのだから、この日付の新聞を持っているなんてことは、理屈としてあり得ない。

それに今日は第二月曜日だ。確か第二月曜日は休刊日だと月俣は言っていた。そもそも新聞が配達されるわけがない。

ということは、夜月新聞も今日は閉まっていたのではないか、と幸子は思う。

たぶんこれは夢だ。
この10日間、いろんなことを考えすぎて、私の頭は混乱しているんだ。

幸子は布団も引かず、毛布にくるまってそのまま畳の上で眠りについた。



🪙

喉がぱりぱりになって目が覚めた。

吸った空気すらも喉の奥に張りつきそうなほど、身体中の水分が抜けている。電気ファンヒーターの前で寝たのがよくなかった。コンタクトも眼球にぺったりと張り付いている。

幸子は台所の水道の蛇口を捻り、シンクに置きっぱなしにしていた紙コップに水を入れた。勢いよく蛇口を捻りすぎて、すぐに紙コップから水が溢れ出した。
幸子は水を止めもせずにそのまま紙コップに注がれた水道水を飲み干した。

紙コップの水道水を飲み干してから、幸子は蛇口を捻り水を止める。近くにタオルを置いていないことに気づき、幸子は着ていたシャツでさっさっと手を拭いた。若干濡れた手のひらで、乱雑に畳の上に置かれたショルダーバックからポーチを取り出した。

ポーチの中からコンタクト装着中でも使用可能な目薬を取り出して、右目にさした。うまく目の中に入らずに、目薬は目の外側に落ちた。つつーと目薬は顔をつたい、右耳がそれをキャッチした。

幸子は右耳に入った目薬をそのまま放置して、もう一度、目薬を右目に差す。今度はうまく右目の中に目薬が入った。次は左目。こちらは失敗せずに眼球に命中した。

目薬をポーチにしまい、ポーチをショルダーバックにしまう。机にしてる段ボールの横に置いているティッシュの箱から、ティッシュを一枚引き抜いて、右耳の中に落ちた目薬を拭った。

幸子はまた台所に立つと、水道水を紙コップに注ぎ再び飲み干した。水道水を飲み終えたら、一昨日食べたうどんのアルミ鍋に水道水を入れた。コンロに水を入れたアルミ鍋を置き、火にかけた。

ぐつぐつと水が沸騰するのを確認して、火を止める。昨日スーパーで買っておいたカップ麺をスーパーのビニール袋から取り出す。

醤油味。

カップ麺をひっくり返し、底にぶすりと指をさした。包装されたビニル製の外装フィルムをびりっと剥がす。フィルムをシンクの上に置いて、蓋を半分ほどまで開ける。カップをトンとシンクの上に置いた。

アルミ鍋の隅を両手の親指と人差し指でつまんで、火傷しないよう溢さないようにカップ麺にお湯を注ぐ。
内側の薄い線までお湯を注ぎ終わると、残ったお湯を紙コップに注いだ。

アルミ鍋を再びコンロの上に置き、カップ麺の蓋をしめた。湯気でじんわりと蓋が開いたので、割り箸を蓋の上に置く。

幸子は紙コップに注いだお湯を口に含んだ。ほぅと一息ついて、時間を測り忘れたことに気づいた。スマートフォンの画面を見て、あと1分くらいでいいかな、と思いながら、もう一口、お湯を飲んだ。

おおよそ1分くらい経ったところで、幸子は手に取っていたスマートフォンをポケットに突っ込んだ。

カップ麺の蓋を剥がし、上に置いていた割り箸とカップ麺を机代わりの段ボールの上に置く。割り箸を割り、スープに箸を沈めて麺をほぐす。少し固いところもありそうだと幸子は思ったが、気にせずに麺をほぐしていく。

幸子はそのまま麺を持ち上げ、口に放り込むとズルズルとすすった。

ーー髪が邪魔。

手首にはめていた黒いヘアゴムでひとつ結びにして、幸子は残りの麺を全て、一気に体内へと運んだ。湯気で鼻水が垂れそうになり、段ボールの横に置いていたティッシュを2枚引き抜き、ぶんと鼻を強めにかんだ。
鼻水がついた面を内側にしてティッシュを丸め、とりあえず畳の上に転がすと、カップ麺のカップを手に取り一気にスープを飲み干した。

ふぅと一息ついて、幸子はそのままバタンと転がった。
ポケットに手を入れてスマートフォンを取り出す。画面で時刻を確認する。

令和X年2月9日(月)17:35

やっぱり今日は2月9日だ。自分が間違っていないことに安堵し幸子は胸を撫でおろす。午前中の出来事はきっと夢だったに違いない。あまりにリアルな夢だったけど、と幸子は考えながら寝返りを打ち、畳の上に投げ捨てた今日届いた新聞を手にとる。

1月30日(金)。夢じゃなかった。

幸子は今一度、冷静になって今日の出来事を振り返ってみた。

間違いなく夜月新聞に行った。そして今、2月9日と表示されているこの画面が、夜月新聞では間違いなく1月30日だった。
そこだけが夢だったにしてはあまりに鮮明すぎる。

馬鹿げた想像だと自分に前置きをし、幸子は「タイムスリップしたのかな」と独りごちた。目の前の天井のシミがくすくすと笑いながら、話しかけてきた。

(幸子、タイムスリップしたの?)
「さあ。今、考えてるところ」
(タイムスリップとかありえる?)
「あり得ないと思うけど」

(だよね)
天井のシミの口の部分がいじわるな感じで、ニヤリと笑った。
ここ数日、幸子は天井のシミと会話をする癖がついてしまっていた。一人で誰とも会話をしない弊害が変なところに現れてきたと幸子は思う。不気味な天井のシミは幸子の意思とは関係なしに、幸子に話しかけてくる。

その時の天井のシミは明らかに幸子をバカにしていた。幸子は天井のシミの説得を試みた。なんのために説得をするのかはわからないが、時間は十分にあるのだから、それくらいのお遊びは許されるはずだ。

「でもさ、タイムスリップじゃないと説明つかなくない」
(えー? どうやって? タイムスリップしたわけ? 幸子超人だったっけ?)
天井のシミはくすくすと笑っている。
「誤配の新聞とか?」
(え? 新聞のせいってこと?)
「まあ、そう考えるのが妥当じゃない? だって誤配の新聞と同じ日に行ったんだし」
幸子はさも当然と言う風に、誤配の新聞が自分をタイムスリップさせたと訴えた。

しかし、天井のシミは全く納得していなさそうで、小さなシミの目線が白けているように見えた。

(幸子の妄想、すごいね)
「バカにしてる?」
(バカになんかしてないけど……誤配の新聞でタイムスリップしたところで、なんの意味もないよね)
「何が?」
幸子は苛立った。

(まあ、百歩譲って誤配された新聞でタイムスリップしたとしても、そんな来るか来ないかわからないものでタイムスリップしても、ねえ。意味なくない?)
天井のシミがぷっと吹き出す。

「まあ、そうかもね」
不貞腐れた顔で幸子は天井に向かって吐き捨てた。
(タイムマシーンを発見したとかさ、そーゆーんならロマンもあるってもんでしょ)
「だから何?」
(結局、幸子がタイムスリップしたとしても、それがタイムスリップだってわかったとしても、ロマンもないし、悟の浮気を遡って止めることもできないし、なんの面白みもないってこと)

幸子は舌打ちした。ムカつく天井のシミだ、と思う。
(発想がアホらしいし、色々悩み過ぎて、こじらせすぎでしょ)
天井のシミは真下で寝ている幸子にそう吐き捨てると、スッといつもの不気味な表情に戻った。雄弁に語っていたシミはしんと静かに天井に張り付いている。

天井のシミとの会話はこれにて終了だと、幸子はため息をついた。

確かにタイムスリップなんて、甚だアホらしいと幸子自身も思ってはいた。天井のシミに言われなくても、流石に自分でもそのくらいのことはわかる。そこまで混乱はしていない。けれどもすでに自分の人生にアホらしさを感じ始めてい幸子は、いっそそのくらいアホらしい出来事があったほうが清々しいとさえ思い始めていた。

理想とは程遠い人生。
予定していた道は絡まり、足元にこんがらがったたま放置されている。解く気にもならない、と幸子は思う。

優しい夫は浮気した夫になってしまった。
帰りたいけど、帰れない。
許したいけど、許せない。
自分でもどうしたいのかがわからない。

今はヤカンすらない理恵のアパートに現実逃避をして、鬱屈とした日々を過ごしているだけだ。

どうせ逃避するならとことん逃避してもいいかもしれない。
もしかして、私の思考が歪んでるみたいに、この部屋と外の世界で時空が歪んでいるのかもしれない。

そうだ!! きっとそう!!

幸子はあり得ない妄想を膨らませながら、訳のわからない期待を胸にスマートフォンを握り締めて玄関を開けた。
玄関を出た瞬間、スマートフォンの画面を確認する。

令和X年2月9日(月)17:42

妄想は妄想でしかなかったと、幸子は肩を落としながら部屋に戻った。そんな摩訶不思議な、映画みたいな、漫画みたいなことが私に起こるはずがない、と幸子は冷静に自分自身にツッコミを入れる。

私は物語の主人公ではなく、ただの端役なんだ。
キラキラと自分の夢に向かって走る主人公の友人Aであり、略奪愛を試みる悲劇のヒロインの邪魔をする妻Bであり、青春を謳歌する中学生たちの横を通り過ぎる通行人Cなんだ。

そういえば、中学生とすれ違った日も誤配はあった。しかし、外出したももの特段変なことはなかった気がする。レシートもちゃんと当日のものだったし、家計簿アプリにレシートを登録した時だって違和感はなかった。

何が違うんだろうかと、玄関先で幸子は頭をひねる。

「あ!!」

幸子は靴を脱いで、畳の上に転がしておいた1月30日の新聞を手に取った。誤配の新聞を手にとり、裸足のまま外に出た。

一瞬、さっきとは違う空気が流れたような気がした。少しだけすんとした、冷たいような空気。幸子は新聞を脇に差し、手元のスマートフォンの画面を見た。

令和X年1月30日(金)17:48

「変わった!!タイムスリップした!!」
幸子は驚き、手に持っていた新聞を落とした。

その瞬間、時空が歪んだのが幸子にもわかった。ぐにゃりと世界が歪み、目が霞む。視界がぼんやりとしはじめて、空が白み始めた。あっという間に気が遠くなる。

幸子は玄関で座り込んだ状態で意識を取り戻した。へたりと座り込んだまま、地面に落ちていたスマートフォンを手に取り、再び日付を確認する。

令和X年2月9日(月)18:03

今日だ。元の日付に戻ってしまった。一瞬、タイムスリップしたはずだったが、気を失った瞬間に元の時間に戻ってきてしまっている。

幸子は落とした新聞を探す。あたりを見回すが、新聞はもうどこにもなかった。初めから新聞なんかなかったように、そこには何もなかった。

重たい玄関のドアを開け部屋に入ると、幸子は部屋中、新聞を探し回った。新聞を積んでいた台所の脇をまず確認する。一枚一枚新聞を探す。しかしどこにも1月30日の新聞はない。トイレもお風呂も洗面所も、考えられるありとあらゆる場所を探したが、1月30日の新聞はどこにもなかった。端切一つ落ちていない。

多分タイムスリップのキーは、誤配された新聞だと幸子は思う。そして、今更ながらに馬鹿げたことに気づく。


もしかして、この物語の主人公は私なのだろうか。





↓ 第4話予告|チョコレート



この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?