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バク

「息、してる」
 老人の顔をのぞき込んでいたまひるが振り向いた。お化け屋敷を探検するなんて言い出した時に、もっと強く止めればよかった。外から見るだけだって言っていたのに。まひるはエマにおかまいなしに家の奥に入っていって、ベッドのある部屋にたどり着いた。ベッドには老人が一人横たわっていた。「死んでるのかな?」まひるが言って、「わからない」エマは答えた。気持ち悪い、怖い、早く帰りたい。誰かに見つかって、先生に言いつけられたら、お母さんに怒られたらどうしよう。頭の中を素早く駆け巡る心配事が、古い引き戸を引く音にかき消された。ばたばたばた、がさがさ、ごとん。ほら、やっぱり、家の人
「帰ってきた」まひるが小さく叫ぶ。
「だから言ったじゃん」エマはほとんど泣きそうだった。
 まひるがベッドの下に飛び込んで、エマを引きずり込んだ。どのくらいそこでじっとしていたのかわからない。不意に目の前に光が一筋差し込んで、また暗くなった。ベッドの下をのぞき込んできた女の人と目が合ったのは、ほんの一瞬のことだった。こども、とつぶやく声がして、女の人の顔が視界から消える。部屋の明かりがつく。影が伸びて、近づいてくる。
「怒らないから、出ていらっしゃい。ドーナツ買ってきたの。買いすぎちゃって、一緒に食べない?」
 まひるはあっさり、ベッドの下から這い出していった。かわいいお客さんだこと、おじいちゃん自分で動けないから、こうやって遊びに来てもらえるときっと喜んでるでしょうね。女の人は言った。エマは怖くて動くことができない。まひるはもう女の人と楽しげに話している。やがて女の人が言う。
「あっちの部屋でお茶でもしましょうか」
 ふたりが部屋を出て行ったのを確認して、急いでベッドの下から這い出した。縁側にまだ靴が転がっているはずだ。見つかる前にあれを履いて外にでなきゃ。
「い……」
 ほとんど動かなかった老人がかすかに指を動かした。エマは部屋の出入り口で立ちすくむ。行かないで? 呼び止められた気がして。
「いき……」
 老人はかすれた声で何か言おうとしていた。エマは近くに寄ってそっと確かめる。「いきたくない」老人がうめく。瞬きする。目から何かがこぼれた。涙だ。エマはその時、老人の枕元に置かれていた透明な瓶に気がついた。中に真珠を溶かしたような、不透明の液体。刹那、老人はうっすらと目を開いて、ドアのほうを指さした。
「いきなさい。ここにいたら……」
「でも、」
「逃げろ。二度ときたらだめだ」
 やせこけた体からは想像もできないような強い声だった。エマは怖くなって逃げだす。縁側の下に隠すように脱いだ靴はまだそのままだった。まひるの靴もまだそのまま。長い廊下の奥の障子の向こうから、まひるの笑い声が聞こえてくる。くすぐったそうな、おかしくてたまらないという声。エマは少し迷って、一目散に逃げだした。
 
 それからというもの、まひるは友達を誘ってお化け屋敷に頻繁に遊びに行くようになった。エマも何度か誘われたことがある。だけどおじいさんに怒鳴られたことが怖くて、あの後エマは一度もあの家に近づいていない。一度、小学校の教室で居眠りをしているまひるの口元から、小さな丸い珠がこぼれるところを見た。それがあの瓶の中の液体の色とひどく似ていて、不気味だった。
 小学校最後の年、運動会の練習の最中にまひるは倒れた。熱中症ということだったけど、あれを本当に熱中症というのだろうか。まひるは、目から、耳から、鼻から、あの真珠みたいな小さな珠を地面にたくさんまき散らして倒れた。エマは運動場の隅っこに踏まれず残っていた、真珠の球をそっと拾った。甘い、綿菓子みたいな香りがする。舐めてみると、すうっと溶けて、口の中に甘い味が広がる。拾い集めた珠を、家に帰ってコップの水に落としてみた。球は見る間に水に溶けて、瓶に入っていたのとそっくりの液体ができた。眠る前に一口飲むと、まひるの夢を見た。まひるは一面の花畑にうずくまって、ぼうっと空を眺めていた。「夢を盗られたの」まひるがつぶやく。エマはまひるの隣にそっと腰かけて、まひるが以前話してくれた、保育士になる夢について話した。資格を取って、通っていた保育園で働くのがまひるの夢だった。自分が生んだ赤ちゃんもそこに預けて、友達のこどもの面倒も見ながら、みんなで一緒に保育する。エマは夢中で話した。話し過ぎたかな、と不安になってまひるの顔を見ると、まひるは「返してくれてありがと」と微笑んだ。「もう行かなくちゃ」まひるが立ち上がる。「待って、」もっと聞きたいことがあって、もっと話したいことがあって、でもエマの体はうまく動かない。まひるは花畑をどんどん進んでいって、最後にエマを振り返った。「ばいばい」
 そこで目が覚めた。嫌な夢だった。母親が部屋に入ってくる。「まひるちゃん、亡くなったんですって、今朝」

 以来、エマはときどき夢を見る。見渡す限り花畑の丘の上で、男が座っている。「いきたくない」今のエマには彼の言っていることがわかる。「生きたくない」「他人の夢を喰ってまで生きたくない」男は泣いていた。エマは男の隣に腰を下ろす。隣に座ったまま、涙が珠になるのをじっと待っている。だけど涙は、地面に吸い込まれる一方だった。どうかもう一度あの味を味わえますように。エマは目を閉じて祈る。

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