月下樹精


 冬の寒い日のことだった。派遣の仕事からくたくたになって家に帰る。執拗で陰湿なクレーム処理に精神力を奪われ抜け殻のようだった。迎えてくれる家は冷たい。室温は外気とほとんどかわらないか、それ以下だ。かじかむ指で暖房を入れ、気力を振り絞り、外に干しっぱなしだったジーンズを取り込もうとにガラス戸をあける。

 すると、ベランダに見知らぬ男が立っていた。立っていたってここは私一人の住む部屋なのだ。外から侵入したのは明らかだった。二階だから登れないこともないが、危険を冒して他人の敷地に侵入する人間なんて、明らかにまともではないだろう。だけどその男があまりに悲しそうに空を見上げているので、通報するとか叫ぶとかそういう手段は思いつかず、またそのときの私は一切の恐怖心を忘れていたようでもあった。なにせ男の肌は白魚のように白く、筋肉質な体つきとは裏腹に、妊婦のような丸く突き出した腹をトレンチコートの下に抱えていたのだから。男はようやく視界の隅に私を認めて、言った。

「寒くて。中に入れてもらってもいいですか?」

 男の目尻には光るものがあった。泣いていたのかもしれない。気がつくと私は男を室内に招き入れ、温かい紅茶を振舞っていた。男は言う。

「今度からわたしが淹れますよ。美味しい茶葉も持ってます」

 古びたリュックには高価そうな紅茶のパックが山と入っていて、男の荷物はそれだけだった。身分を証明するものもなにも見当たらなかった。

 男は私の部屋、安アパートの一室で暮らすようになり、二週間ほど経ったある日、狭い風呂場で出産した。まさかほんとうに身ごもっていたなんて。男の腹を引きちぎるように出てきたのは、おりもののように濁った半透明の巨大な塊だった。流産かと思ったが、そうではないらしい。男が感極まって泣きながら赤ん坊を抱きしめる。そういえば、男の素肌は透き通ってこそいないものの、怖いほどに真っ白だった。この世のものではないのかもしれない。目の前の光景に理解が追いつかない。思考が止まる。それでも出勤時刻はやってくる。私は通勤電車に乗り出社する。社会は私の異常事態など気にも留めずに動いている。

 でも、家に帰ると男が膝で赤ん坊をあやしている。赤ん坊はぷよぷよしていて、皮膚に覆われていないゲル状の生物で、触れると冷たい。意思は持っているようで、きまぐれにこちらに近づいてきては、おそるおそる私の腕に触れ、そしてまた男のところへ戻って行く。私は私が家を空けている間、家で男と赤ん坊が何をしているのかわからない。わからないから、日常の景色はほとんどこれまでと変わらない。働いて、家に戻って、食べて、眠って、また働く。だんだんと非日常と日常の境界が解けて混ざり合う。ほとんど見分けがつかなくなる。

 しかし、都合よくなにもかもこれまで通りというわけにはいかなかった。食い扶持が一人増えたことはとてもつらい。派遣の稼ぎで他者を養うことは容易ではない。飢えた私たちは赤ん坊の肉に手を出した。男はキッチンから果物ナイフを持ち出し、赤ん坊の表面を滑らせる。半透明の肉は抵抗もなくあっさりと取れた。口に運ぶとほのかに甘かった。肉の断面からは血も浸出液も出てこない。切り離されても本体は元気に蠢いていて、目を離すと再生している。

 赤ん坊の肉を食べて以来、不思議と腹が空かない。一日何も口にせず働き続けることができた。食費を削ると余裕ができた。赤ん坊と男に衣服を買い与え、休みの日には三人で出掛けた。黄色くない肌を蔑んでのことか、小学生が男に石を投げる。男は裂けて内部の覗く肌を押さえて、「帰りましょう」と言う。私は男と子供を守れない。そのことが歯がゆい。

 男との暮らしは快適だった。男は私に何も望まない。期待しない。赤ん坊は泣かない。水を好むようで、湯船につけておけば文句も出ないようだ。男は衣服を脱いで赤ん坊と浴室で過ごすことが多くなった。外に出れば人々に好奇の目を向けられる蔑まれる。だからと言って彼らをこんな狭く不便な部屋に閉じ込めておくなんて間違っている。不健全ではないか、赤ん坊の教育に悪いのではないかと感じるけれども、私にはどうすることもできない。 

 浴室から男が出てくる。一糸まとわぬ姿で赤ん坊を抱いている。男の肌には色がない。真っ白で月明かりのようだ。私は思わず男の肌に手を伸ばす。男の肌は剥いた梨に似ていた。繊維質でごつごつしているのに、水気だけはたっぷり含んでいて、独特の香気があった。ざらりとした質感が、赤ん坊ののっぺりした表面と対極で異質だった。

「ねぇ、この子、誰の赤ちゃんなの?」

 私の質問に男は笑っているだけだ。拒絶の笑みだった。私に教える義理はないとでも言いたいのだろうか。この部屋の主は私なのに? あなたが働かない分私が家賃や光熱費、水道代を負担しているというのに? 

 赤ん坊は水遊びが好きだった。昼間から湯船に水を張りその中で遊んだ。百円ショップで金魚のおもちゃを買って与えるととても喜んだ。水を出しっぱなしにして風呂桶からあふれさせた。赤ん坊はやがて水から出て、地面を這いずり回るようになった。赤ん坊が通った後の床は粘液で汚れた。入居時に大家と交わした契約のことを思い出す。退去するときに原状回復義務が課せられている。私の怒りはまた大きくなる。汚さないで、と言ったって、赤ん坊の肌は湿っていてぬるついた粘液に覆われている。移動するだけで部屋が汚れるのだ。ぶつける場所のない怒りだけが膨らんでいく。

 赤ん坊が生まれてから、水道代がどんどん高くなる。私はいったいこれからどうしたらいいのだろうか。どうにも耐えられなくなり、男に詰め寄った。男は困ったような薄ら笑いを浮かべるだけだった。私は男に唾を吐きかけて家を出る。

 その日はそのまま帰らなかった。夜通し飲んでカラオケ店で時間をつぶして家に帰ると男が消えていた。赤ん坊の姿もなかった。これでもう意味のわからない居候との共同生活も終わりなのだ。じりじりと精神が消耗していくような、はりつめた生活もおわり。私は玄関にへたり込む。脚に力が入らない。立ち上がれない。履きつぶした靴の匂いに満ちた小さな玄関でうずくまるように眠った。目が覚める。倦怠感と共に立ち上がる。部屋にはやはり誰もいない。自分の身体に空洞ができてしまったようだった。心の奥に空洞を抱えこんだままシャワーを浴びる。浴槽の傍には、赤ん坊が遊んでいた金魚のおもちゃが転がっている。

 何週間か、自分がどれくらい過ごしていたのか、食事をとる必要のない自分にはもはや正常な時間感覚が残されていない。朝から蝉の断末魔と子どものはしゃぐ声が聞こえるようになり、夏になったのだと気がつく。私は暑さすら忘れていたようだった。仕事はとっくに首になっていた。

 ふと思い立ってショッピングセンターをうろつく。日曜の午前中は中学生や親子連れでいっぱいだった。ショウウィンドウに家族連れの姿が写る。女の顔はよく見えない。私より年上で幸せそうな女だった。男の方は、ぞっとするような白い肌、夏だというのに長袖とフードで覆い隠しているものの、すぐにあの男だ、とわかった。その時にはもう体が動いていた。男はかわいらしいおくるみでくるまれた子を抱いている。私は男がトイレに入った後をつける。トイレから出てきた見知らぬ異性がぎょっとした顔で私を見たが気にならない。フードの男が赤ちゃんをおむつ台に寝かせる。半透明の身体がビニール袋に包まれておくるみの中で蠢いていた。男は水筒の水を赤ん坊にかける。体が透明度を増し、きゃっきゃと跳ねる。喜んでいる。男もどこかほっとした顔を浮かべながら、水筒に水を補充するために、手洗い場に向かう。そとのきにはもう体が勝手に動いていた。私はおむつ台に向かって駆け寄る。赤ん坊を抱きしめて、一目散に保育スペースを出た。背後で「あっ!」という叫び声が聞こえる。私は夢中で走る。そのうち子供がぐったりしてくる。あまりに強く抱きしめすぎたかもしれない。ビニール袋なんかで包まれて可哀そうに、すぐに自由にしてあげるからね。もう少しの辛抱だから。

 家に帰ると、鍵をかけて出たはずなのに、中で男が待っていた。

「返してください」

 男は困ったように片手を差し出し、おくるみに伸ばす。私は赤ん坊奪われないよう、必死で抱きしめる。

「ひどいよ。勝手にいなくなって」

「勝手に出て行ったことは謝ります。だけどここはこの子にとってあまり良い環境ではなかったようなので」

「もう一度だけチャンスをください」

 私は深く頭を下げる。男はかぶりを振る。強引に私から赤ん坊を奪い、立ち去ろうとする。私の心の空洞を埋めたのは、やはり怒りの感情だった。

「どうして! 待ってよ! ひどいじゃない、いきなり、なにも持たずに現れたあなたを私は黙って受け入れたのに! 今度は突然いなくなるなんて! どういうことなの? 説明して! あなたにはその義務がある!」

 男が振り向く。目に哀れみが滲んでいる。

「もう、やめにしましょう。そういうのこの子によくないですから」

 赤ん坊は男の腕の中で小さく縮こまって震えていた。そうか、この子はずっと私に怯えていたのだ。

「私たちは身を削ってあなたに尽くしました。それでもあなたが納得しないというなら、あなたはいったい我々をどうなさりたいんですか?」

 小さな半透明の生き物の身を削って食べたことを思い出す。柔らかく、甘く、美味だった。けれども体を削ってもあの生き物は元気に生きていたのにーーー

「この子は成長に使うエネルギーを我々に分け与えてくれていたんです。おかげでずいぶんと発育が遅れてしまった。でも、もう、済んだことですから。私から言うべきことはなにもありません」

「あなたは、じゃああなたが、あなたが働けばよかったのに」

「子を産んだ男は腹が裂けます。治るのに数年かかる。それに私は地球の戸籍を持っていませんから、働くとしてもひどく不安定な働き方になったでしょう」

 男の声からは感情がそぎ落とされ、しみじみと諦めだけがあった。私はそれ以上男を責める言葉を口にできなくなってしまった。

「どうしてあの夜、あなたはうちのベランダにいたの?」

「見送っていたんです。仲間たちが月に帰るのを」

「月から来たの? なぜ一緒に帰らなかったの?」

 男は私の顔を見て笑った。今度の笑顔は、柔らかかった。だけどどこか遠く、つかみどころのない表情だった。

「私は禁忌を犯しました。それで、追放されたんです」

「禁忌って」

「愛してはいけないものを愛してしまいました」

「あなたも誰かを愛したことがあるの?」

 男はうなずく。ショックだった。男が私を愛してくれることはないだろうということがわかってしまったから。私は男を愛するつもりも受け入れるつもりもなかった。ただ他人から与えられる共感やぬくもりだけを手にしたかった。

「さっき一緒にいた女の人はだれ?」

「ここを出てすぐ会った人です。部屋を借りてるんです」

 なぜか胸がしめつけられた。苦しかった。私一人では男も子どもも養えなかった。瞬きすると、涙がこぼれた。

 男がふと私の頬に触れる。涙をぬぐう。耳元に口を寄せて、囁く。

「あなた、我々の赤ん坊の肉を食べましたね。あれは不老の薬です。あなたが死ぬとき、我々はきっとあなたを迎えにきますから。我々が地球で契った女はあなただけです」

 男は私の手元から子どもをとりあげ、それでは。と頭を下げて玄関から出て行く。涙が止まらない。一人になっても私は泣き続けてた。誰もいない部屋がとても寂しい。今思うと、家に帰ると男と子供がいたことに、ずいぶん心を救われていたのだとわかる。帰りを待っていてくれる人がいるというのは救いだ。彼らが本当に私の帰りを待ち望んでいたかどうかは怪しいところだけれど、少なくとも私は彼らに救われた。

 赤ん坊の肉を食べて以来、どんなに疲れていても、食事もとらずに一日中働いていることができた。新しい職場で極力個人の話をせずに、黙々と働く。食費を削り居候もいなくなり、貯金額だけが増えていく。老いない身体を怪しまれるたびに職を転々とし、面接では堂々と整形が生きがいなんですと訴えた。この際だ――――、貯まったお金を実際に美容整形に充てようかと思ったこともあった。しかし、決心がつかなかった。醜いまま不老になってもいいことなどひとつもない。かといって、美しくなったからどうなのだ。あの人たちが帰ってきてくれるわけでもないのに。

 老いない身体を手に入れて唯一よかったことといえば、煩わしい月経から解放されたことだった。もともと子を産み育てるつもりなどなかった。だからあの日、腹を大きくした男が家に転がり込んできたとき、これで私は人並の人生を送るためのパーツをふたつとも手に入れた、と内心でほっとしたのだ。男は私の身勝手な思いを見透かしていたのだろう。今なら、今彼らに会ったら、私はもっと心から彼らの存在を受け入れられるのだろうか。自分でもよくわからない。年を重ねるほどに許せないものが増えている気もする。

 男は不老とは言ったが不死とは言わなかった。だから、私もきっといずれ死ぬのだろう。死ぬ前にもう一度だけ、彼らに会いたい。男が産んだ子供に会いたい。頭の中で何度も、迎えに来ると言った男の言葉を繰り返す。死ぬときはひとりではない。だから大丈夫。だから大丈夫。だから大丈夫。夜眠る前、どうにかして彼らに再会できますようにと祈りながら床に就く。目が覚め、今日もまた生き永らえてしまったのだとがっかりする。どうにかして早く男とあの子に会えるすべはないか、そのことばかり考える。今でも同じ部屋に住み続けているのは、いつか男が戻ってくるのではないかと期待しているからではなかったか。

 冬の夜、ベランダに出ると月が白い。男と初めて出会った日のことを思い出す。月あかりと同化して、青ざめた顔で泣いていた男。大きく前にせり出した腹。懐かしく思って月に手を伸ばす。白く輝く丸い月。伸ばした手に柔らかく冷たいものが触れる。私はこの感触を知っている。声が接触部分から流れ込んでくる。

「迎えにきました、お母さん」

「男は?」

「死にました。地球で殺されて、死にました」

 体がふわりと軽くなる。子どもの方に吸い寄せされるように、ベランダから浮き上がる。体だけが取り残されて、ベランダから夜空に手を伸ばすように固まっている。振り返ると、魂を失った私の肉体が、抜け殻になった途端、見る間に老いていく。干からびてゆく。表面がささくれて、硬質化し、小さな木になった。体から解放され軽くなった私は子どもに導かれ、上へ上へと昇っていく。街がどんどん遠くなり、冷たい月が近づいてくる。あの月に、男はもういないのだ、あんなに帰りたがっていたように見えたのに。月を想って泣く男を置いて、自分だけ月に近づくことが心底罪深く思えた。

「私、やっぱり行けないな」

 手をふりほどく。子どもと離れた瞬間、魂がばらばらになり散らばってゆく。月面に吸い上げられてゆく。小さな小さな魂を飛散しないように抱えているのがやっとで、ほんの少しの精しかこの地に残らなかった。
 私は私の木に登る。あのとき子どもの方に手を伸ばしたまま固まった枝に腰掛けて、男が再びこの部屋に立ち寄るのをずっとずっと待っている。

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