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舌禍

エッチな小説を読ませてもらいま賞 審査員賞フマノヒト選をいただいた小説を公開します。人魚BLを書きました。これがわたしの性癖だ……!暴力と破滅の運び手さん、井上彼方さんらによるエッチな小説を読ませてもらいま賞受賞作品アンソロジーは、以下に記したBOOTHリンクからで購入できます。

エッチな小説を読ませてもらいま賞 受賞作品アンソロジー - 鴨川エッチ研究会 - BOOTH


 冬になり、空気が乾燥しているせいか、肌が荒れていた。もどかしい痒みを我慢できずに掻きむしると、傷口から鱗のようなものが生えてきて、慌てて皮膚科へ行った。医師はピンセットで鱗をつまみ上げて大事そうに瓶にしまい、痒みを抑える飲み薬を出してくれた。薬はあまり効果がなく、異変は首筋や頬にも広がっていて、図書館の受付業務に支障が出始めていた。来館客があからさまに顔をしかめたり、距離を取ったりする。鱗が生えた生き物を忌避する人は多い。きっと人魚を連想するからだろう。黒いマントを被り露出を減らした。
 館内を照らすランプには人魚の脂を使っているという。低い温度で着火し、煙が出ない。煙が出ないのは人魚の体が神からの借り物だからで、死と同時に彼らは神のもとに帰るのだという。だから死んだ人魚はこの世に灰を残さない。本当だろうか。
 一日の業務を終えて戸締りをし、帰るころには日が暮れていて、やっとマントをはだけることができる。
 街は寂れている。人が減っている。いなくなったひとたちは人魚に食われているのだと聞いたことがある。そんなはずはない。人魚を獲って肉を食っているのは人間のはずだ。人魚の肉を食べると不死になるとか、どんな病気も治るとか、治癒と引き換えに自身も人魚になってしまうとか、噂にはいろいろなバリエーションがあった。図書館の本にも人魚を扱った物語はたくさん収められている。人魚は海にいるらしい。ぼくは一度も海を見たことがない。
 先天的な心臓の異常があり、激しい運動を制限されている。治癒には移植が必要だという。生きた心臓を分け与えてくれる人なんて現れない。ぼくはこの街で本に囲まれたまま死んでいくだろう。ほんものの海も知らないまま。
 だけど人魚の肉があれば。人並の生活すらままならない心臓も。得体のしれない皮膚病も。治すことができるのだろうか。高い壁をくぐって街の外へ出る。汚れた川を辿って歩く。一晩中歩き続けて、夜明けの柔らかな光を孕んだ水平線を見た。凪いだ海面に船がたくさん繋がれている船着き場で、胸を押さえながら膝をついた。心臓がどくどくと脈打ち、こめかみが痛い。血管が膨張し熱を持つ。全身を不快な痒みが駆け巡る。掻きむしる必要はなかった。皮膚を引き裂いて鱗が生まれてくる。激痛に骨が軋み、息が苦しい。
 楽になりたい一心で海に飛び込んだ。冷たい海水が傷口を刺激する。脳髄が痺れるような痛みと冷たさに、身体を見失ってしまったような喪失感を覚えた。たすけて、声にならない声でつぶやくと、水の向こうから何かがこちらへ迫ってくる。腰から下が魚の男。全身が鈍い銀色の鱗に覆われた、三叉の槍を振りかざす怪物の姿。首筋に引き裂かれるような痛みを覚えた。肚の底から低い呻きが漏れる。大量のあぶくを吐いて、口の中に海水が侵入してくる。溺れる恐怖で頭が真っ白になり、もがいているうちにふと気がつく。苦しくない。呼吸ができる。
 えらのあたりに深い穴がある。そこから海水を出し入れすると、息ができる。それどころか陸にいるときよりも体が軽い。怪物は浮き上がったぼくを見上げてなにかを呟き、そのまま深い海の暗闇に姿を消す。慌てて追いかける。深い水は重く、冷たかった。闇雲に潜っていくと息が続かなくなる感覚におそわれ、溺れた。うすぼんやりした幸福と意識の停滞のただなかで、ふいに抱き留められる。とても冷たかったのだと気がついたのは暖かい海流に乗って体がほぐれてからだった。ぼくの体を抱きかかえる怪物は  温かく、暗く静かな深海を照らすランタンのように感じられた。怪物の導きで海面に出て息を吸うと、頭が晴れた。朝日のもとで見る怪物の神々しさに体が震え、
「お前はなんて美しいんだろう」
 呟くと、怪物は呆れたように笑って、幼子をあやすようにぼくの額にくちづけをした。
 以来その怪物のことばかり考えている。
 怪物のことは人魚と呼んでかまわないだろう。上半身が人間で、下半身が魚の姿、物語でよく知られた姿をしている。ぼくは半魚人ということになるだろうか。全身が鱗に覆われ、気がつくと指のあいだに水かきのようなものまでできている。たぶん、とても醜い。
 人魚はときどき鋭い歯で魚をくわえて持ってくる。小型の鮫のときもある。それをぼくに食べさせる。人魚のおかげで食べ物には困らないし、孤独でもないし、以前よりも体が楽になってずっと生きやすくなった。半魚人の暮らしも悪くはないかもしれない。などと思い始めた頃に胸が痛くなり血を吐いて、そういえば自分の心臓が使い物にならないくらい悪かったことを思いだした。ぼくの調子が悪いことに人魚もなんとなく気がついているようで、頻繁に様子を見に来る人魚に、暇なのか? と尋ねたら笑われた。人間のことばを理解しているのに、自分からは話そうとしない人魚のことが不思議で、もっと知りたくなる。今まで読んだどんな本の中にも、人魚の心を描いた本はなかった。新しい本を求めるように、ぼくは人魚の来訪を待ち望むようになった。
 ある嵐の晩、波に揉まれて砂浜に打ち上げられた。砂浜を歩いている人間たちがぼくの姿を認めて顔をしかめたり、逃げ出したりする。人々を怖がらせるのは案外気分がよかった。いい気になってポーズをとったり写真撮影に応じたりしていると、以前世話になった皮膚科医がやってきた。半魚人が出るという噂を聞きつけてやってきたのだという。
「全身を鎧のような鱗に覆われた男が体を焼いている、と聞いてもしやと思ったんですよ」
 皮膚科医はそう言ってぼくにアルコールの入った瓶を勧めた。『症状』が進んだぼくの体を見定めるように上から下まで眺める。
「どうですか、調子は」
「よくない。もともと心臓が悪かったので、きっと長くはないでしょう」
「人魚の肉でもあればねぇ」
「おとぎばなしでしょう」
「そうでしょうか。以前人魚が揚がった港があったんです。近くでは寝たきりの老人が元気に歩き出したり、歳をとらない赤ん坊があらわれたり、奇妙なことが散々起こったようです。もちろん人魚の肉を目的に漁をすることは禁じられています。でもねぇ。向こうからかかることだってあるわけだし、あなたみたいに打ち上げられる間抜けな個体もいるじゃないですか」
 結局その港は閉港になったようですね。港町も寂れて、いまじゃ廃墟ですよ。わたしの故郷なんですがね。言いながら医師はぼくが受け取らない瓶の封を切って、口に運んだ。ピンクの液体を気持ちよさそうに喉を鳴らしながら飲む。溢れた液体が喉を伝って砂に落ち、落ちたそばから砂に取り込まれる。
「肉を食わないっていうのは、でも、かわいそうじゃありませんか。脂を採るためだけに人魚を獲るなんて、残酷だ。人道に反している」
「えらく人魚の肩を持ちますね、仲間意識意ってやつですか」
 自分の体が目の前の人間にどういう風に映っているのかを想像して、不意に血液が冷えていく感覚がした。
 人魚は体に厚い脂の層を蓄えていて、寒暖差の激しい海中の環境に適応しているのだそうだ。人間は人魚の脂を工業的に利用している。暗がりを照らす灯りのためだけに、ぼくたちは人魚を乱獲しては、脂を採取して利用していた。人口が減っているのを人魚の呪いだと言う神職者もいる。
 陸に上がったぼくを心配してか、沖に何度か人魚の姿を見た。顔を出してこちらをじっと見ている。ぼくはわざと気がつかないふりをして、海に戻らなかった。
 ある夜波止場を歩いていると、叩き割った瓶を振りかざした女がこちらに向かって突進してきた。
「半魚人でもなんでもいい。お前の肉を食わせろ、あたしはまだ死ぬわけにはいかねぇんだ、こどもふたりをひとりだちさせるまでは死ねないんだよ」
 女はわめきながら襲い掛かってきた。
「助けてほしいのはこっちのほうだ、お前こそこの壊れた心臓をなんとかしろ」
瓶を奪い取り、海に投げ込んだ。女はへたへたと座り込む。
 もはや陸上に自分の居場所がないことを悟って、海に戻った。あまりにおそろしかったからか、久しぶりに泳ぐからか、体が上手く動かない。溺れかけているところを誰かに抱きしめられた。いつもの人魚だと気がついて、逃げ出そうともがく。けれど逃げられなかった。前腕が発達していて、おそろしい力だった。人間が彼らを獲っているなんて信じられない。
 揉み合っているうち、顎を掴まれて、唇を奪われる。人魚の歯が唇に刺さって痛い。見れば人魚の唇も傷ついて出血している。赤い体液が海水に漂ってどちらのものともなく混じっていく。あたり一帯に血なまぐさいかおりが広がり、口の中にむにゅ、と柔らかい肉片が差し込まれた。血と潮の味がする。体を組み伏せていた強い力が緩み自由になって、見れば、人魚が血まみれの口元から欠けた舌先をのぞかせて笑っていた。
 体が離れたころにはぼくはもう口の中の肉片を飲み込んでいる。じわりと胸が熱くなり、苦しくなる。痺れに似た感覚が口の中を覆った。人魚が耳元で言葉にならない低い呻きを囁いた。人魚の舌はとても短くて、分け与えるのはこれが初めてではないのだろうとわかった。涙がこぼれたのはそのせいだったのだと思う。
 今ではぼくの心臓はすっかり頑丈になって、冷たい海で凍えることもなければ、猛スピードで泳ぐことだってできた。死ぬこともないから、ヒトの都市が滅びるのを何度も見届けた。何度目かの滅びの後、人魚は残った人類に肉を分け与えていなくなった。食べられるその時も、あなたはきっと最後まで笑っていたのだろう。ときどきぼくはあなたの残した人間たちを食べる。舌を引きちぎるほんの一瞬、あなたの味を感じられるのが好きだ。楽園を追われた人間たちの悲鳴を聞くとき、幸福の余韻がぼくの頬を緩め、冷え切った血を温める。


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