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グリント

 北極圏にもわずかだけれど季節の変化がある。オーロラの妖精ホアは、編み物をする手を止めて窓の外を見る。もうすぐここにも夏が来る。夏になったら氷のねぐらから移動して居を改めなければ。沈まない太陽の熱で氷の城などひとたまりもないだろう。年々このあたりも熱くなる、夏は嫌いだ。
 ホアは皺の増えた手を氷の窓から射し込む光に透かす。あれから何度目の冬を耐えたっけ。五十までは数えていたけど、それ以降はわからなくなった。冬の間は城に閉じこもって、夏になるとカリブーの群れと移動する。冬はずっと室内で古びたオーロラの繕いをする。それだけの生活だった。ホア少しだけ伸びをした。そして長い階段を降り、半年ぶりに地上に降り立った。雪解けの気配と、緩んだ氷の鳴く音が響き渡る。

 確かあのとき、季節は春だった。短い夏の訪れを予感して極地の生き物がにわかに騒がしくなり、低木がささやかな春を満喫する季節。エスキモーの少女と出会ったのだ。少女は名をグリントと言った。グリントはホアを一目で妖精だと見抜いた。普通人間にホアの姿は見えないはずなのに、どういうわけかグリントにはホアのいる位置が分かったし、見た目だってお見通しのようだった。
「変な髪の毛」
 グリントはホアの黄緑色の髪の毛をつんつん引っ張った。ずいぶん失礼な娘だと思った。あまりにしつこいので、ホアが怒るとグリントは喜んだ。
「すごい! 怒ると髪がオーロラみたいに光る!」
 以来グリントはホアを怒らせようといろいろないたずらを仕掛けてくるようになった。あんまりしつこく追われて、グリントから逃げようと神聖な湖の周りで走り回っていたら、女神の怒りを買って呪いを受けてしまったのだ。呪いはふたりにとって真逆に作用した。ホアには老化の呪いとして、グリントには時を止める呪いとして。

 呪われたグリントはエスキモーの群れを離れ、一人で暮らしているようだった。ときどきホアはグリントに出会う。グリントはいつ会っても若い。彼女はどうやら魔術の腕を磨いているらしい。呪いを授けた女神に一泡吹かせてやるのだと言って、いつもみたいに下品に笑う。飛行術を習得した年の冬、グリントは極地を去った。ホアの周りは静かになった。ホアの呪いを不吉だと言って、仲間もめったに寄ってこない。
 好きじゃなかったのに、グリントのこと。今でも思い出すのはどうしてだろう。元気にしているだろうか、グリント。

 そのころ、グリントはホアを探して長い旅をしていた。
 泉の女神を雷の魔法でぼこぼこにしたらあっさり呪いは解けた。心残りはホアのことだけだ。巻き添えにして悪かったなという気持ちはほんのちょっとだけ、心臓の表面にとりついた寄生虫みたいに、不意にグリントを締め付ける。自分の呪いを解いた後は、ホアの呪いを解かなければ。この気持ち悪い「感情」から解放されるためにも。

 けれどもホアはなかなか見つからない。妖精仲間を見つけ次第片っ端から締め上げたけど、誰もホアの居場所を知らなかった。あいつ、私より友達がいないのかもしれない。グリントはだんだんホアのことが気の毒になる。妖精は呑気な見た目以上に潔癖な性質があるらしく、呪いや老いといった要素を毛嫌いする。ふたりで受けた呪いは、ホアにだけ孤独の病をもたらしたらしい。
 雪解けの気配に浮かれているカリブーの群れを問い詰めてようやく、ホアが氷の城に住んでいるという情報を掴んだ。喜び勇んで駆けつけてみれば、城はもぬけの空。しかも溶けだした氷が崩れるのに巻き込まれて、危うく死ぬところだった。ホアの野郎、一体どこに行ったんだろう。あたしから逃げるなんていい度胸してる。ん? 逃げたんじゃなくてあたしが追っているのか。グリントは氷のかけらに映った自分を覗き込む。気がつかないうちにずいぶん歳月がすぎたようで、娘時代とはまるで別人の自分がそこにいた。ホアを探しているうちにずいぶん年老いて、もういいばあさんじゃん。ちょっとだけ嬉しくなって、グリントは娘時代の毛皮の衣服を脱ぎ去って、上等なドレスに着替えた。

 だからホアの目の前に現れたとき、グリントは真っ赤なロングドレスとキャットアイ型のサングラスを身に着けていた。

「久しぶりね」
 興奮する気持ちを抑えて、グリントはサングラスをホアに向かって投げ捨てる。ホアは律儀にそれを受け止め、どなたですか……? と遠慮がちに尋ねた。
「わからないの? グリントよ」
 ホアは、はあ、と気の抜けた返事をしただけだった。
「じゃあ、グリント、あなた、呪いは解けたの?」
「そう。あんたの分の呪いも解いてやらなきゃと思って、今までさんざん探し回ったんだから」
「私は、だって……いまさら呪いが解けたところで、元に戻るわけでもないし」
 なによりホアは、今の友達のいない一人の暮らしが気に入っていた。静かで、穏やかで、与えられたノルマをこなすだけでいい。
「え、呪い、解きたくないの?」
「だって、どうせあなたのことだから、泉の女神さまをひどい目に遭わせるんでしょう?」
「まぁ、それはそうなんだけど。でも向こうが悪くない? 私たち何も悪いことしてないのに」
「いいえ、グリント。物事にはしかるべき理由があるものなのよ。たとえあなたがそれを理解できなくてもね」
 ホアが冷たく拒むので、グリントは真っ黒い髪の毛をかきむしって強引にホアの手をとり、カリブーの曳くソリに座らせた。
「この引きこもり。あんたに友達が全然いないせいで、私がどれだけあんたを探すのに手間取ったと思ってるの? お返しにあんたをここから連れ出してやる!」
「ちょっと、やめてよグリント!」
 グリントとホアを乗せたたソリはぐんぐん空を走って行く。
「ねぇ、大丈夫? 落っこちない?」
「大丈夫よ。私は泉の女神の呪いだって解いたんだから。大魔女さまなのよ」

 結果から言うと、グリントは魔法に失敗して、ふたりまとめて真っ逆さまに地面に落ちた。今まで人を運んだことなんてなかったから、失敗してしまったのだ。ホアと同じように、グリントにもまた友と呼べるような人はいなかった。飛行呪文の練習に協力してくれる友達なんて、なおさら。

 墜落した先は、見渡す限り砂漠の大地だった。砂がクッションになってくれたらしい。ホアはグリントを助け起こして、とりあえず日陰を探しましょう。とグリントにサングラスをかけさせた。グリントは一瞬だけしおらしくなったけど、すぐにまた元気を取り戻してえらそうになった。

 暑さでカリブーが参ってしまったので、グリントは彼らを魔法で故郷に帰した。キャラバンからラクダを失敬し、グリントが魔法で杖をパラソルに変える。ふたりはラクダに乗ってパラソルをさし、砂漠をどこまでも揺られていく。
「焼けた砂って熱いのねぇ」
 ホアは火傷した足の裏をしげしげと眺める。
「なに? あんた裸足なの? 馬鹿なの? それにそのダサい格好、会った時と同じ服じゃない!」
「だって私、呪われるまで普通の妖精だったし……、妖精って見た目にバリエーションが少ないから、服でアイデンティティを保ってるようなものなの。しょっちゅう着替えたりしないし。靴だってそんなに持ってない。なのに砂の上って歩きにくくて、履いてた靴も捨てちゃった。グリントこそしわくちゃの肌に赤いドレスなんて似合わないよ」
「なに言ってるの? 赤は年寄りのための色なのよ?」
 グリントが目くばせするとホアのスカートが赤く染まる。ホアは不思議そうに色が変わっていく様子を眺める。
「恥ずかしい、こんな目立つ色」
「目立たないとその辺で行き倒れても誰にも助けてもらえないわよ?」
 あんたほんとに成長してないわね! グリントが大きな声で言ったので、驚いたラクダが砂漠の真ん中で歩みを止めた。
「無駄に年ばっかりとって!」
「失礼ね。無駄って何? グリントだって立派なおばあちゃんじゃない」
「そうよ、私はババアよ! だからなんなの?」
「なにって……何って別に、なんでもないけど……」
 人間って年取ると死んじゃうんでしょ。ホアは小さく呟いた。
「そうだけど。でもそれが普通なのよ?」
「私妖精だから、死ぬとかよくわからないし。でもグリントが死んだら、いやだな。腹が立つな。私を勝手に巻き込んでおいて、勝手に死んだらすごくむかつくな」

 グリントはぽかんとホアの顔を見た。ホアもグリントを見た。グリントはしばらく考えて、顔を赤くして、平気な風を取り繕って、言った。

「私はまだまだくたばるつもりなんかないから。うんとうんと長生きして、えっと……泉の女神より長生きしてみせる。たまにはあんたにこうして付き合ってあげないこともないわよ」

 それからふたりは互いの顔から視線を外して、そわそわ体を動かした。ラクダが大きなげっぷをした。ラクダを奪われたキャラバンの人々が、遠くからぼんやりとふたりの姿を見ていた。

 やがてふたりは砂漠を抜けてゆるやかな流れの川を見つけた。川を下ると海に出た。真夏の海を見るのが初めてのホアは、灼けるような日差しを跳ね返して光る波間を眺めていた。グリントは娘時代にそうしたように、ホアの髪を引っ張って気を惹こうとする。ホアはグリントの手を取って、
「そういうときは、こっちを向いてっていうのよ」
 と言った。グリントは驚いた顔をして、怒った声で、わかった。と言った。

 温かい海に囲まれた小さな島に流れ着き、ふたりはそこにちいさな家を築いた。ラクダに干し草を食わせ、ちいさな畑で作物を育てる。太陽風が激しく吹き荒れた夜は、ふたりの島からもオーロラが見えた。
「あのオーロラのつくろいかたは素晴らしいわ」
「あっちはだめ、テンションがかかりすぎてる。オーロラは引っ張りすぎてはいけないのよ」
 熱心に語るホアをみて、グリントは故郷に戻りたいのかと尋ねる。ホアは黙って首を振る。

 それからふたりはうんと年を取って、ずっとずっとしわくちゃに、小さくしぼんでいった。髪の毛は真っ白に、銀色に変化し、未染色の糸のように細くなった。ある朝グリントが冷たくなっていて、起こしてもゆすっても目を覚まさない。ホアはグリントに真っ赤なドレスを着せて小さないかだに載せた。花を山と積んで、海に流した。ふたりでさらったラクダはとっくの昔に亡くなっていた。

 これでほんとうに、帰る手段がなくなってしまった。ホアは干潮の朝、歩いて渡って島を出た。グリントのいない朝、太陽は知らない色でホアを出迎える。なじみのない街を渡り歩くホアのスカートは真っ赤だ。これからどうしようか、ホアは頭を悩ませる。たとえ故郷に戻れたって、オーロラを縫えないくらいに手先も視力も衰えてしまった。雑木林の入り口で朽ちた教会を見つけて、そこに暮らし始める。マーケットに出かけると、ときどき人間のこどもがこちらを振り返る。グリントと初めて会った日のことを思い出す。だけど人ごみで出会う子どもたちは誰も控えめで、行儀が良くて、グリントみたいに失礼な女の子には二度と会えない。

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