「とんでもない」から「なんでもない」へ。

発症して10年。これまでを振り返って思うのは、病気や障害の経験は、(私自身も含めて)多くのひとにとっては「とんでもない」ことだけれど、それを「なんでもない」と受け止めてくれるひとや居場所もどこかにいる(ある)、ということだった。
病気や障害に限ったはなしではない。肩書きであれ、属性であれ、経験であれ、「とんでもない」と受け止める人が多数いても、それを「なんでもない」と受け止めてくれるひとは、きっといる。

私は地方都市で育って、東京の大学に進学したのを機に上京した。そして、地元の多くのひとは私が大学に進学したことを「とんでもない」ことと受け止めた。それによって私自身も天狗になったり勘違いしたりしたこともあったけれど、それによって傷付いたことも少なからずあった。
一方で、東京や大学のなかにいれば、自分のことを「なんでもない」としてやり過ごすことができた。結果として、当時の私はラクな道である後者を選んだ。

そして病気を発症したとき、そのことを「とんでもない」として離れていったひとも何人かいた(もっとも、これは私自身に原因があるところも大きいのではあるのだけれど…)。
家族だって、はじめから「なんでもない」と受け容れてくれた訳ではない。時間をかけて、そのときの私にできることやできないことを知って、―もちろん葛藤はあっただろうけれど―だんだんと私の病気を「なんでもないこと」と捉えてくれるようになった。
家族だけではない。親戚や友人・知人も、それぞれの思いはあっただろうけれど、それを表に出さずに「なんでもないこと」として接してくれた。その経験があったからこそ、私はここまで回復することができたのだと思う。

当事者としてもMHSWとしても、「とんでもない」という受け止め方が少しずつでも「なんでもない」にシフトしていってほしいと思う。けれど、それをすぐに目に見えるかたちに変えることは現実的ではないとも思っている。私の場合も、地元では私の学歴や障害はまだまだ「とんでもない」ことにされてしまうし、いまの私にはそれに耐えられるだけの強さはない。
それでも、生活を続けて行動範囲が広がっていく以上、私はきっと「なんでもない」と思ってくれるひとや場所を探して彷徨い続けて、そのひとたちの力を借りながらこれからも生きていくのだろうと思う。

そして、ほかの当事者の方も、家族や狭い人間関係に縛られずに「なんでもない」というひとに巡り会える生き方ができるようになってほしい。家族だから理屈抜きで力になれることもあれば、家族だからこそ受け容れられないこともある。同様に親戚や第三者という関係性だから抵抗なく受け容れられることもある。
どんなひとであっても多くの関係性を持つことを保障される世の中であってほしい。


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