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短編小説『メダカが降ってくるのを待ってる』【第60回「文藝賞〈短編部門〉」応募作品】

メダカを飼うことにした。

春、四月の足音はもうすぐそこまで聞こえている。春は嫌い。新しくなにかと出会い、新しくなにかをはじめなければいけない雰囲気を押しつけてくる。だから一週間考えて、仕方なくメダカを飼うことにした。

なぜメダカなのかは自分でもよくわからない。なんとなく、小さくて、かわいくて、においがしなくて汚くない生きものといえばメダカという気がした。金魚や熱帯魚はだめ。あれは愛されようという魂胆が見え見えで、気持ち悪い見た目をしているから。

就職を機に実家を出てなんでも好きなことをできるようになったけれど、メダカは飼ったことがなかった。スマートフォンで「メダカ 飼育方法」と検索して、最初に出てきたサイトを熟読する。必要なものは、水槽、ろ過機器、照明、それから、底砂と水草。

太陽はまだほとんど真上にあったので、すぐに行動した。

この部屋に越してきたとき、駅前には大きなホームセンターもありますよ、と不動産会社の女は言った。親切心か、あるいは単なる世間話だったのだと思う。少なくともあのときのわたしにはどうでもいいことだった。今日ほどあの無意味なやりとりに感謝したことはない。ありがとう。そしてさようなら。明日からはまた、どうでもいい赤の他人。

三階に併設されたペットショップですべてそろえることができた。水槽、ろ過機器、照明、底砂、水草。メダカは五匹飼うことにする。数で困ったときは、余計なことを考えず三か五にすると決めているから。全員メス。オスはいらない。品種はヒメダカというのにした。わたしが知っているメダカはこれだけだ。黒だの白だの青だの、知らないものに興味はない。

サイトで説明されているとおり忠実に水槽をセッティングする。底砂を洗って、水槽に敷いて、水を入れて、塩素中和剤を入れて。水草も、「メダカ 水草 レイアウト」と打ちこんで出てきた動画のとおりに配置した。「プロが解説!」とサムネイルとタイトルには書いてあったのだから、きっとメダカたちも喜んでくれるだろう。喜んでくれなかったとしても、責任を負うべきは動画の主であり、わたしは傷つかない。安全で楽な方法。

ろ過フィルターをセットしたら、メダカたちが控える袋をそのまま一時間ほど浮かべて水温をあわせる。そのあいだに名前を考えることにした。最初はそれぞれの個体に名を与えるつもりでいたのだけれど、三十分経ってどれだけ観察しても個体差を見いだすことができなかったので、五匹全員が「トモ」だということにした。友達だからトモ。トモちゃん。

それからまた三十分が経って、ようやくトモちゃんを水槽の中へ放すときがきた。

幸いにも、トモちゃんはわたしが一生懸命つくった箱庭を気に入ってくれたらしかった。黒いまんまるの目で、皆一様に水槽の中を興味深げに泳いでまわる。水草に隠れる子、水槽の上のほうを泳ぐ子、水槽に触れるわたしの指先を興味深げに見つめている子……。わたしの、愛すべき友人たち。

餌は一日二回、仕事をはじめる九時と、それから、夕食を採る十九時に一度ずつあげることにする。休日も時間は変えないこと。最初のうちは少なめにあげる。ペットショップで与えられていた餌を買ったから、たぶん、きちんと食べてくれるはずだ。

「め、だ、か、のがっこうは、か、わ、の、なか」

それから、しばらくはその美しい箱庭をながめて過ごした。トモちゃんが水草の中へもぐりこんでそれを揺らすように、わたしの心も、ゆらゆらと心地よく踊っている。

早く、みんなもここへ来ればいいのに。他のメダカたち。新しいお友達。だってここはわたしがつくった、世界で一番、優しくてきれいな場所。泳いでここまで来ればいい。たくさん。たくさん。ね、と同調するようにトモちゃんがわたしを見つめる。

新しいことがはじまる。

なにかと出会い、なにかをはじめなければいけない季節。


* * *

大学に入学したとき、絶対に東京で就職するのだと決めていた。

高校二年生の夏から、両親はわたしに、大学は実家から地元の四年制に通うようにと口をそろえて言った。彼らにとってはたった一人の娘だった。愛してくれていることは十二分に理解している。だからこそ、簡単には手放せないことも。なので、学生時代は電車でほんの数駅の、小さくて地味なありふれた大学で過ごした。文学部。美しい言葉と物語を追究する四年間だった。

日本の近代文学を学び、課題に勤しみ、卒論を書いて、誰も口をはさむ余地のないほどすべての義務をまっとうしてから、地元と両親を捨てた。東京ならどこでもいい。仕事もなんでもいい。こんな田舎を出られるのなら。実家さえ出られるのなら。人の趣味を押しつけられるお人形でいるより、わたしだって、世界をまるごとお人形にして、わたしの趣味を押しつけて暮らしたい。

最初の一年は、派遣社員としてとある企業の事務職に就いた。九時に出勤して、退勤は十八時。毎日毎日、表に数字を入力するだけの仕事。見えないお金が、わたしとはまったく関係のないところで、ただの記号となってあちこち移動していく。馬鹿らしかった。こんなもので世界が変わると、生活が変わると、人が幸せになれると、本気で思っているのだろうか。

数字なんてまやかし。意味を持たない。美しくない仕事はすぐに辞めた。けれど、生きていくのにお金は必要だ。不浄なお金にせめてもの矜持を。しばらくはアルバイトを転々として、そのあと、ようやくフリーのライターとして生計を立てられるようになった。美しい言葉。美しい物語。わたしが紡ぐ優しくてきれいな嘘は、この残酷で汚れた資本主義で、とても重宝される。

派遣の仕事はたった一年しかつづかなかったけれど、当時の生活リズムだけが、今でもとくに理由のないままつづいている。朝は七時に起床して、九時から十八時までは自分で選びとった案件のタスクをこなす。夕食は十九時。それから大好きな小説を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いて、日付が変わったらねむる。

そんな単調な生活に、ある日突然、五匹のメダカ――トモちゃんが加わる。新月のような、黒くてまんまるの瞳。慎ましく淑やかに泳ぐ小さな身体。上向きについた口元は、まるでこの清浄なる世界にキスをするようで。

仕事をはじめるとき、休憩しようと紅茶とお菓子を準備するとき、仕事を終えて大好きな世界に浸るとき。ふとトモちゃんの姿を認めては、少しのあいだ、外にあるすべての不浄を忘れる。楽しかった。この世界に生まれ落ちて数十年。わたしはようやく、世界に祝福されようとしている。

「早く、みんなもここに来ればいいのにね」

夜、おやすみを言う代わりに、わたしは水槽に触れながらトモちゃんにそっとささやきかける。たったの五匹。どうして他のメダカは誰も来ないのだろう。わたしがつくったきれいな箱庭。わたしが選んだ優しいお友達。こんなにも美しい世界が、ここに、あるというのに。

ガラスの壁に触れたわたしの人差し指へ、トモちゃんは優しくキスをする。幸せだった。だから憎くてたまらない。わたしが、わたしたちがここで楽しく、幸せに暮らしていることを知らない外の世界が。似た者同士で群れたがって、共感なんて甘く汚らわしい舌で傷を舐めあい、けれど馬鹿だから同じだけ相手を傷つけて。醜く、不幸な、かわいそうだけれど同情に値しない人々。彼らにもてあそばれるくらいなら、わたしがみんな、守ってあげるのに。

けれどメダカは五匹のまま。今日もどこかでいたずらに傷つけられるメダカを想って、真夜中、わたしはわたしのにおいのする枕を抱きしめながら、ひっそりと頬をすりつけ、涙してねむる。

今日という一日が死ぬ。

おやすみなさい。

美しい世界に祝福を。

汚らわしい世界に、制裁を。


* * *

昔から、男は好きじゃなかった。

性質でいえば明らかに女のほうが邪悪で面倒くさいけれど、女はそれを巧くごまかす術を知っている。男にその手立てはない。顔が悪ければもちろん蔑まれるし、性格が悪ければ憎まれる。これは女も同じだけれど、男の場合、顔がよくて性格がよくても、結局のところ同性には疎まれ、異性には不審がられる。「かわいい」には性別の垣根を越えた共通点があるが、「かっこいい」の答えは千差万別だ。野蛮で無知、そして哀れな生きもの。

学生時代に一度、そのあと派遣時代にもう一度だけ、男とつきあったことはある。前者は単なる生殖本能の奴隷であり、後者は、わたしを愛するというよりわたしを哀れむ自分に酔いしれたい偽善者だった。どちらも一年ほどごっこ遊びをしたあとで捨てられたが、恨んではいない。わたしにとっても彼らとの時間は、彼らを愛するより、むしろ彼らがわたしの世界に不要であることを確かめるための確認作業でしかなかったのだから。

わたしの世界にこの哀れな生きものが迷いこんできたのは、つまり、これが三度目だった。

いつもどおり、昼食をとったあと、仕事へ戻る前に窓を開けてベランダへ出る。職場は東京にこだわったけれど、東京に住みたいとは思わなかった。だから埼玉の、橋がすぐそばにあるこのアパートで暮らしている。車の交通量は多いけれど、ピークさえ過ぎれば静かな場所。ライターに転身してから外へ出る機会がめっきり減ったので、一日に三回は、こうして意識的に外の空気を吸うようにしている。晴れの日も、雨の日も。今日は降水確率ゼロパーセントの快晴だった。空を見上げて深呼吸をする。澄んだ青空。やわらかな雲。小鳥たちの穏やかな旋律。わたしの瞳に映る、人間でないものが好き。

外界に目をむけると、大きな川、それをまたぐ大きな橋が見えた。しばらく不安定な天気がつづいているせいだろうか。橋の下は湿地になっていて、そこに、川とは別に大きな水溜まりができている。なんとはなしにながめていると、そこで男の子が二人、青色の網と黄緑色の蓋がついた飼育容器を持って、なにやらうろうろしていた。

三月の末。学校は今、春休みなのだろう。男の子は一方が小学生ほどで、もう一方は背が高く、中学生くらいに見える。虫捕りではなく、おそらくは小魚などの水生生物を捕まえているようだった。兄弟だろうか。捕まえているのは弟のほうで、兄は、弟が楽しそうに網をざぶざぶやっては目を輝かせて収穫物をのぞきこむのをスマートフォンで撮影している。長いこと掲げているので、たぶん動画を撮っているのだろう。

きょうび、あんな場所で兄弟ほども年の離れた子供たちがあんなことをして遊んでいるのは珍しい。欄干に手をついて、気がつくとわたしは、長いこと彼らの一挙手一投足を観察していた。

そんなに熱心に見つめていただろうか。

突然、弟のほうと目があう。

弟の視線に気がついて、兄も顔をあげてこちらをふりむく。子供らしい、きょとんととぼけた顔。メダカではなく犬を彷彿とさせた。敵意はなかったと思う。けれど、わたしは突き飛ばすようにして欄干から手を離し、地面を蹴りあげ、急いで窓を開けると部屋の奥へ転がるようにして引っこんだ。

汗のにじんだ両手でカーテンをピタリと閉める。トク、トク、トク、トク……なんの音かと思ったら心臓の鼓動だった。動揺している。なぜ? 動揺するほどのことだろうか。この時間、ベランダに出て外の空気を吸うのはわたしの習慣だ。わたしが外界に受け入れられるのではなく、わたしが、外界の侵入を許してあげる時間。迷いこんで来たのはあの子たちのはずでしょう。野蛮で無知、そして哀れな生きもの。

不自然に薄暗い部屋の中、水槽はまるで秘密の小劇場のようだった。水草の踊り子。底砂のステージ。優しくてきれいなわたしの世界に祝福のキスをくれる、美しい、愛すべきお友達。

侵入者の痕跡をきれいさっぱり消すために、同じだけ、むしろ倍以上の時間をかけてうっとりと水槽を見つめた。わたしの世界。わたしだけの箱庭。ここには、そう、これだけがあればいい。


* * *

けれど、彼らはそれ以降、なかなかわたしの世界から消えてくれなかった。

水曜日。この日は朝から絹糸のようにやわらかな雨が降っていたのだけれど、昼下がり、兄弟はわざわざ傘を差してまでして懲りずに橋の下で網をざぶざぶとやっていた。

弟のほうが青色の傘を器用に肩にかけて両手で網を駆使し、ビニール傘の兄は、片手でスマートフォンを弟にむけてその模様を撮影している。ときどき、二人で網の中をのぞいては、めぼしいものを水を汲んだ飼育容器へと移していた。なんでもいいというわけではなく、兄弟で話しあって、なにか明確に選別しているように見える。

弟が飼育容器を掲げて雨空に透かすような仕草をした。濁った水の中、汚れた世界でなにか小さな生きものが遊泳している。欄干に手をかけて目を凝らした。小刻みに揺れて……なんだろう。あれは、魚?

もしかして、と、さらに身を乗りだして観察する。

水槽をこちらへむけた拍子に、弟がまた、わたしのことを見つけた。

逃げてはだめ。侵入者は彼らなのだから。兄弟から視線を外して、努めて緩慢な動きで深呼吸をする。冬のお布団みたくぼってりとした鈍色の空。雨のにおい。一台の車が通りすぎざまに道端の水溜まりを蹴りあげて、湿った生ぬるい空気が頬をなでる。悪いことはしていない。わたしはわたしの世界の主として、堂々としていればいい。

兄弟には目もくれないまま、必要なだけの休憩を終えて、わたしは部屋へと引き返す。窓にしっかり鍵はかけるけれど、カーテンは閉めない。

パソコンへ戻る前に水槽の様子をうかがった。指先でガラスに触れる。一、二、三、四、五。わたしがつくりあげた優しくてきれいな世界で、友達のトモちゃんは、わたしのためだけに存在している。

「ここへ来ればいいのに」

トモちゃんが、わたしに気づいて、指先にガラス越しのキスをくれる。

ささやくようにして唇からこぼれた言葉は、さながら魔女の呪文だった。あれがもし、メダカの女の子だったら。ここへ来ればいいのにね。わたしたち、こんなに近くで生きているのに。泳いでここまで来ないから、かわいそうに、捕まってしまうのよ。あんな濁った水の檻にあなたを閉じこめる、残酷なあの子たちに。


* * *

子供は悪魔。

大人が心血注いで築いてきた世界を、いつも、たやすく破壊する。

金曜日。鈍色の空の下、平日が終わり、三月が終わろうとしている。普段どおり十三時前には昼食を済ませ、一杯の紅茶を楽しみ、ベランダで一度外の空気を吸ってから、午後の仕事をはじめるためにパソコンへむかう。橋の下に兄弟はいなかった。どうでもいい。むしろ歓迎するべきだ、それがわたしの世界の本来あるべき姿だったのだから。

記事の構想を練るのに利用しているオンラインノートの横で、動画サイトのタブが開きっぱなしになっていた。記事内で取りあげる商品の要点をまとめるために、メーカーが公式に配信している商品紹介の動画を確認していたのだっけ。説明すべき点は、もうすべてオンラインノートのほうにまとめてある。

タブを閉じようとして、しかし、そこでふと手が止まった。

背後から、ろ過機器の粛々と稼働する音。「メダカ」と、わたしは検索窓に打ちこんでいる。スペース。他にどんな単語を入力すればいいのだろう。しばらく虚空を見つめて考えたあと、市町村名、それから、川と橋の名称を入力してみる。検索。

意外なほど動画があがっていた。もしかしてと思いつつもそれほど期待はしていなかったけれど、やはり、あの川には野生のメダカがいるらしい。

上から順番に動画を漁っていく。

そして、とうとう見つけてしまった。

【メダカ】弟と近所でメダカ捕ってきたw【ガサガサ】

都合の悪い箇所や余計な間を切って、切ったあとはただつなげただけのシンプルで下手くそな編集。『えっと、なんかこのへん野生のメダカがいるって話なんで、これから弟と一緒に捕まえて飼ってみようと思いまーす』話しているのは兄のほうだろう。弟のほうは、歩調にあわせてわずかに揺れる画面のむこうで、網と飼育容器を手に『あのへん?』としきりにこちらをふりむいて川辺を指差している。ガサガサとはなんだろう。動画を再生したまま、新たにタブを開いて検索窓に打ちこんでみる。川などに入って水中の生きものを網まで追いこんで捕まえること、を指す言葉らしい。

BGMや効果音、テロップなどの凝った演出もなく、ホームビデオのように淡々と動画はまわりつづける。川の手前にできた大きな水溜まりなので、水深はおよそ十センチほど。泥にまみれて兄弟の足首が浸かるくらいだ。おもむろに弟が網を水中へとくぐらせる。引きあげた網の中へカメラが近づき、わたしの身体も、自然と前のめりになる。

網の中で、ピチピチと跳ねてうねる生きもの。――メダカだった。

わたしが知っているメダカとは異なる、グレーがかった色味の、地味な、いかにも川魚という風貌だった。兄弟は喜んでいるが、本当にメダカなのだろうか。メダカの品種について調べてみる。特徴が合致しているのは、クロメダカという品種だった。

『何匹飼うの?』

『十匹ぐらい!』

思いやりの欠片もない動作で捕まえた三匹を飼育容器の中へと放り、弟はじゃぶじゃぶと無遠慮に水溜まりの中を進んでまた網を水中めがけて突っこむ。メダカからすれば、あんな小さな子供でも十分に巨人だ。それなのに、腹立たしくも小さなメダカは逃げきれるだけの力を持たず、あんな乱暴な方法でたやすく捕まってしまう。

『むちゃくちゃ普通にいるじゃん』

翌日、四匹、五匹、六匹。捕獲自体は罪にならない。けれど、野生のメダカが絶滅の危機に瀕していることをあの子たちは知っているのだろうか。日を改めて、七匹、八匹。ちぎれた水草の先端とともに浮かぶ、地味で、醜くて、汚らしいクロメダカ。

『ペットショップでメダカ買ってる人とか、馬鹿に思えるな』

兄が言って、

『タダでこんなに獲れんのにね』

弟がわらう。

淡く黄土色に濁った水の中、地獄へ堕ちたことなど気づかぬ顔で、九匹目と十匹目のクロメダカが右へ左へせわしなく泳いでいる。ここへ来ればいいのに。深淵のような黒の瞳に吸いこまれそうになりながら、わたしは、脳内でくりかえしつぶやいていた。わたしたち、こんなに近くで生きているのに。音もなくブラックアウトしていく画面。泳いでここまで来ないから、かわいそうに、捕まってしまうのよ。動画が終わる。画面下のシークバーを動かしたところで、現実の時間は戻らない。あの子たちは今も、残酷で不浄な檻の中。

ペットショップでメダカ買ってる人とか、馬鹿に思えるな。

動画サイトのタブを閉じ、静かに、椅子から立ちあがった。紅茶とお菓子を用意しようと思ったのだけれど、ふと、ソファに座らせていたぬいぐるみが目に留まって。それを慈愛の手つきでもって抱きあげる。

それから、思いきり窓にむかって投げつけた。

ローテーブルの上、花屋で買ったミニブーケを活けた花瓶も、栞をはさんだ読みかけの小説も、大好きな映画や音楽をくりかえし観たり聴いたりするのに使うリモコンも。次から次へと、手にとっては投げつけて。金で友人を買う恥ずかしさ、それが激しく燃えあがってわき起こるりいらだち、燃え尽きたあとに残されるどうしようもないむなしさを、受けとめてくれるのは窓辺のレースカーテンだけ。傷つけていいものはそれしかなかった。お人形の世界では満足に暴れることもできない。愛するものはたくさんあるのに、厳選され、整然と片づけられた、美しくてつまらないわたしの箱庭。

行き場を失った両手は、わたしの髪をつかみ、毟り、何度も頭を殴りつけたあとで、最後にまたぬいぐるみをつかみとった。

まるでこの、まるっこくてやわらかい怪物に食べられでもするみたいに。

顔を押しつけて、真っ暗、世界の片隅。

わたしは、精一杯の悲鳴をそこであげた。


* * *

それから、どれだけ時間が経ったのかわからない。

顔をあげると、ささやかに崩壊したわたしの箱庭は、無様に宵闇の群青に染めあげられていた。

乱れた髪、泣き腫らした顔。醜い姿で、わたしは死に損なった屍のように、ずるずると身を引きずってメダカの水槽へと近づいていく。こんなところまで飛んでいた花瓶の小さな破片を足が踏みつける。痛みなどもうわからない。主さえ壊れたこの箱庭の残骸で、正しくあるのは、五匹のメダカ。トモちゃん。なにも知らない無垢なる乙女。わたしのお友達。

餌をあげる時間ではないけれど、かたわらに置いてある餌の袋を、わたしは指でつまみあげる。上手く力の入らない両手でなんとか上部のチャックを開封し、差し入れた指先に、ほんのわずかに餌の顆粒を載せる。餌は一日二回、メダカが二分程度で食べきれる分量を与えるとのことだった。たったこれだけの食べもので、愛情で、わたしのために存在しつづける生きもの。ふるえる指先をそっと水面にくぐらせ、餌を浮かべる。あなたたちがいてくれれば、わたしは幸せ。

五匹のうち、三匹が水面の餌に気づき、さらにそのうちの二匹が早めの夕食を訝しむことなく食べてくれた。なので、水網で捕獲し、この二匹を、水槽を掃除するときに待機させておく別容器の中へと慎重に運ぶ。新月の瞳。トモちゃんはわたしの顔を不思議そうに見つめている。平気よ。あなたたちは、あなたたちだけが、わたしのお友達だもの。

残りのメダカは、一匹ずつ水網で捕まえて、そのままゴミ箱に捨てた。

水槽の中へ、ふたたびトモちゃんを戻してあげる。野蛮で、無知で、哀れで残酷な生きものに傷つけられることなく、優しくてきれいな世界を、二匹のメダカが泳ぐ。裏切り者がいなくなって、新月の瞳はいっそう夜のしじまのようだった。

ろ過機器の稼働音にまぎれて、外の世界からも、水の流れる音がする。レースカーテンをめくってのぞくと、雨が降っているのが確認できた。瓶詰めの群青。雨脚は、どんどん強くなって。このまま永遠に雨が降りつづける世界を、わたしは想像する。

早く、みんなもここへ来ればいいのに。

やがて川は氾濫し、あの水溜まりと融合して、メダカたちはこの部屋までやってくる。新しいお友達。けれどたくさんはいらない。なのでわたしは、誠意を持って、慎重に、メダカたちを選別する。わたしを愛してくれる子。わたしのためだけに生きてくれる子。そうでない子はいらない。そうでなくなった子も、必要ない。

メダカの種類を調べてみると、意外にもその数は多く、色のバリエーションだけを見ても大きく分けて七種類いるそうだ。黄色や黒の他に、白、青、オレンジ……次第にそれは雨と混ざりあって、この箱庭に、メダカの雨が降り注ぐ。あまりに美しく、あまりに幸福な光景だった。

早く、あなたもここへ来ればいいのに。

ぬいぐるみを蹴り飛ばして、割れた花瓶の破片を踏みながら、わたしはまた水槽へと近づいていく。

指先で水面にキスをして、メダカを一匹、右手の中へ。左手にもう一匹。跳ねようともがく生きものの気配。自分でも気づかぬうちにハミングしていた。雨音のオルガンにのせて、捧げるのはレクイエム。さようなら。おやすみなさい。大好きだった、わたしのお友達。

ゴミ箱の中にメダカを投げ入れ、汚いもの、くさいものにはきちんと蓋を。無慈悲に閉まるその様子が、まるで棺のよう。

水草を毟りとり、底砂を掻きだして、水はベランダのむこうへぶちまける。こうして一つの世界が消滅した。遠くの空で雷鳴が轟く。みるみる強まっていく雨脚と裏腹に、わたしの心は晴れやかだった。

明日は午前中のうちにホームセンターまで行って、水槽、ろ過機器、照明、底砂、水草、それからメダカを買う。仕事は午後から。集中して、いつもどおり十八時には、終わらせるべきタスクをすべて片づける。

きっと水槽が悪かったのだ。それに、選んだメダカもよくなかった。だけどそれは仕方のないこと。メダカを飼うのは初めてだったのだから。次、間違えなければいい。ううん、間違えたときは捨てればいいの。こんなふうに。何度でも。

残酷? 誰が? 奪って、集めて、飾って、捨てて。ここはそういう世界でしょう? わたしの愛しい箱庭。優しくて、きれいで、幸せなところ。美しい世界に祝福を。割れた花瓶から吐きだされた花の、花弁をすべてもぎとって、宙に投げる。

色彩の雨。

香りの嵐。

早く、あなたもここへ来ればいいのに。

空からたくさんメダカが降ってくるのを、わたしはずっと、ここで待っている。

2022年末、河出書房新社主催の「第60回「文藝賞」短篇部門」に応募した作品です。一次選考落選。

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