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「舟越桂 私の中にある泉」がとにかく素晴らしかった

「げ! 今日note更新してないじゃん!」とこの時間に気がつく。でも今日はいつもとは違う。書きたいことがあるのだ。タイトルのとおり、彫刻家・舟越桂さんの展覧会がとにかく素晴らしかったので、今日はそのことについて。

舟越桂という彫刻家をご存知だろうか。読書好きな人は、天童荒太さんの『永遠の仔』や『悼む人』などの装丁を飾っていた作品、と言うとぴんと来るかもしれない。などと偉そうにのたまっているが、恥ずかしながらわたしも、それらの作品と「舟越桂」という名前が結びついたのはごく最近のことである。

さて、いま渋谷区立松涛美術館では、その舟越桂の展覧会が開催されている。会期は来週1月31日まで。緊急事態宣言下ということもありなかなか出かけるのも憚られる状況ではあったが、「この展示だけはどうしても行きたい......」と思っていたので、今日人混みを避けていそいそと出かけてきた。

展示を観賞したいま、心から行ってよかったと思っている。そしてまだ舟越桂の作品を観たことのないすべての人に、ぜひ観に行って欲しいと思っている。それくらい素晴らしかった。

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以前から何度か、舟越桂さんの作品は写真で目にしていた。もちろん素敵だなあと思っていたが、今日目の前で初めて作品と対面すると、想像を遥かに凌駕する感動があった。なんていうか、驚くくらい心が揺れた。

会場には舟越さんの木彫人物像が無防備とも言える感じで展示されていて、そもそも作品をすごく近くで観賞することができる。そしてそれらの作品からは、平面では決して表現できない存在感と、人間の温みが感じられた。というか鑑賞者が「感じる」以前に、作品自体がもうそれぞれの雰囲気をかもしていた。

舟越作品に特徴的な大理石の瞳。どこか寂しげで、果てしなく広がる瞳を見つめると、その人物の背後にある無限の時間がわっと自分に押し寄せてくる。だからひとりひとりから目が離しがたく、時間が止まったように作品を観ていられた。もしかしたら自分はこんなにひとつの作品の前にいるのは初めてかもしれなかった。そして同時に、命を宿しているとしか思えない佇まいを前にして、とにかく抱きしめたくなる衝動をこらえるのに必死だった。陳腐な言葉で恐縮だが、そこにはエターナルな魅力があった。永遠性や普遍性。これが芸術と呼ばれるものなのかもな、なんて漠然と理解した。

大袈裟に言うなら、わたしにとって舟越作品の観賞は「魂を削られる」ような体験でもあったと思う。それくらい真剣に目の前の人物と対峙したし、自分が見透かされているような気持ちにもなった。この「命」としか言えない物体が、ひとりの彫刻家の手で木片から生み出されたことがまるで信じられなかった。

とあれこれ語ったところで、やはり言葉は不自由で、このすばらしさは実際に観てもらわないと決して伝わらない。だからこの機会に観て欲しいのだ。透き通った瞳を見つめ、自分の心がぐらぐら揺れる体験をぜひしていただきたいのだ。

自分は美術館やギャラリーによく足を運ぶほうだという自負があるが、これだけ作品に感じ入ったことは正直数少ない。だからこそ、泉のようにこんこんと湧き出る魅力を湛えた作品たちに出会えたことが、その恐ろしく深い魅力に打ち震えられたことが、きょうは何よりうれしかった。



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