割り切れない「余り」のある問いを―2019年05月29日|日記

相手の名前を知っていても、「あなたの名前は何?」と聞いて回る女の子に出会った。彼女にとっては、それが「こんにちは、元気?あなたに会えてうれしいよ」という挨拶なのかもしれないし、同じことを聞くことで安心したいのかもしれない。スナップが大好きで、耳の近くに手を押し当ててスナップを聞くことで心を落ち着かせているように見える。
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 今は研修中で、自閉症やTEACHHやABC等の認知行動療法についての講義を受けるのと同時に、ベテランのコーチにアドバイスをもらいながら自閉症のあるキャンパーとどのようにコミュニケーションをとったらいいか、引き出しを増やしながら実践的に学んでいます。 

 私の仕事は、すごく抽象的に言うと、自閉症のあるキャンパーと1週間の時間を過ごす中でその人がその人であることを祝福することです。少し具体的に言うと、キャンプに参加する参加者と一対一でペアを組み、スケジュール管理・リスク管理をしながら、その参加者がキャンプにいる間の時間をより楽しめるようにするにはどうしたらいいかを考え実践することです。

 ここでは、社会の中でいわゆる「問題行動」と呼ばれるキャンパーの行動を、彼らそれぞれのコミュニケーションの方法だと捉えます。すべての行動に必ず意味があって、それをくみ取り、もし伝えたいことがあるのなら彼らに伝わるように、私たちの方がコミュニケーションの方法を変えることを求められます。もしかしたら、お腹が空いていたのかもしれない。もしかしたら狭い場所が嫌だったのかもしれない、もしかしたら今は嬉しくて笑ったのではなくて、悲しいけどどう表現したらいいかわからなくて笑ったのかもしれない。行動の原因や心の内を想像することはできても、真実は確かめようがありません。そこには葛藤がつきもので、明快な答えにたどり着くことの方が少ないような気がします。そしてその葛藤や、信念と隣り合わせになっている「これで本当にいいのだろうか」という疑念こそ、大事なものだと思うようになりました。答え合わせのしようがない問題を、毎日、与えられているような感覚です。

 割り切って整数にできるような問題よりも、割り切れなくて余りが出続けるような問いを大事にしたいと思うようになりました。「整数」は割り切れて、文字通り「分かりやすいから」、流通させやすい。世の中に広まっている概念や出来事の多くは整数化されて一人のもとに届きます。「自閉症はこうである、ADHDとはこういうものである…。」発達障害についてだけではなく、あらゆるものが一般化されて、流通していきます。一般化することは、整数化することに似ています。整数に割り切れない「余り」の部分は、説明できないことが多いし、分かりにくいし、余りを抱えた当人しか実感として感じられないことだったりすることが多いので、社会の中では省かれて考えられてしまうことが多いような気がします。でも、その整数じゃ割り切れない感情や状況を経験した人が、その人だけの「余り」を抱え続けて、結果としてそれが社会や世界に大きな変化を与えるかもしれないエネルギーへと変わる場合がある。そしてその抱き続けた「余り」が、私自身を形づくっていくものになる。共通部分である「整数」を大事にしながらも、自分の心になぜか残る「余り」は、もし誰にも分ってもらえなかったとしても、すごく大事なものだっていうことを、ここで感じています。

 決めつけて、その先を考えることを放棄した時点で、私と、そのスナップが大好きな女の子の間のコミュニケーションは、死んでいく。相手の心を確かめようがない状況の中で、その危険性を犯す可能性といつも隣り合わせであることを、覚えておかないといけないなと強く思いました。1人の人間へ言えることは、社会にも言えることかもしれません。私は、何か一つの考え方だけが蔓延し、それに対して盲目的になる人が増えてしまうような社会になっていくことを恐れています。そして自分がその一員になっている可能性があることを常に覚えていたいと思うのです。ある「問い」が整数化された社会の中でたった一人一人の人間が抱える「余り」が、大事なものとして捉えられて、新しいものを生み出すエネルギーへと変換されるようにするために。