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3.11の思い出

今日は、名前も知らない「あの子」の命日だ。

東日本大震災の思い出は、わたしにとって11年前から、ずっと同じままだ。

今まで誰にも言ったことがなかったけど、今日は、わたしの胸にずっといる「あの子」について、それを書き記そうと思う。



その子は、わたしの息子と同じ日に生まれた。2011.3.3、桃の節句、ひな祭りだ。

ピンク色のやわらかな花びらに祝福されたその日、わたしは東北の実家に里帰りをしていたので、まだまだ雪の積もる中の出産だった。

貧血がひどかったため、通常より長い6日間の入院を終えて、わたしと息子は実家に帰った。



そして、退院して2日目。

初めての子育てで、授乳と胸の張りと寝不足と、なんだかよくわからないバタバタの中、ボーッと息子を抱っこしながらテレビを見ていたとき、地震がきた。


ひとまず、息子を抱っこしたまま、テーブルの下に隠れた。

揺れは思った以上に長く、2分以上はその不自然な体勢のままだったように思う。


わたしが住んでいたのは内陸部だったため、津波などは一切来ない場所だ。

そしてこの時、停電になってテレビも携帯も一切つながらなかったため、わたしは、ただの大きな地震が起こっただけだと「思っていた」。


その夜、電気がなくてストーブは付かなかったものの、ガスは使えたので、暖かい食べ物を食べることはできた。

なので、電気の復旧を待ちながら、ローソクの灯で授乳をし、冷えないようにひたすら息子を包んで眠っていた。



わたしが震災の大きさを知ったのは、
新聞やテレビが復旧した2日後のことだった。


テレビでは、行ったことのある街が流される様子や、歩いて帰る人、家や家族を失った人がたくさん映っていた。まだ情報がなくて、同じ映像がなんども何度も流れていた。


そして、福島や関東にいる友達ともメールで連絡がとれた。

あくまでわたしの周りの人は、無事だったのである。





震災から数日後、「その子」とは新聞で出会った。

取材だったのか、投書だったのか、今となってはわからない。



でも、その記事で1つだけ覚えていることがある。

それは、息子と同じ日、2011年のひな祭りに生まれた赤ちゃんが津波で亡くなって、そして、お母さんは生き残ったこと。


初めての子育てで、何もわからなくて試行錯誤で、授乳するだけで大変で、体力もなくて、そんな状態で。


わたしと同じ境遇のひとが、


たまたま海沿いに住んでいたか、
内陸に住んでいたか、ただそれだけの違いで。



新聞記事を読んで、わたしはしばらく涙がとまらなかった。



もしかしたら助けられたかもしれないし、
どちらにせよ助からなかったかもしれない。

でも、息子と同じこの世に生まれて1週間の
「その子」は、

たしかにそれまでは生きていたし、
津波で命を落としてしまった。



守れなかった、もしわたしがその立場だったら。

そう考えるだけで、胸が押しつぶされそうになり、わたしはずっと泣いていた。

平和な顔をして眠る息子を胸に抱いて、
「その子」のことを考えながら。



当時、ビートたけしさんが言っていた。

2万人が死んだ事件、があったんじゃない。
「1人が死んだ事件が、2万件あった」んだよ。

その1人が、身近なひとだった人、今も見つかってない人。

新聞で知った「その子」は、まったく知らないけれど、それでもわたしにとっては勝手に「身近なひと」であり、一生忘れることのできないひと、なのだ。



あれから11年、息子はもうすぐ6年生になる。


一度もその話をしたことはないけれど、いつか、彼にもその話をする日がくるのかもしれない。

いや、小さい頃にしたかもしれないな。覚えてないだろうけど。



「あなた」が生きた1週間のことは、
これからも、わたしもずっと覚えています。


だからどうか、今も、次の人生でも幸せに。



今日も読んでくださって、ありがとうございました。

亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、この世界に、もっと安心と笑顔が増えることを願っています。


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