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「バイオーム」@豊島区立芸術文化劇場(東京建物 Brillia HALL) 観劇感想

公演期間:2022.06.08~2022.06.12 全7公演
上演時間:3時間(休憩25分含む)
演  出:一色隆司
戯  曲:上田久美子
キャスト:以下全て、一人二役
     中村勘九郎(ルイ、ケイ)
     花總まり(怜子、クロマツの芽)
     古川雄大(野口、一重の薔薇)
     野添義弘(克人、クロマツの盆栽)
     安藤聖(ともえ、竜胆)
     成河(学、セコイア)
     麻実れい(ふき、クロマツ)

あらすじ:

その家の男の子(勘九郎さん)はいつも夜の庭に抜け出し、大きなクロマツ(麻実さん)の下で待っていた。フクロウの声を聴くために...。男の子ルイの父(成河さん)に家族を顧みるいとまはなく、心のバランスを欠いた母(花總さん)は怪しげなセラピー(安藤さん)に逃避して、息子の問題行動の奥深くにある何かには気づかない。政治家一族の家長(野添さん)としてルイを抑圧する祖父、いわくありげな老家政婦(麻実さん)、その息子の庭師(古川さん)。力を持つことに腐心する人間たちの様々な思惑がうずまく庭で、古いクロマツの樹下に、ルイは聴く。悩み続ける人間たちの恐ろしい声とそれを見下ろす木々や鳥の、もう一つの話し声を...。

梅田芸術劇場「バイオーム」公式HPより

作品形態:
今回、作品に冠されている「スペクタクルリーディング」とは何ぞや?という話から始まるわけですが、公式さんの御紹介の中では「五感を揺さぶる朗読劇」だそうです。
一般的に「リーディング」と言われてイメージするのは、舞台上に椅子だけあって、キャストさんがそこに座って脚本を読む、という形かと思いますが、今回は脚本を持ちつつ半ば芝居同様に動きもあるし衣装や音楽もあって、美術は主に白いフリンジ状のものに映像が投影されます。説明するより梅田芸術劇場さんの公式サイト内にある下記の「舞台映像ダイジェスト」を御覧になった方が早いですね(^^;

表面的なシチュエーションなどは「華麗なる一族(山崎豊子作)」の万俵家を想像して頂くと話が早いかもしれません。あちらは銀行家一族の話でしたが、今回の「バイオーム」は政治家一族の話です。

 この「バイオーム」の中に描かれるものは非常に多様で・・・
 例えば
 ☆幼児期における自己承認形成に必要なものとは
   →怜子が自分自身を家名存続の為の道具だとしか思えない原因
 ☆自己承認が満たされない場合、その人の人生に与える影響
   →怜子が学から人を愛せない人間だと言われる所以
 ☆他者承認欲求が満たされない場合に起きる問題の数々
   →ふきが過去に下した決断、学の不倫、ルイの心が閉じていく過程
 ☆政治の利権問題(贈収賄・既得権益の私物化、政治と経済の癒着)
   →選挙地盤と地元との経済的な癒着、法さえ立ち入れない現状
 ☆政治と社会(国民)の関わりと問題点
   →選挙で投票さえしない若年層に対して政府の無策が続く現状
 ☆家長制度が抱える問題
   →家長制度が現代の社会と合わない故の制度上の歪み
 ☆貧困が個人に与える影響
   →貧しさの中で目先に追われ、政治や社会に対し考える余裕を失う
 ☆人が持つ欲(特に執着のレベル)がもたらす破綻
   →ふきのシュウチャクが発端となって起こった今回の顛末
などなど・・・

 清く、もなく
 正しく、もなく
 美しく、もない
そういう話が政治家一族の裏庭の中で繰り広げられます。

しかし、こうした多くの問題には根本的に共通することがあって、その共通点に気付き、『問題を解決に導く際に「演劇」が持つ思考方法はとても役に立つんですよ』というメッセージが、終演後、数日たった心の中に浮かんできたように感じました。
個人的なことを含めて色々と思うことはありましたが、今回の観劇感想として上記のメッセージについて書きたいと思います。


以下は観劇感想です。
作品の内容に触れていますので未見の方は御注意下さい。
なお、個人の感想です。


この「バイオーム」の中で起こっている数々の問題、それは個人の話だったり家族の話だったり社会や経済や政治の話だったりするのですが、そうした多くの問題の元凶にあるのは「諦め」から生まれた「無関心」ではないか、と思うんです。

この場にいる人それぞれが、自分の中の望みや欲望の為の自己主張を繰り返し、それを理解したり協力しないものを非難する。皆、自分の視点や立場からしか「今、起こっている問題」を見ようとしないし、考えようともしない。

では、何故そうした「今、起こっている問題」が生じてしまったのか?

それを解決しようとする時、自分の側から見える問題点を相手に突きつけるのではなく、相手側の視点に立ってみて
 「本当は何に苦しんでいるのか」
 「本当は何を求めているのか」
そうしたことを、共に、同じ視点に立って一緒に考えてみることなく問題の解決は難しいし、そうした「同じ視点」を持つ為には、先ず、相手のことを知ること、相手と話すこと、から始めることが必要なのに、この作品の登場人物たちは問題が破綻するまでそのことに気付かない。

そうしたテーマが具体的に暗示されていたのが、例えば、るいが夜中にクロマツの下に行こうとする理由を問いただす両親(父:学、母:怜子)の姿だったのではないでしょか。

母である怜子はルイにたいして言葉上は(言葉尻は違ってたらすみません)
「どうして、そんなことをするの?」
と、聞く形をとってはいるけれど、実際のところは、相手側に立ってルイの気持ちを知ろうとしているわけではなく、言う事を聞かないルイに対して怒りをぶつけているだけだ。

一方、父である学は、先ず
「遊ぼうか」
とルイを誘い、学にも怒られると強張っていたルイの心を解き解す。
この過程は、上記で書いた「相手の側に立つ」ことで、その延長線で、ルイの話に耳を傾け、ルイが何故、夜、このクロマツの下に来ようとするのかを知る。

幼い子が一人部屋を抜け出し、夜中にクロマツの下に来る、という、一見、他の大人たちには理解し難いことにも、ルイなりの理由があった。

この場面が物語るのは、一つの問題に対して、どう対処していけば問題が改善されていく可能性があるのか、そのことを、母・怜子の姿と父・学の姿を通した具体的な事例としての提示のように思われた。


ただ、ここで一つ問題となるのは、父・学はルイのことを血を分けた親子として愛していたことだ。だからこそ、ルイの側に立ってみることも出来たし、ルイの考えていることが純粋に知りたくて、ルイの話をちゃんと心を開いて聞くことが出来たのだと思う。

だか、この庭に行き交う大人たちの間には、既に愛情は無い。
そうなってしまう前に克人や学も努力した時期はあったのかもしれないけれど、自分の想いが受け入れられない時点で、家族としての関係を築く努力を諦めてしまった。

愛する努力を放棄した「諦めた」大人達は、相手側に立って考えてみることや、相手の話をちゃんと聞こうとすることさえ、面倒がってしない。ただ、自分の望みを他の人達に投げつけるだけの、一方通行でしかない。
それはもはや、相手に対する「無関心」だ。

上記に羅列した「☆」のような数々の問題も、人に対してだったり、社会や政治に対してだったりする、長年続いてきた「無関心」の結果ではないだろうか。
問題を「無関心」のまま放置すると、大樹でさえ腐敗菌が回れば倒れるように、必ず破滅していく。この「バイオーム」は、その集合体のような話だ。


私を含めて、日本に生きる多くの人は「国」や「政治」や「社会」に無関心なのだと思う。
選挙権を持っているにも関わらず、意志表示をすることを放棄して、この一票を投じたところで世の中は変わらないと「諦めて」、「無関心」となっていく。

そうした社会情勢をよいことに、議員職は半ば世襲化され、既得権益を持つものと癒着する者達に私物化され、たとえそれが事件として立件されても、公的文書でさえ改ざんされ証拠隠滅、関係者の死さえ解明されない。そうした事件さえ、喉元を過ぎれば多くの国民が忘れ、その政党が選挙で国民の批判を受けることさえない、そう書くと今が如何に歪んだ社会か?と思いませんか?でも、それを許してしまった土台には、多くの国民の政治に対する「無関心」があり、選挙権を放棄し続けてきたことがあるんですよね。


自分自身に対しても
自分の身の回りにいる人達に対しても
仕事や社会や政治や国に対しても
問題を問題とも思わず「見て見ぬふりすること」
問題に対して向き合わず「無関心」であり続けること

そうしたことが、近い未来の大きな「災い」の元となっていくことを、
そして、そうした事に対して(観てる)貴方はどう思うのか、
これからを、どう生きていこうと考えるのか、
そう、この「バイオーム」は客席に問うているのではないでしょうか?


客席に座っていた私の両の掌に
清くもなく
正しくもなく
美しくもない
歪で生暖かいものをそっと置かれて
考えることを促されたような三時間

どう、考えればいいのか。

それこそ、その術こそ、演劇の中には沢山ありますよね。
どうしようもないバッドエンドを迎えてしまう前に
考えて、そうならないように対処していく為の方法が。

美しい音楽、想像力を掻き立てる映像、台詞の裏で何を伝えようとなさっているのか的確に届く演じ手の方々の手腕や一色さんの演出、何より、これだけの要素を詰め込んでも破綻させない上田さんの筆の力。演劇としての魅力が詰まった「スペクタクルリーディング」だったと思います。



最後に、ちょっと蛇足かとは思いますが、備忘録的に。
この作品には、色々な比喩とか暗示のようなものが多用されていました。

麻実さん演じる二役、クロマツと家政婦ふきさん
花總さん演じる二役、クロマツの芽と怜子さん
これは、人間役の中でも、玲子さんはふきさんの娘であるという暗示

成河さん演じる二役、セコイアと学さん
学さん自身は政治家一族の血筋ではなく、その能力故に他から入ってきた者
セコイアもまた、日本庭園であった場所に入れられた西洋種の木であり
その高さを含めて、外から入ってきた能力ある存在の暗示なのかと

ケイは当初、ルイという実在の子供の中に存在する二重人格としてのケイという人格なのかな?とも思ったのですが、最後の場面で「ばあちゃんのケイだよ」という台詞から推察するに、誰もが自分の心の中に持つ存在、言わば自分自答する時のもう一人の自分がケイなのかな?と感じました。

怜子さんがルイを問い詰める場面で手を繋ぐことを拒んだルイが、最後の転生を暗示させる場面では自ら(クロマツの芽である)花總さんと手をつなぐ時、もし、玲子さんとルイの時点で二人が笑顔で手を繋ぐことが出来ていたなら・・・と思うと、やるせない想いが込み上げたのでした。

もし、玲子さんが自分が置かれた環境を捨てる勇気が持てて、ルイを連れて実家を出て自立していたら、ともえさん親子のように貧しくても幸せだと思える日々を暮せたかもしれない。全ては可能性にしか過ぎないけれど。

ともえさん親子だって、今は小さい(ルイと同級生なら7~9歳)からいいけれど、子供の幸せが自分の幸せという価値観も将来的には危ういものがあるし、誰もが何かに執着して、でも手放せずに問題を悪化させてしまった。そうしたことは、私達の中にも少なからず在りますよね。


植物達は、自分が生きている環境から自分では変えられないし、全ての変化を受け入れていくしかない。
一方、人間を含めて獣たちは、自分の脚や翼で、行きたい場所に行く自由を持つ。
このこと自体も、人の生き方の暗示であり、対比なのかな、と感じます。
選ぶのも、結果を背負うのも、自分ということだけは変わりませんが。