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パラドックス定数・第49項「諜報員」@シアターイースト 観劇感想

第48項「四兄弟」終演後、野木さんの御挨拶の中で「来年はゾルゲです(略)」という発表がありました。(ゾルゲかー!、スパイだった人だよね・・・?)で、脳内情報終了。少なっ(笑)
これは、実際に舞台を拝見する前に、ざぁ~~っとゾルゲについて頭に入れておいた方がいいな、と、確かに1年前には思ったはず。その記憶はあるけれど、夏休みの宿題が予定通りに進むはずがないのと同じくらい「しておいた方がいいな」は「しないで終わる」もので、初見の前楽、1mmもゾルゲウンチクが増えることもなく、「諜報員」と出会ったのでした。
でも、実際に出会ってみたら、ゾルゲが行ったスパイ活動そのものではなく彼の周囲にいた情報協力者達が「なぜ、そうしたのか」が話の主だったので、もっと言えば、人は、何を頼りに生きているのか、という話にも思えたので、ゾルゲウンチクは無くても大丈夫だったかも?
ゾルゲ個人の話ではなく、もっと普遍的な話だったように感じました。何を感じたかは、この後で。

ちなみに来年の50項は、「ズベズダ」という、以前、野木さんが青年座さん?に書き下ろされた戯曲で、今回は御自身の演出によって「2時間×3部作」として上演される予定とのことです。っていうことは、計6時間ですね。大休憩入れると劇場に10時間くらい居るつもりで行けば大丈夫です。エンジェルス・イン・アメリカ@新国の計8時間が意外と大丈夫だったので尻込みは致しません。致しませんが、お尻はちょっと心配(^^;
話は宇宙開発ロケット@ソ連側にまつわるものとのこと。とうとう、脳内知識ゼロの領域が登場しました。ふふふっ 今から楽しみです。



<スタッフ>
作・演出:野木萌葱
  音響:田中亮大
  美術:吉川悦子
  照明:伊藤秦行

<出演> ※配役、勘違いしていたらごめんなさい
小野ゆたか:紺野幹郎(内閣情報局員)、ゾルゲ
 植村宏司:早川恭一(安田医院の医師)、尾崎?
 西原誠吾:芝山英晶(朝日新聞記者・陸軍担当)、宮城?
 井内勇希:立原寅生(神父として潜入捜査している警察官)
  横道毅:警察官(上官)
 神農直隆:警察官、アメリカのスパイ?

<スケジュール>
2024.03.07~2024.03.17(全12公演)
上演時間:2時間(途中休憩なし)


<ストーリー>

その部屋は、世界へとつながる牢獄。



リヒャルト・ゾルゲ。
父はドイツ人。母はロシア人。
ドイツのジャーナリストとして日本へ入国。
その正体は、ソビエト連邦の諜報員。

任務は日本の国内施策、外交政策を探ること。
独自の情報網。信頼すべき協力者。
彼らと共に数年に渡り活動。
しかし遂に、特別高等警察に逮捕される。

彼が諜報員だったなんて。
知らなかった。
信じていたのに。
裏切られた。

協力者たちは、口々にこう叫んだ。
彼らは皆、決まってそう言う。
騙されてはいけない。
保身の為に叫ばれる言葉など、すべて嘘だ。

協力者たちを、探れ。
二つの祖国を持つ外国人諜報員。
その周りで、彼らは何を見ていたのか。
日本はどれだけ、丸裸にされたのか。

こんにちは。
Guten tag.
Добрый день.
パラドックス定数の、リヒャルト・ゾルゲ事件。

東京芸術劇場「諜報員」公演情報より引用



以下は、公演を拝見して、感じたこと、考えたこと、想ったこと、です。
劇中でも出てきましたが、言葉にして残すこと。
個人的には、大切なんじゃないかな、と、思います。
今の世なら、観劇ブログという小瓶に詰めた言葉達をネットの海に流すこと。どこかで誰かが、この小瓶を開封して下さるかも?しれない。何かの機会に演劇そのものやパラドックス定数さんに興味を持つかもしれない。書かなければ、可能性はゼロのまま。その可能性を自ら捨てたくない、というのが此処を続けている理由の一つです。

私の脳内メモリーは非常に小さいので、色々な作品を観ていくうちに記憶がこんがらがっちゃったり、色々、起こります。せめて、まだ記憶が新鮮な内に、自分の言葉で残しておきたい。と、言いつつ、勘違いしてたりするかもしれませんが、御容赦下さい。御容赦出来ないぞっという方は、一番最後にコメント欄がありますので、御手数ですが、そちらから御一報下さい。
また、個人の考えです。



さて。前置きが長くなりましたが、観劇感想を。
私の観劇感想は、終演直後の「直感」から始まります。今回の「直感」はコレです。

冒頭。4人が突然、警察官に連行された日。
その日がゾルゲが逮捕された日と然程違わないならば、1941年なのかと。
今が2024年ですから、ざっと83年前ですかね。
その83年前の日本(当時は軍事国家の色合いが強かった)と、今の日本の姿が、怖いほど似ているように思えました。具体的に言えば、権力者側の横暴が平気でまかり通る、恐怖と諦めが国民を支配している社会です。

このゾルゲ事件の直後、太平洋戦争が始まり、翌年、日本は降伏、アメリカのによる間接統治となって、GHQ主導による民主化が行われ、1950年代にかけて戦後の混乱期が続きましたが、1946年に日本国憲法が制定され、日本は「法治国家」へと変わりました。

法治国家ですから、法の下の平等により、罪を犯せば誰もが同じように警察や検察に追及され正義は守られるはずだったのに、国家権力側(政治家や政府関係者など)の公文書偽造や贈収賄があっても、権力側の証拠隠滅などにより警察や検察も「事件が無かったことのように」末端の関係者だけを起訴して終わらせたり迷宮入りさせてしまう。
(※劇中ではゾルゲ事件、現在の日本では森友学園問題などでしょうか)

本来ならば、そうした権力者側の横暴を追求すべき報道でさえ、官側と癒着し、報道すべきことを報道しない、現在の日本は、そうしたとても怖い国になってしまっています。皆様も薄々気付いていらっしゃいますよね?

民主化して、戦争を放棄し、三権分立をしたはずなのに、主権在民の大前提さえ、国民が意識しないように(というより出来なくなっていくように)考える力を養わせない教育を文部科学省は1960年頃から押し進めてきました。
考えることが出来る人間、想像することが出来る人間、それらの人々は国家権力者側からしたら操り難くて、面倒なだけ。適度に健康で、適度に教えたことを出来る人間が労働力となって日本経済を支えてくれればいいんです。

考えること、想像してみること。
例えば、自分は何を信じられるのか、社会はどうあるべきだと思うのか、そういう事だけじゃなくても、考えることって習慣(慣れ)なんですよね。
考えなくても生きていけるけど、考えることを放棄すると、考えるだけの思考回路が無くなっちゃう。考えられなくなってしまうんですよね。
想像も、そう。
自分から見えるものだけではなく、他の立場の人達の視点からだと何が見えるのか想像してみたら、社会全体としての是非を想像してみたら、自分から見えていたものと違う姿も見えてくるかもしれない。これもまた、想像力という習慣(慣れ)で、続けなければ想像出来なくなってしまうんです。

今回の「諜報員」に登場した人物達は、皆、自分の中の「大切なもの」の為に動いていますよね。自分自身の欲得ではないモノの為に、動く。
例えば、紺野さんは日本という国の為、早川さんは人の命、芝山さんは人間の自由の為、立原さんは正しい秩序を求めて。
六鹿さんだって、一見、特別高等警察に一泡吹かせたいという個人的な自己顕示欲で動いてるように見えて、最後は警察官としての正義を通したし(4人を釈放した)それは当時の警察が本来の姿を見失ったことに対する抵抗だったのかもしれない。もし、若尾さんが本当に御前会議の内容をアメリカに送ったなら、それは必ず負けるであろう日米の戦争を一日でも早く終わらせたかったからじゃないか?と、思うんです(違うかもしれないけど、それは観客それぞれが想像すればいいんじゃないかと)。



ここまでは、直感的に感じたこと。
前楽を観劇して、翌朝、戯曲を読み返してみたんですが、他にも劇中、その台詞を聞いた瞬間、色々な想いが廻った時があったなと、思い出したので。
以下、パラパラと・・・。
<<引用元:「諜報員」戯曲より 野木萌葱作>>

「六鹿:この東京で、今ひっそりと大事件が起きてるんです。」
劇中、表層ではゾルゲ逮捕を示しますが、その下のレイヤーを考えた時。
本当の大事件は、誰にも気付かれないように、長い年月をかけて、実は起こり続けているんじゃないか・・・、例えば、昔の文部省、今の文部科学省が「考えさせない教育」を長年続けてきた結果、日本の国民性が変わってしまったこと。政治や社会に何か大きな問題や事件が起こっていても、気付こうとしない、気付いたところで、自分一人に何が出来る?という諦めが国民全体に広がって浸透してしまったこと。1960年当時からだと、早、60年ちょっと。完全に社会の主体そのものが戦後教育に入れ替わっちゃいましたよね。
考えないこと、想像しないこと、それらが日常になってしまった時、社会は権力者側の自由にされてしまう。と、言うより、今、既にそうなってしまっているのが現在の日本の姿じゃないかと、感じました。

「六鹿:懸命に捜索して事件の捜査をしたのは警察だ。」
「立原:時代が違います。」
「六鹿:その一言で済ませて堪るか。」

自分が信じるもの。大切だと思うものの、本来あるべき姿を求める。
私にとって、これは「演劇」です。
元々、演劇は民衆のマスメディアでもあったし、民衆と共に、社会に根付いたものであったはずなのに、戦後の小劇場演劇によって演劇は「観たい者や解る者だけが観ればいい、素人には解らないんだから口出すな」という演劇界の理屈が声の大きさによって観客側に押し付けられてしまって、民衆から演劇が切り離されてしまいました。
でも、それは本来あるべき姿じゃないし、もっと言えば、演劇こそ「考えること」や「想像すること」を養えるものなので、民衆の日常にこそ、演劇が根付くべきだと思うんです。元々は、そうだったんですよね。

「早川:貴方がいちばん恐れていることは、事件が公表されないことで、関わった人の思いさえも消えてしまうことじゃないんですか?」
主義主張なんて、青臭い。理想なんて踏みつぶされるに決まってる。同じような諦めを、現代の私達は子供の頃から大人の背中から感じて育ってきたのかもしれませんね。
でも、一粒の麦にさえなれなくても、今の状態が変だと思うなら、その思いさえ無かったことになってしまうのは辛すぎると思いませんか?
社会の中で、人は自分自身が無意識だったとしても、誰かが誰かに影響を与えていることがあります。それは社会の中における可能性ですよね。だからこそ、発しなければ、残さなければ、何も始まらない。そう思います。

「紺野:決して綺麗ごとではなく。私たちの罪と。それでも尚”正しい”と言い張る傲慢さと。それらをすべて残すことを選びましょう。」
選挙があれば選挙権も使ったし、その時点で(しかも消去法で)選んで投票はしてきたけれど、かといって、それ以上の積極的な行動はしてこなかった。自分などが言ったところで変わらないと諦めている部分があるから。
それでも、尚、正しいと思う世界が遥かに遠すぎて、言い張ることさえ諦めそうになる。そうした自分が、未来の人々に残してしまう負の遺産について、それは直接的な罪ではないけれど「罪」であることには変わらないのではないかと。

「若尾:事件を公表しないのは、この国が無責任だからだ。こんな恐ろしい国。俺は嫌いだ。」
この無責任さが、現在まで続いてしまっていることを痛切に感じる瞬間。
社会の中で、権力の私物化が止まることなく深刻化していく中で、法も正義も、皆、無責任に感じられるのは気のせいではないと思うし、薄々とでもそう感じている人々だって多くいらっしゃるとは思うけれど。

「六鹿:何で出来ないんだ?悔しいなぁ。」
本当に。
この台詞の後に、もう一度、「悔しいなぁ」という台詞が出てくるのが印象強くて。上記に書き連ねてきたようなこと、今までも何度となく此処にも記事として書いてきたけれど、自分のような観客は、ごく少数派のまま。自分自身も「悔しいなぁ」と思っているからかも?しれませんね。
これは100%自分の勝手な想像にしか過ぎませんが、この「悔しいなぁ」という想いが、作・演出をなさってる野木さんの想いにも感じられるような気がして。それこそ直感的なものにしか過ぎないけれど。そう感じました。




今回の第49項「諜報員」は、前楽の1回しか拝見出来なくて。
もう一回、観てみたかったなぁ・・・という想いを引き摺りつつ、観劇して自分の中に起こった「書きたい」という衝動を元に、先ずは、ざぁ~~っと書いてみました。
戯曲本もまだ1回しか読んでいないし、細かく読み返していったら(あぁ~~~)と思う所も出てくるかも?しれませんが、取急ぎ?、千穐楽の御祝いも兼ねて(いや、御祝いにもなっていないのは、はい)。

終演後の野木さんの御挨拶「またソビエトかと思われるでしょうが(ニュアンス)」に吹き出しましたが(笑)、今回の劇中でもスターリンの名前が出てきて、(去年、四兄弟で皆様、帝政ロシアの終焉から社会主義の誕生と変遷を演じてらっしゃいましたもんね~)と懐かしく多い出しつつ、来年のソビエト続きも楽しみに御待ちしたいと思います。

本日、無事に千穐楽を終えられた御様子。
誠に、おめでとうございました。