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ティーファクトリー「4」@あうるすぽっと

戯曲のト書きのようなもの、例えば、時代とか役柄の置かれてる状況とか関係性とか、極力排除されたなか、「4人(の男)+(1人の)男」のモノローグを軸に話が進んでいくんですね。衣装さえダンガリーっぽい色合いの御揃いに近くて、普段、観劇してる時に如何に美術や衣装や音楽から得ている情報が多かったのかと気付かされました(^^;

私が観劇した日にも撮影機材が入っていましたので放送されたらいいなとは思っていましたが一番望ましい形で叶って嬉しいです。
(2021年11月7日 NHKBS プレミアムステージにて放送予定)
映像で改めて拝見する前に、自分の記憶&観劇当日の呟きだけを頼りに「舞台だけから感じた感想」を先に書いておきたいと思います。

<注> 以下、作品の内容に触れていますので未見の方は御注意下さい。


登場人物は四人の男と一人の男。(敬称略)
 F:今井朋彦
 O:加藤虎ノ介
 U:池岡亮介
 R:川口覚
 男:小林隆

何せト書き的な情報が無いので、全ては(・・・なのかな?)という自分の直感や想像で作品が立ち上がっていきます。なので、私はこう感じたけれど、恐らく、観客それぞれが自分の「4」を観ていたんじゃないかと思います。それはそれで面白いですよね。
という訳で、私が観た「4」の話を。

一人の男がくじ引き用の箱を持ち登場。他の四人の男がそれぞれにくじを引く。どうやらこれは役柄を決める為のくじ引きらしい。役柄は
 ☆裁判員に選ばれたサラリーマン
 ☆法務大臣
 ☆拘置所の職員
 ☆死刑囚
の4つ。それぞれが割り当てられた役柄をモノローグ形式で演じていくが、細かい設定は個人に委ねられているらしい。演じていく上で事前に決められているルールもあるようで、例えば
 ★現実の自分(事件)の話を持ち込んではいけない
 ★くじ引きの箱を持つ男は途中介入してはいけない
など、いくつかある様子。

そして始まる、劇中劇。
ただし、劇中劇の元になっている四人の男の状況は説明されない。

死刑制度。そこを入口に、この「4」の中で観客が見つめるものは、「人が生きていくこと」そのものだったり、「人は他の人を理解することが出来るのか?そもそも理解出来ないということを理解するのか?」という半分哲学のような、人間が生きていく上で出会うであろう「答え」という出口が見つからないブラックボックスのような世界を覗く話だったように感じました。

劇中劇として続けられる芝居は一種の心理療法なのでしょうか・・・何かのトラウマを抱えた人々が、治療の一環として?ロールプレイ学習(現実に起こる場面を想定して、複数の人がそれぞれ役を演じ、疑似体験を通じてある事柄が実際に起こったときに適切に対応できるようにする学習方法の一つ。参加者は役割を演じなければならないが、演じ方はたいてい演者の自由。)の要領で与えられた役柄を演じていくんですね。その中で朧気ながら伝わってくるのは、彼らが置かれている現実の状況。
各々、刑事事件の被害者遺族であり、肉親(恐らくは自分の子供)を失っている。そして犯人は既に死刑判決を受けている。例え犯人が捕まり判決が確定しているとしても遺族の辛さは変わらない。その心の痛みを「演じる」ことで心の外に出し、今の状況を乗り越えようとしているのだろうか・・・。

確かに言われてみれば、裁判での判決は基本、物証や目撃証拠などの合理的な事実を前提に下されるけれど、判決内容に対し一切の感情介入はないのか?と言われたらそれは否で、情状酌量などは正にその一例ですよね。「反省」しているように推測される、だけで刑が軽減される、それもまた現実。

「反省」しているように見える・・・という「形態」から想像されるもので他人の心の中を正しく見極められるのか?
そもそも他人の心を人が理解することなど本当に出来るのか?
 他人を理解したと思い込んで簡単に信頼してしまうことは美徳なのか?
だとしたら「他人を信頼することは出来ない」と受け入れた方が誠実なのではないだろうか?

「他人を信頼出来ない」というと聞こえは悪いし性格的に問題があるのではないか?とも思うかもしれないけれど、心から誠実に「相手を理解したい」と思い考えるほど、それが不可能に近いことを思い知り、そもそも「人と人の間に絶対的な信頼は成り立たない」という考えに至るのかも?
もはや倫理の世界ですが。

私自身は被害者遺族という状況に陥ったことがないので全ては想像に過ぎないのですが、法治国家である日本の中で犯人が逮捕され極刑が確定していたとして、例えその刑が執行されたとしても、家族は戻ってはこない。憎しみ、苦しみ、悔い・・・そして記憶から逃れることも容易ではないのでしょう。
忘れたいけど忘れられないもの。
それを「忘れよう」としてる間は決して忘れられないのでしょうね。「気が付いたら想い出さないようになってた」から忘れてるんですよね。

人はそう簡単に自分を克服出来ない。
 忘れようと思っても忘れられないし、抱いた犯人への憎しみが刑の執行で消えるのか?といえば消えないのだろうし、頭の中のグルグルに苦しみながら、後悔に苛まれながら、それでも生きていなきゃいけない現実。終わりの無い日々の辛さ。それゆえに自殺願望が生じてしまい、心理療法が必要になった登場人物たち。

この作品の中では死刑制度を入口に法が抱える問題を浮き彫りにしていますが、人の人生は、一寸先が判らない。 ある日突然、重篤な病気が見つかる。 大事故に巻き込まれる。 魔がさして法を犯してしまうかもしれない。 その時に、一瞬で人生が変わる。その時の逃れられない苦しみを抱える可能性が誰にでもあるんですよね。
だから、この作品の中で登場人物たちが苦しんでいる状況は自分とは無縁の「他人事」ではなく。現実の社会の中で、自分ならどう想うのか?自分ならどうするのか?その問いの連続。 被害者側・ 加害者側・それらの方々の家族や遺族・同僚・友人知人。観客に促されているのは、それぞれの立場に立ってみる、という想像力でしょうか。

劇場では、目の前の人(演じ手)に色々なことが起こっていきますが、その姿を通して感じ考えるのは・・・
人が生きること。 それは自分を見つめる行為。相手を見つめる行為。社会を見つめる行為。目を逸らしたままでは何も始まらないし解決もしない。ブラックボックスのような闇から出ることも出来ない。そのスタートに気付く機会を与えてくれるのが戯曲であり劇場という場所なのかなと思います。そして芝居(演劇)には、相手の状況を想像してみる・・・という想像力を養う力があるのではないかと感じます。

この作品を通して、何に心が反応するのか。何を想い、何を考えるのか。それは、その人が今まで生きてきた日々の記憶によって違うのだと思います。そういう意味では観客の数だけの「4」が存在するのではないでしょうか?
作品に投影された自分を見てしまう類の作品かな?とも感じます。これ、意外と、辛い。辛いけれど、面白い。面白いというのは語弊がありますが、霧の中に確かに存在するけれど姿を確かめられない不確かなものに触れられるかもしれないという期待、でしょうか。でも、きっと誰も触れられない、人類が抱えるブラックボックス。

ブラックボックスの中で多くの人々が彷徨う。
それでもどこかに光が差し込む窓がある。
それは暗闇からの出口のようなものなのかも?しれない。
 いつか、超えられる。
それを信じる勇気が人間には備わっている・・・
そう信じていいのだと、背中を押されたように思うラストシーン。

 自分の人生を終わらせてしまいたいと思った二世議員のように、誰かが待っていてくれる、必要としてくれることが、その人を引き留めてるんですよね。誰かが誰かの為に生きてるのかもしれない。自分さえ気付かない内に。互いに、支え合って。私にとって「4」はそう信じたくなる作品でした。

この戯曲の中に多くの問いはあるけれど、正解のような答えはないんだと思います。そもそも問い自体も御覧になる方によって違うのでしょう。自分で見つけた問いに対し戯曲もまた問いかけてきます。
「貴方ならどうしますか?この人達はこうして超えようとしていますが?」

その答えは自分の中にしかありませんよね。
恐らく、その問いも、答も、その時の自分を映し出す。
私は自分を知りたい。
だから劇場に脚を運ぶのかな、とも思います。


余談です。
戯曲自体も私は好きでしたが、その良さを損なうことなく客席に届けて下さった五人の演じ手の皆様も素敵でした。
個人的に。劇場に脚を運ぶという行為のハードルが高くなったからかもしれませんが、言葉が実感を伴って客席に届いて欲しい・・・作品として届けて欲しい・・・という望みが強くなりまして、その望みが叶わぬ時の失望感を辛く感じる事もあったのですが、この「4」に関してはそうした事もなく、私なりに「4」という作品に触れることが出来たように思い、楽しい時間を劇場で過ごすことが出来ました。ありがとうございました。