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導かれるように間違う@彩の国さいたま芸術劇場小ホール 2022.07.10~15 観劇感想

<はじめに>

「導かれるように間違う」の初日を拝見した直後に、先ずは第一印象で受け取ったものを言葉に残しておきたくて書いたのが「こちら」の感想です。
これはもう完全に言い訳になっちゃいますが、初見ですし戯曲自体も読んでいないので知っているのは公式HP上の情報だけ。結果、ちょこちょこと勘違いをしているところや気付けていないところもありました。そのままでは制作や上演に関わられた方々に申し訳ないので、その後、同じ作品を拝見した上で、改めて「観劇感想・改訂版」として記事をアップさせて頂きます。

公演期間:2022.07.10~2022.07.18 全10公演
上演時間:75分
演  出:近藤良平
戯  曲:松井 周
キャスト:成河(ある者)←記憶を奪われた患者、元テロリスト
     亀田佳明(江口)←とある病院の医者(であると同時に患者)
     宮下今日子(看護師A・阿部)←脚で歩く意味が解らない患者
                   ←江口と共に働く看護師A
     荒木知佳(土井)←思ったことと反対の言葉を話す患者
             ←監視プログラムの管理者(SEか?)
             ←元テロリストの崇拝者
     中村 理(別府)←前と後ろの認知が逆転した患者
     浜田順平(看護師B・島本)←常に小刻みに動き続ける患者
                  ←とても忙しそうな看護師B

あらすじ(公式)

ある朝、ベッドの上で男が目を覚ますと、そこは病院だった。
医者の診断を受けると「退院」を告げられた男は出口へと向かうが、廊下で出会う個性的な患者たちに翻弄され、いつしか「退院」という目的を忘れてしまう。果たしてこの男は無事に「退院」できるのか―――?

『導かれるように間違う』公式HPより引用

以下は観劇感想です。
作品の内容に思いっきり触れていますので、未見の方は御注意下さい。
(この作品は何の予備知識もなく初めて観る回が一番楽しいと思います)

なお、個人の感想です。


ちょっと長くなりますが、先ずは「不条理劇」のちょっとした前提、そして話の筋を追った観劇レポと、そこから感じた観劇感想、そして最後のまとめの4つに分けて書いてみたいと思います。

<1>『不条理劇』のちょっとした前提

日常の中で、あまり「不条理だよね」なんて会話はしないと思いますが、不条理という言葉の意味は「物事の筋道が立たないこと」。
例えば、多くの芝居にはあらすじがあって、話の流れが解るように作られていますが、不条理劇の場合は話の流れが「解る・解らない」ということに、そもそも価値を置いていないんですね。一見、不合理だったり、不毛だったり、それこそ不条理な事柄を重ねていくなかで、それらが重なった時に、ふと離れてみてみたら一つの形を成していた、という演劇の創り方の一つが「不条理劇」です。多分。(詳しい方、違っていたらごめんなさい)

例えば、演劇と絵画で例えてみると・・・
印象派=ミュージカル(ぱっと見の印象で何となく解る)
精密画=会話劇など一般的に演劇と言われてイメージするものでしょうか
点描画・キュビズム=不条理劇など、そのものずばりではなく想像力が必要
こんな感じでしょうか?

芝居が始まる前に波の音が流れていますよね。
その波の合間合間に、鶯が鳴き、虫の鳴き声も聞こえる。
今は春なの?それとも秋なの?この解らなさが不条理劇の始まりっぽくて。

今回の松井さんの戯曲は不条理劇とは冠されていますけれど、比較的(不条理劇の)物語としては、解りやすい部類かと思います。それでも(こうかな?)(あぁかな?)と色々と想像してしまう面もあるので、以下の観劇感想はあくまでも(私から見えた)『導かれるように間違う』に過ぎません。こういう風に受け取った人も居るんだな、くらいの感じで御読み頂けましたら幸いです。


<2>『導かれるように間違う』観劇レポ

そもそも、この話の粗筋ってどういう話?と頭に「???」が並ぶのは不条理劇には付き物なので、正解探しではなく、私にはこういう物語に見えましたという内容を観劇感想とは別に観劇レポとして書いてみたいと思います。


この「導かれるように間違う」が始まる場面の、数年前くらいでしょうかね?
当時の(恐らく)日本は、外から敵が押し寄せてくるなんて予想だにしない、現実味も無い話と多くの人が何の裏付けもないのに思い込んでいた一見「平和(平和ボケ)」な社会だったんだと思います。
しかし、そうは思わない一人の男がいました。後に「ある者」として登場する男(成河さん)です。その男は純粋な正義感から「今の社会に現状を知らせ危機感を持たせなければならない。もはや安住の地など無いのだ」と思い込み、テディーベアに爆薬をしかけ「やつら(特定の権力者でしょうか)に恐怖を与える為のテロ行為を行っていました。記憶を消される前の「ある者」はテロリストだったのです。

その当時を知る監視プログラム(の管理をしていたシステムエンジニアでしょうか?)、後に出てくる患者の土井さん(荒木さん)は、そうしたテロリストの総てを監視プログラムを通じて知っていました。何を考えているのか、何を目指しているのか。そうした監視をしている内に彼女はテロリストを好きになってしまったのです。完全に崇拝してしまったんですね。そしてある時、彼女はテロリストの元にやってきました、子供の頃から大切にしていたテディーベアを持って。当時の彼女はテロリストに心酔するあまり、自分は彼の「ファン」だと名乗り、彼の考え、彼の思想が自分の正義だと宣言するほどでした。

テロリストは思いました。この世に絶対的な正義などあるわけもなく、そう思い込むのは自分の弱さの裏返しにしか過ぎないのに、この子は大丈夫なんだろうか・・・と。その後、どういう経緯があったのか?は具体的に描かれてはいませんが、二人でテロ行為を続けていたんだと思います。

そうこうするうちに、日本の社会の方が変わってしまいました。
近いうちに大きな敵がやってくる。立ち向かう為には全員が協調して前を向いていかなきゃいけないんだ的なスローガンを掲げる先導者が絶対権力者になっていたのです。誰も姿形さえ判らないのに。

先導者が支配する社会の中では、異分子は悪です。個人的な主義主張も不要です。むしろ悪なので、社会の輪を乱す者として強制的に病院に入れられ、薬や電気で記憶を消し、個人の主義主張も消し去り、ゼロの状態にリセットされてしまいます。それが今回の舞台となる病院(=強制収容所)の役割です。

はい。今回の作品の舞台は、ここから始まります。


テロリストだった「ある者」と、彼を崇拝していた監視プログラムのSE?である患者(土井)は捉えられ、病院に強制収容され、医学的な処置をされてしまいます。医者(であり自身も病んでいる)江口(亀田さん)によって。

「ある者」がベットの上で目覚めます。彼の記憶は(医者によって消されているので)ありません。自分では記憶喪失なのだと思っている様子です。記憶を消された「ある者」は、記憶を消された故の副作用で、自分が見た物を真似してしまう病気を発症していました。この病院で無理やり本来の記憶や思考を消された人達は、人格の矯正過程で肉体と精神が乖離を起こし不思議な症状を現わすのです。

「ある者」は見たものを真似てしまう
「別府(中村さん)」は体の前と後ろの認知が逆転してしまう
「島本(浜田さん)」は眠ることが出来ず、常に動き続けてしまう
「阿部(宮下さん)」は自分の脚がある意味が理解出来ない
「土井(荒木さん)」は思ったことの反対の意味の言葉が出てしまう

そうした患者達を治療する(実際は絶対権力者が治める社会に適応できる人間に矯正している)医師(亀田さん)自身も、自分が置かれた任務(患者の人格矯正)と本質的な自分の中で板挟みになっているのか?苦しみの捌け口かのように自傷行為を行っています。
医師の役割は、外の世界からはみ出した人間の過去の記憶や、その人が持つ信念・信条を消し去り、従順な人間に変えてしまうこと。そして外の世界の概念に洗脳する人格矯正施設に送り出すことです。

その医師から「退院」を告げられた「ある者」は病院の出口を探します。でも、どこか不安げな様子の「ある者」は行きがかりじょう、落ちていたテディーベアを休憩室に置いてくる役目を引き受けます。でも、休憩室の場所も、病院の出口の場所もわからないので、廊下(?)で出会った患者たちに場所を尋ねます。

(以下、ちょっと場面の前後が違うかも?)

「ある者」が落としたテディーベアを拾い、渡してくれようとする「島本」ですが、彼の症状は常に動き続けていることなので、その動きが移ってしまった「ある者」はなかなかテディーベアを受け取ることが出来ません。「別府」に「ジャンケンすれば止まれるんじゃない?」と提案され、やってみるものの、なかなか上手くいかない二人(この辺りの動きはユーモラス)。なんとか「ある者」がテディーベアを取れた時は何故か達成感が沸きます(笑

看護婦さんに押されて車椅子でどこかに行く様子の「阿部」の脚を、医者江口が移っちゃってる「ある者」は呼び止め、診察し始めます。自分の脚が何の為にあるのか理解し難い「阿部」と、上記のテディーベアの場面の後だったか?再び出会い、自分の言動が彼女を傷つけたことを詫びる「ある者」。その内に車椅子と丸椅子に座った「ある者」が松葉杖を支点に互いの動きや反力を利用してアイススケートのアイスダンスのように動き出す(踊り出すの方が近いかな?)。その場面のスピード感やスリリングさは思わず引き込まれます。

一方、同じ病院に居るであろう元テロリストの「ある者」を探して病院内を歩く「土井」の姿。彼女の過去の記憶は残っています。探していた「ある者」とばったり出会えたものの、記憶を消し去られた「ある者」は彼女のことも、過去のテロ行為も全く覚えていません。自分のことも、同じ正義を夢見たことも、そして二人の思い出のテディーベアのことも、全く覚えていない「ある者」の姿に「土井」は傷付くのでした。
過去の記憶を失っていない彼女は、それでも「ある者」が好きなんでしょうね。このまま退院して再教育施設に移され全くの別人格になってしまうよりは、今のまま、入院していて欲しい。そう願っている様子の「土井」は「ある者」の退院を阻止しようとします。そして江口医師と揉めます。江口医師、苦労が絶えません(笑)

休憩室の場所も判らないので、病院の片隅にテディーベアを捨てる「ある者」、誰か良い人に拾ってもらいな、と言いながら。その時、突然、テディーベアが殺し屋を名乗り始め、「ある者」の体を乗っ取ろうとします。この間、テディーベアの動きも成河さんのパントマイム、声も一人二役。

あと印象的だったシーンがもうちょっと先にありました。
テディーベアの声が聞こえるようになった「ある者」は、あのテディーベアと人熊一体のような感覚になり、そのテディーベアを持って退院しようとします。けれど、病院内のものは持ち出せないと看護師にテディーベアを取り上げられそうになり「ある者」と揉める間にテディーベアの頭が捥げてしまいます。もはや人熊一体のような感覚になっていた「ある者」は、自分は死んだと言い出します。自分の体の中は空っぽで、自分の中は体の外にあるのだと。
その時、劇場内の照明は殆ど消され、トンネル内にあるようなオレンジ色の照明だけが上手と下手に一台づつ点いていて、その光に照らされると人間の肌がみな、土気色というか、死人かゾンビのような顔色に見えるんですね。その中で唯一、自分では「死んだ」と言っている「ある者」だけが(ピンスポットの効果で)血の通った人間らしい人間に見え鮮やかなんですが、「ある者」を取囲む他のキャスト陣やステージを囲む三方の客席に座る観客達が全員ゾンビのような顔色なので、ステージの世界感と今の世を生きる私達がこの場所で(半ば強制的に)一体とならざるを得ない恐怖感があって、これぞ客席でステージを三方取り囲んだ一番の意義じゃないかと勝手に思ってます。ちょっとした参加型(ゾンビ役)の演劇です(笑)

そうこうする内に薬の効果が切れてきたのでしょうか・・・徐々に過去の記憶を取り戻し始める「ある者」は、頭の中の心象風景(額縁の場面)なのでしょうか・・・監視プログラムを管理していた(ある者を監視していた)土井を想い出します。何故、出会ったのか、テディーベア(時限爆弾)が何に使われていたのかも・・・。
その時になって、やっと「ある者」は気付きます。
今、外の世界を支配している先導者が行っている事も、自分が行っていたテロ行為も、見方を変えれば一緒ではないか(=正義ではない)と・・・。

記憶を取り戻した「ある者」は過去を後悔し、今度こそ暴力的な手段を使わずに正義の為の行動を起こそうと決めたのではないでしょうか?
この病院を出る(退院)する為に、出口に向かいます。その変化を見ていた「土井」は、自分も「ある者」と共に外に連れていって欲しいと願います。決して後悔はしないから・・・と。

病院の出口の外には、明るい日差しも鮮やかな景色もなく、暴風が吹いています。「ある者」と「土井」は以前のように暴力に訴えることなく、恐らくは「言論」の力で社会を変えようとしたのでしょう。
しかし、その言葉は社会に受け入れられることもなく、風に漂うゴミとなって散らばるのでした(ラストシーンですね)。

そして、再び闇が訪れ、ただ、波の音が聞こえます。
そう、始まる前に流れていた波の音です。
「ある者」と「土井」の社会への抵抗など、まるで無かったかのように、何も変わらない波の音が響くのでした。

(ストーリー的にはここでENDだと思います)


<3>『導かれるように間違う』観劇感想

以下は、基本、初日観劇の後にまとめたものと、ほぼ同じです。


何度か拝見して、改めて感じること。
それは、この作品は、人間が持つ「信念や信条」について考えてみることを促しているんじゃないかないかな?という気付きでした。

+++

時代設定は不明だけれど、言論統制された世界が広がる近未来なのでしょうか?恐らくは、実際の人類の歴史の中でも繰り返されてきた独裁政権による暗黒時代に似た、人の自由を奪い、特定の権力者(=先導者)が定めた「絶対的なスローガン(迫りくる脅威に皆で立ち向かうという正義)」を目指さなきゃいけない。

具体的に言えば、ヒットラーや直近だとプーチンを連想させるし、日本もまた戦中の特高警察など国民の多くが統制されたことを想い出せば、決して遠い世界だったり無関係な話ではないのだと思います。

この作品の中で、一見すると、本来の人間らしさを失わせさせ矯正しようとする病院だったり、この舞台の背景となっている言論統制された世界の方が今の私達の感覚からすると異常に見えるかもしれません。でも、果たして、そうした一方的かつ短絡的なものなのでしょうか?

「信念や信条」というものは、それが属する社会や世界の中で害をなさない範囲であれば許容されるものだと思いますが、盲目的なものであったり、他者への暴力などによって信念を通そう(実行しよう)とする場合においては、それはもはや許されざるもの(テロ行為)になってしまいますよね。
病院の外の世界(=個人的な信念や信条を持たない世界)と、盲目的であったり信念の為に暴力に訴える人間(テロリスト)の、どちらが正しいとは誰も言えないのではないでしょうか?
テディーベアという、子供の良き友達となるべき存在を利用し、被害者に恐怖というトラウマを与える。何が目的であっても許される行為ではないですよね。

一方、病院の外の世界(強風が吹き荒れる、殺伐としたものを感じさせる世界)に生きる人々はどうなのでしょうか。自分の記憶を失い、生きていく上での信念も持てないんです。誰か、権力を持つ者の都合の良いように従順に動く人間たち。
それは考えようによっては生物兵器に思えるのです。無思考がもたらす、善悪の判断を失った狂人たち。かつての独裁政権下で起こった歴史上の悪夢そのものにも思えました。

では、一体、どうしたらいいのだと、この作品は観客に語りかけているのでしょうか?

誰かにとっての「信念や信条や自分にとっての正義」は、他の誰かにとっては「そうではないもの」である可能性は必ずありますよね。一人一人、考えも、環境も違うわけですから。
そのことを頭の片隅に置いたまま忘れずに、「信念や信条や自分にとっての正義」というものが持つ危険性(暴力性)と、逆に「自分の考えを持たずに他人に依存してしまう」人間の危うさについて、改めて我が身に重ねて考える事だったり、その重要性に気付くことではないでしょうか?

盲目的な信念ではなく、その行使に暴力を使うこともなく、社会や世界の中で多くの人々の価値観や物の見方を知り、その先で、他者の立場になって考えるという想像力を養ってみたり多面的な物の考え方を身に着けた上で『自分の「信念や信条や正義」を信じると同時に常に疑うこと』が出来たら?

以前の「ある者」のようなテロリストにもならず、病院の外のような世界も招くことがない、『人間が持ちうる「想像する思考力」という一番強い抵抗力』になるのではないでしょうか。

「信念」を持つということは、自分自身の内面を見つめることでもありますよね。自分にとって大切なものは何かを考える行為ですから・・・。


<4>まとめ

「信念」や「信条」と書きましたけれど、そもそも、何でしょうね?

もし、世の中の多くの出来事が、超ホワイトから、法に反するようなブラックまで分かれるとしたら、超ホワイトの隣にある「ほぼホワイト」は良いとして、ライトグレー、ミディアムグレー、ダークグレーと徐々にその境界と判断は微妙になっていきますよね。
人間だから、ついつい、自分に都合の良いものや、これくらいはいいかな?と自分を甘やかしてみたりしてしまうわけですが・・・。

そんな時、自分を押し留める物、そのストッパーだったり、判断の基準になりうるものが、自分の信念だったり信条と呼ばれるものなのかなとも思います。

一言に「信念」とか「信条」と言っても一度決めてしまえば済むものではなくて、恐らくは、絶えず見直すべきべきものなんじゃないかと思うのです。
日々、色々な経験をしたり、色々な人に出会ったりして、色々な考えや、色々な価値観を得ますよね。それによって変わっていく自分の内面もあるでしょうし、その変化によって自分の「信念」や「信条」も変わっていくものなのかなと思っています。
その度に自問自答して、「自分にとって何が大切なのか」「どう生きたいのか」「どんな未来を望むのか」それは自分を取囲む人達や社会や世界の中であるべき姿なのか、考えた方がいいのでしょうが、中々に難しくて。

難しいけれど、そうした自分の内面とのやりとりをサボってしまうと「信念」や「信条」も老化して凝り固まって、自分の周りや社会との亀裂が生まれてしまうのかも?しれませんね。その先で、暴力を伴った信念の暴走が起こるのかなぁ・・・とも思うのです。


以上です。
ここまで読んで下さった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました。