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音楽劇「ある馬の物語」@世田谷パブリックシアター 観劇感想・第2弾(2023.06.28~07.01)

6月21日に初日を迎えた「ある馬の物語」も、7月1日、中日(ナカビ)を迎え昼夜2公演とも無事に終了された様子。正直、あれだけの肉体労働(笑)な作品なので、一日に2公演演じるのは大変だろうな~とソワレを拝見する前までは思っていたのですが、観てる最中、そんなことすっかり忘れてました。忘れさせてしまうほど濃密な空間と時間だったのかな~と思います。東京公演の後半も皆様無事に完走出来ますようにと祈りつつ、公演中盤の観劇感想第2弾です。


観劇感想の第1弾はこちらです。公演詳細等はこちらを御覧下さい。


以下、作品の内容に触れています。
未見の方は御注意下さい。
また、個人の感想です。




第2弾の観劇感想では、下記3点について書いてみたいと思います。
(1)2階や3階から拝見して感じたこと
(2)公演を重ねてきた中で感じた変化など
(3)作品が提示するテーマについて考えたこと


(1)2階や3階から拝見して感じたこと

2階に座ってみて、先ず一番に驚いたのは音の変化(良さ)でした。
1階も座る場所によって違うかとは思いますが、基本、サックス奏者の皆様が演奏なさっている(ステージ床からの)高さと、演者さん達の位置が1フロアー分くらい違うので、音源に近い席だと2か所の音源からの音が別々に聞こえるような気がしたのと、どうしても演者さん達の音の方が大きく聞こえるんですね。(ミュージシャンの方々はステージの後方なので)
ですが2階の正面側の席ですと2か所からの音源が丁度交じり合って、サックスと人と馬のハーモニーが美しく響いて。あと、ホルストメールvs若い馬たちの構図など、演出や振付の意図が(馬と馬が重ならないので)解りやすいのは2階以上の席から見た時だったように思います。

3階からの視点は、人や馬の世界を空から見下ろすような俯瞰で、これはこれで面白かったです。より客観的に生き物達の姿を観察するような感じでしょうか。舞台中央の上手と下手に置かれている新聞紙大の鉄板2枚が3階から観ると地面に掘られた穴のように見えて(照明の反射がそこだけ違うので、そう見えたんだと思います)、丁度、公爵の台詞と相まって、公爵が亡くなられた後に埋葬された墓穴のようにも思えて。それが意図の一つだったのか?偶然だったのか?は判りませんが、こういう見立てを感じて想像するのも演劇的な面白さの一つですよね。(トークで白井さんがおっしゃってたのは、鞭を使う場面が多いので、鉄板があったらいい音が出るかな?と思われて鉄板を置かれたそうです)

1階の客席通路が演出で使われるので、どうしても1階客席が人気のようですが、数回御覧になる御予定でしたら、是非、2階、3階、それぞれの良さも楽しんでみるのも一興かな~?と、思います。
ただ、2階、3階、両方とも、プロセニアムのライン中央あたりにある吊り照明が2階3階の客席から観るとステージにかぶりまして(今回E列まで座席をつぶしてステージにしているので無理からぬところもあるのですが)、最初と最後のシーンに見えない部分があるんですね。照明の吊っている高さの調整で解消出来たらいいのですが、実際、世田谷パブリックシアターのような形状の客席配置ですと調整にも限界があるのかなぁ・・・とも思い、悩ましいなと。私自身は先に1階で拝見していたので、見えない最初と最後は記憶で補い、それぞれのフロアーからでしか得られない部分を楽しませて頂きました(^^)


(2)公演を重ねてきた中で感じた変化など

感想の第1弾の頃からたった1週間しか経ってないんですが、実際、初日の頃と今回の観劇感想第2弾(2023.06.28~07.01)の頃では随分と印象が変わったように感じています。演出の白井さんが(基本)毎日上演中もご覧になってらっしゃって、日々、微調整を重ねてらっしゃるそうで。恐らく、観客からはほとんど気付かないような部分も含めてかと思いますが、全体から受ける印象って変わっていくんですよね。

例えば。21日の初日の時には、安全帯装着などの段取りとか、ソリの場面などは、(演出の)意図は解るけど、そうした意図の方向に添って、この場面が(作品として)立ち上がっているのかな?という(意識的に想像しようとすれば想像出来るけど、それは本来の意図とは違うんだろうなという)困惑があったのですが、徐々にそうした部分にも工夫が重ねられた様子で、28日の頃には初日の時に気になった部分がほぼほぼ解消されたように見受けられましたし、白井さんを筆頭に皆様が立ち上げようとなさった作品の姿が見えてきたように感じましたし、全体の熱気が観客達を引き込んでいて、その先で自然と想像力が動き出すような感覚がありました。

特にソリの場面は、舞台上の皆様(特に公爵・馭者・ホルストメールや、街の人々)の徐々に上がっていくテンポやテンション(お祭り的な楽しさ、徐々にハイテンションに変わっていく)と、それに彩を加えるサックスの皆様のリズミカルな音楽によって、客席に居る私達も街の中を颯爽と走っていく公爵一行の姿に歓声を上げる民衆になったような気持ちになって、こちらも気分が舞い上がるんですよね、出来れば手拍子したいくらいに。(歌があるので、歌の邪魔になっちゃ申し訳ないかなと思って控えてるんですが・・・)
あの場面はもう、観客を引き込む舞台上の皆さんのハイテンションと観客の想像力で、雪の上を颯爽と走っていくホルストメール一行の楽しい時代の記憶を「共に(脳内に)描く」共同作業の時間なんだと思います。演劇だからこそ味わえる楽しさの一つですよね。

あと、割とミールイは最初の頃から笑い所担当のような感じでしたが(笑)(あのカッコヨサが嫌味なく出来る小西さんの適役さ故でしょうか)、徐々に公爵の馬好き度が上がってきたり、マチエのなんちゃってフランス語が濃くなってきたりして(笑)、色々な場面でクスっと笑えるコミカルな場面が増えましたよね。その分、ホルストメールの運命との対比が心に強く残ったりして。作品全体としてバランスがいいというか、客席が受け取りやすくなったように感じています。


(3)作品が提示するテーマについて考えたこと

今回の演出では最後の場面でホルストメールと公爵の死後が語られます。
その後の余韻の中で「じゃあ、あなたはどういう死を迎えますか?=それまで、どう生きますか?」という「問い(メッセージ)」が、舞台上から手渡されます(受け取られましたか?あれは作品からの御土産です)。

「どう生きるか」を言い換えると、「どう生きたいか」で、人は皆、幸せになりたいと願うものだけれど、じゃあ、自分にとって「幸せを感じる生き方って何なんだろう?」という話にもなりますよね。
それはイコール「自分にとっての幸せって何なんだろう?」という事なのかなぁ・・・と思うのですが、そこがはっきりしないと、目指す先も見つからなくて。
勿論、それは人によりけりで。
劇中でホルストメールが語る「人間は自分のモノと言えるものを多く持つことが幸せだと考える(※ニュアンスです)」ようなものを求める人もいらっしゃるかもしれないし、そうした所有欲以外の幸福を求める人もいらっしゃるかもしれませんよね。
その事について、劇中でホルストメールが一番幸福な時代だったと語る2年間を通して考えてみたいと思います。

公爵と、馭者と、ホルストメール、その3者の関係。
一応、形としては公爵がピラミッド型の頂点で雇い主の側だけれど、公爵はホルストメールの才能を認め、必要な手入れをさせ、穏やかに暮せるようにしてあげています。
ホルストメールの世話をする馭者もまた、気の良い性格を公爵に愛でられ、馭者もまた雇い主としての公爵へ敬愛の情を持って仕えているんですよね。
ホルストメールは、そんな二人の関係性が好きで、特に自分の所有主となった公爵に好意を持ち公爵の為に早く走ることが生きがいのように感じている、それは、もしかしたら初めて自分の能力を認めてくれて、穏やかな生活を過ごさせてくれた人だからかもしれません。

この3者に間にある関係性。
形式的には公爵を筆頭とする上下関係(契約や所有と呼ばれるもの)なのでしょうが、公爵はそうしたことを盾に鞭などの暴力を使ったり、権力で支配するようなことをしないですよね。
公爵は馭者のことを使用人としてだけでなく一人の人間として見ているし、それはホルストメールに対してもそうで、単なる道具としての馬ではなく、ホルストメールの持つ優れた能力を認めている。この時代の、しかも公爵という地位にいる人物としては、珍しく相手の本質(人格や馬格?w)に自然な敬意を持てる人だったのかなと思います。
だからこそ、この三者の間には幸福な時間が流れたんじゃないでしょうか。一応「所有」という形はあるけれど、「一方的な(暴力などを伴う)支配」ではないし、各々が自立した存在として、互いが出来ることを提供しあって、上手くいっている。集団における理想的な形態としてトルストイは3者の関係性を描いたんじゃないかなぁ・・・と感じます。

そう考えた時、3者の幸せな日々を壊したのは、公爵のマチエに対する一目ぼれが、馭者とホルストメールに対する思いやりを失わせたことだったのではないでしょうか。
マチエの心変わりに馭者が気付かなかったことも馭者に落ち度は無いし、失踪した二人を追ったホルストメールが二人に追いつけなかったこともホルストメールに罪は無い。それまでの公爵ならば二人を責めることはなかったでしょうに、彼女を失ったことで(元々、手にしてはいなかった様子でしたけれど)、公爵は人としての優しさや鷹揚さを無くしてしまい、その結果、3者の幸せな時間は終わってしまったんですよね。

ホルストメールが劇中で語るように、人は生きている間に「良い行い」をしたいと願うのではなく、「自分のもの」と呼べるものを一つでも多く持とうとする、その所有欲が満たされることを幸福と考えている。地位や財産、美貌や若さなど、人が羨むものを総て持っていた25歳の公爵がマチエを手に入れられなかった(他人に奪われた)屈辱が公爵を変えてしまったのか、実は元々そうした部分もあった人なのか、そこまでは今回の作品の中では語られていませんけれど・・・。

この話は、人間の基本的な欲求の「承認欲求」に値するのかなぁ・・・と思いますが、承認欲求の中でも他者承認の欲求に該当するのでしょう。
※承認欲求などについては「マズローの欲求5段階説」をググって下さい

他人より自分の方が多くのモノを持っている優越感や安心感。
人間の本能的な欲求ではあるんですが、それには限度が無いことと、失う恐怖や、他者が認めないと自分の承認欲求は満たされないという問題も同時に抱えるんですよね。
そうした問題から逃れるにはどうしたらいいのか?
それは、もう一つ上の次元の欲求である「自己実現欲求」の中に自分の幸せを見出すことなんじゃないかと思うんです。

自分の幸せの価値観を「自己実現欲求」の中に見出す。その大前提は、自分が一人の人間として自立していることなんですよね。
経済的にも、社会との関係性においても、誰かの所有物的な存在でいなくても自分の人生を生きていけるだけの力を、自分で育むことが必要になってきます。
そういう意味でも、この作品は自分の人生を歩み出す前の未成年の人達に、是非、観て頂きたいな~と、私などは思うのですが・・・。自分の人生を選ぶことが出来るような土台を築くには、やはり若い頃から「どう生きたいか」を考えながら大人になっていくことが大事じゃないかな~とも思うので・・・。

でも、人間誰しも、遅いということは無いのもしれません。
これからの人生の中で、今日が一番若いのですから。
「未来」という言葉は若者達だけのものでもないですよね。「どう生きたいか」を考え続け、なりたい自分の姿が見えてきた時に、それに向かって出来る努力を重ねていけばいい。他人を羨んでも自分を取り巻く環境が好転することなど殆ど無いですし、羨むことが招く嫉妬心は自分に負の感情を植え付けてしまいます。
自分が羨ましいと思う事があるなら、他人を羨み自分には出来ないと諦める前に出来るかどうかやってみる、少なくとも誰かに所有されてしまう馬達と違って人間は自分の意志で行動することが出来るのですから、実行するか、しないかは、自分次第なんですよね。

そうした道さえ人間によって強制的に絶たれたホルストメール。
死後、ふっと立ち上り客席に振り向く姿は、まるで人間に対する「問い」のようにも見えて。少なくともお前たち人間は自分で生き方を選べるじゃないか、と。

日頃忘れがちですけれど、私達には、自分で考え、自分で選ぶ自由が、ありまうよね。その幸せを失っちゃいけないと思うんです。(戦時下の国はその自由を奪われるわけですから)
同時に、その幸せを無駄にしてもいけないですよね。
自分に、本当の自由を与えられるか否かは自分次第かなとも思います。
他人からの承認で承認欲を満たすのではなく、自分が考える幸福に自分の努力で近づいていく。その過程こそ、自分を満たしてくれるものかもしれません。結果だけではなく、重ねる過程の大切さ、でしょうか。

劇中、幾度となく、馬や人の言葉を借りて、そこにトルストイが居るような感覚を持つことがありました。トルストイが最後に辿り着いた境地とも言えるのでしょうか・・・。舞台を拝見して、原作を読んだ時には気付けなかったことに舞台を拝見することで気付いて、その先で色々と考えて、そうした演劇らしい楽しさのある良い作品だな~と、私は思います。