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導かれるように間違う@彩の国さいたま芸術劇場小ホール 2022.07.10ソワレ 初日の観劇感想です

公演期間:2022.07.10~2022.07.18 全10公演
上演時間:75分
演  出:近藤良平
戯  曲:松井 周
キャスト:成河(ある者)←記憶を失った患者
     亀田佳明(江口)←とある病院の医者
     宮下今日子(看護師A・阿部)←脚で歩く意味が解らない患者
     荒木知佳(土井)←思ったことと反対の言葉を話す患者
     中村 理(別府)←前と後ろの認知が逆転した患者
     浜田順平(看護師B・島本)←常に小刻みに動き続ける患者

あらすじ:

ある朝、ベッドの上で男が目を覚ますと、そこは病院だった。
医者の診断を受けると「退院」を告げられた男は出口へと向かうが、廊下で出会う個性的な患者たちに翻弄され、いつしか「退院」という目的を忘れてしまう。果たしてこの男は無事に「退院」できるのか―――?

『導かれるように間違う』公式HPより引用

以下は観劇感想です。
作品の内容に思いっきり触れていますので、未見の方は御注意下さい。
(この作品は何の予備知識もなく初めて観る回が一番楽しいと思います)

なお、個人の感想です。


ちょっと長くなりますが、話の筋を追った観劇レポもどきと、そこから感じた観劇感想と、まとめの3つに分けて書いてみたいと思います。


<1>『導かれるように間違う』観劇レポもどき


「どうもぉ~~~」と漫才の始まりのような緩~いノリで自ら拍手しつつ上手袖から登場してきた「ある者(成河さん)」。(前説とか注意事項なのかな?)と思って見ていたら、そのまま芝居が始まりました(笑)

「ある者」には過去の記憶がありません。自分では記憶喪失だと思っていたようですが、実際には運び込まれた病院に勤める医者・江口(亀田さん)によって人為的に記憶を消されたのです。記憶を消された「ある者」は、自分が目にした物(例えば絵など)を自分の記憶だと思い込んだり、近くにいる人の仕草が伝染してしまう、そうした症状で入院していたのですが、医者に「退院」してリハビリ施設(後に解る話ですが、リハビリ=人格矯正の為の施設)に移るように告げられます。

でも、どこか不安げな様子の「ある者」。
退院する為に病院の出口に向かおうとするものの、色々と変わった患者に出会うので、その度に病状の一つである動きの真似が生じてしまい、なかなか出口が見つかない上に、落ちていたテディーベアを休憩室に持っていくことになる。

病院の廊下で次々に出会う、個性的な患者達。
人格の矯正過程で精神と肉体が乖離を起こし、自分の前と後ろの認知が逆転した男(中村さん)や、常に小刻みに動いてしまう男(浜田さん)、自分の足が何の為にあるのか納得できない女(宮下さん)、そして常に思ったことの反対の事をを言ってしまう女(荒木さん)。
そうした患者達を治療する医師(亀田さん)自身も、自分が置かれた任務(患者の人格矯正)と本来の自分の中で板挟みになっているのか?苦しみの捌け口かのように自傷行為を行っている。
医師の役割は、外の世界で「正しいとされる考え」からはみ出した人間の過去の記憶や、その人が持つ信念・信条を消し去り、従順な人間に変えてしまうこと。そして外の世界の概念に洗脳する人格矯正施設に送り出すこと。

松井さんの書かれた戯曲そのものは、スタートこそユーモラスな面もあるものの、話が進むにつれて、どんどん、恐怖政治が行われている世界に紛れ込んでしまったような怖さを感じ背筋が寒くなってきます。
そうしたところに、恐怖を緩和(中和)するかのような近藤さんらしい楽しい大運動会みたいな(笑)場面が始まります。キャスター付きの丸い椅子がビューーーンと転がってきたり、その椅子に乗って「ある者」がビューンと転がっていったり、「ある者」と患者(阿部)が松葉杖を芯棒にグルグル回ったり、観てる方も楽しくて忙しい(笑)
五人(だったかな?)ならんで体操しても最初は同調出来るのに、やがてリズムがずれてバラバラになっていってしまう。無理に合わせようとしても各々個性があるから完全なる同調なんてありえないよね?という話にも見えてきたりして。

そして次に、思ったことの反対の意味の言葉が出てしまう患者(土井)。彼女は何故か、「ある者」を早く退院させようとする(※ 多分)。
医者の言葉を信じるなと反語で伝える。それはもう必死に。彼女が言いたいことは、全て言葉の真逆。でも、その真意と心の中からあふれ出す感情が一致しているので、観客の方にも彼女が何を「ある者」に伝えたいのか徐々に解ってくる。それと同時に、ここが単なる病院でないことも、病院の外がどんな世界(社会)なのかも。←段々、背筋が寒くなってくる。

退院するまでに右往左往したせいか?医者が打った薬が切れてきたのか?「ある者」の記憶が徐々に戻ってくる。
自分が何をしたのか(=テディーベアを使ったテロ行為)も。そして彼女(土井)が何者なのかも・・・。

ちょっと話が逸れますが、初日の1回を見ただけなので私が気付いてないだけかもしれないけれど・・・
 ☆何の目的で「ある者」はテロ行為に走ったのか(主張が不明)
 ☆「ある者」のファンだという土井の告白が突然で違和感あり

気になったところ

追い詰められる「ある者」と土井。
自分も外の世界に出たいと望む土井を担ぎ「ある者」は病院の外へ逃亡。

(ストーリー的にはここでENDです)

+++

この逃亡場面の土井(荒木さん)さんの言葉が、凄いなーと。
言葉そのものではなくて、(反語なので)言葉としては全て真逆なのに、彼女が必死に「ある者」に伝えようとしている心の中が真っ直ぐに届いてくるんですね。私は多分、荒木さんの舞台を拝見したのは初めてだと思うので勝手な推測で恐縮なのですが、彼女のこの届ける力は当て書きなのかな?と思ったほどでした。
当て書きという意味では「ある者」の成河さんも「ある者」と通じるところがあるように感じるのですが、どこか、自分の中に言葉にはしにくい本能的に察知する面があって、常に自分の周り(社会であったり、演劇の世界そのものであったり)を俯瞰の目線だったり何事も鵜呑みにしない疑いの視点でみているように感じるところでしょうか。


<2>『導かれるように間違う』観劇感想


拝見して、一晩たって改めて感じること。
それは、この作品は、人間が持つ「信念や信条」について考えてみることを促しているんじゃないかな?という気付きでした。

+++

時代設定は不明だけれど、言論統制された世界が広がる近未来なのでしょうか?恐らくは、実際の人類の歴史の中でも繰り返されてきた独裁政治による暗黒時代に似た、人の自由を奪い、特定の権力者が定めた「絶対的なスローガン(迫りくる脅威に皆で立ち向かうという正義)」を目指さなきゃいけない世界。

具体的に言えばヒットラーや、直近だとプーチンを連想させるし、日本もまた戦中の特高警察など国民の多くが統制されたことを想い出せば、決して遠い世界だったり無関係な世界の話ではないのだと思う。
その世界の中で「スローガン」に従わない人間を排除し、強制的に人格を矯正する場所、それが舞台となっている病院のようです。

この作品の中で、一見すると、本来の人間らしさを失わせさせ矯正しようとする病院だったり、この舞台の背景となっている言論統制された世界の方が今の私達の感覚からすると異常に見えるかもしれません。でも、果たして、そうした一方的かつ短絡的なものなのでしょうか?

「信念や信条」というものは、それが属する社会や世界の中で、害をなさない範囲であれば許容されるものだと思いますが、盲目的なものであったり、他者への暴力などによって信念を通そう(実行しよう)とする場合においては、それはもはや許されざるもの(テロ行為)になってしまいますよね。
病院の外の世界(=個人的な信念や信条を持たない世界)と、盲目的であったり信念の為に暴力に訴える人間(テロリスト)の、どちらが正しいとは誰も言えないのではないでしょうか?

ある者から消された記憶は何だったのか?
それは、かつて、テディーベアを使った自爆テロの実行犯だった自分の姿でした。テディーベアという、子供の良き友達となるべき存在を利用し、被害者に恐怖というトラウマを与える。何の主義主張の為のテロ行為だったのか、そこまでは読み取れませんでしたけれど、何が目的であっても許される行為ではないですよね。

一方、病院の外の世界(強風が吹き荒れる、殺伐としたものを感じさせる世界)に生きる人々はどうなのでしょうか。自分の記憶を失い、生きていく上での信念も持たない。
誰か、権力を持つ者の都合の良いように従順に動く人間たち。それは考えようによっては生物兵器に思えるのです。無思考がもたらす、善悪の判断を失った狂人たち。かつての独裁政権下で起こった歴史上の悪夢そのものにも思えました。

では、一体、どうしたらいいのだと、この作品は観客に語りかけているのでしょうか?

誰かにとっての「信念や信条や自分にとっての正義」は、他の誰かにとっては「そうではないもの」である可能性は必ずありますよね。一人一人、考えも、環境も違うわけですから。
そのことを頭の片隅に置いたまま忘れずに、「信念や信条や自分にとっての正義」というものが持つ危険性(暴力性)と、逆に「自分の考えを持たずに他人に依存してしまう」人間の危うさについて、改めて我が身に重ねて考える事だったり、その重要性に気付くことではないでしょうか?

盲目的な信念ではなく、その行使に暴力を使うこともなく、社会や世界の中で多くの人々の価値観や物の見方を知り、その先で、他者の立場になって考えるという想像力を養ってみたり多面的な物の考え方を身に着けた上で『自分の「信念や信条や正義」を信じると同時に常に疑うこと』が出来たら?

以前の「ある者」のようなテロリストにもならず、病院の外のような世界も招くことがない、『人間が持ちうる「想像する思考力」という一番強い抵抗力』になるのではないでしょうか。

舞台のラストシーンは、どちらが勝利したわけでもないのだと思います。
もしかしたら、ある者と土井は再び収監され命を落としたかもしれないし、逆に、ある者と土井は自由を勝ち得たかもしれない。
それは、未来という誰にも予測がつかないものを、劇場に居た私達一人一人に委ねて下さったからではないでしょうか?
「じゃあ、あなたの信念は何ですか?」という問いと共に。

「信念」を持つということは、自分自身の内面を見つめることでもありますよね。自分にとって大切なものは何かを考える行為ですから・・・。


<3>最後に

今回の松井さんの戯曲は、現実の世の中で「多数派」に抗って生きてきた人(私)には、怖くて、苦しくて、悲しくてしょうがなかったです(泣きました)。
最初に上演予定時間75分と伺った時は(予想より短くて物足りないかな?)とも思いましたが、初日に拝見した時は終始惹きつけられ、その濃密さに物足りなさなど全く感じませんでした。

個人的には、自宅に芝居の恩師から頂いた30年来の付き合いのクマさんがいるので、劇中のテディーベアが落ちたり蹴られたり(劇中では逃げたりですが)する度に、(うわぁぁぁx~~~)と心の中で叫び声をあげていましたし(いや、可哀想で)、同時に家のクマさんは喋らなくて良かったと心から思います(笑) 別の問題でトラウマになりそうでした(^^;