見出し画像

「プライベート・ジョーク」2020年版

「プライベート・ジョーク」2020年版
  東京芸術劇場シアターイースト 2020年12月13日観劇
  パラドックス定数 第46項
  作・演出 野木萌葱
  出演者  映画作家B/井内勇希
       詩人L/植村宏司
       画家D/小野ゆたか
       学者E/加藤敦
       画家P/西原誠吾

  以下、記憶だけで書いておりますので、記憶違い&勘違いが
  ありましたら御容赦下さい。また個人の観劇感想です。


時は、20世紀前半?、スペイン内戦の頃だろうか。
登場人物は5人。
学生達3名と、学生寮主催の講演に来た著名人2名。
学生達も後に名を残すが、この時点ではまだ何者でもない。
(この戯曲の中では最初から最後まで個人名は明かされない)

登場人物はそれぞれみな、自分の中に衝動を抱えている。
創りたい、表現したい、思考したい、
誰にも、自分にさえ止められない、「衝動」だ。


学生L(多分、後のガルシア・ロルカ)
    言葉を紡ぎ出す衝動を持つ。
    詩や戯曲を残した。「イェルマ」の原作者。

学生B(多分、後のルイス・ブニュエル)
    映像、映し取ることに興味を持つが
    学生3人の中では恐らく一番衝動性が低い。
    映画監督として名を遺す。「昼顔」の映画監督。

学生D(どうみても、後のサルバトール・ダリ)
    絵を描くことに強い衝動を持つ。
    後に、シュルレアリスムの代表的な画家となる。

講演に来た先生E(どうみても、アルベルト・アインシュタイン)
    誰でも知ってる天才物理学者。
    その思考は休むこともなく留まるところも知らない。

講演に来た画家P(どうみても、パブロ・ピカソ)
    誰でも知ってる有名画家。キュビズムの創始者。
    一方向から見えたものを2次元に落とすという
    それまでの絵画の世界を根底から覆した人。

話は、この学生3人が暮らす学生寮に招かれた著名人2人と
まだ何者でもなかった未来ある学生3人の出会いから始まる。


<<あらすじ>>

後に名を残すが、学生の3人は「創りたい」衝動と夢と若さしかない、この時点では何者でもない若者達だった。そんな3人の起爆剤となったのが、講演を行いに訪れた著名人2人だ。
画家Pは学生寮談話室のテーブルに無造作に置かれていた学生Dのデッサン画を見て一目でその才能を見抜き、油絵だろ?臭いで判る、絵を見せろと言う。批判を恐れ最初は躊躇したものの、絵を見て貰いたい欲望が勝った学生Dはアトリエに画家Pを案内する。絵を観た画家Pはその才能に嫉妬し、革新的過ぎるとか何とか、批評する。だか、その内心は旧知の間柄である先生Eに見抜かれていた。画家Pは、学生Dをパリに連れていく。そこで腕試しをしてみろとチャンスを与える。だが、それから5年経っても学生Dの画家としての芽は出ない。その原因は、彼自身に合った。他人の批評を気にし過ぎる。内側の、とても弱い人間だからだ。

5人が出会った学生寮から、5年後。再び、この5人が学生寮で遭遇した。

学生Lは既に学生では無かったが、この学生寮に留まり、詩を書いたり、劇作家として脚本演出を手掛けて芝居を創っている。だか、他国の侵攻と反発する国内勢力によってスペインでは内戦化が進み、言葉の表現は当局の検閲対象となってきていた。学生Bは学生Dを追うかのように同時期にパリへ行って映画業界に身を置き、助監督から映画監督への一歩を歩み始めていた。学生Dは先述のように、表現者としての弱さから、いまだ無名な画家だ。自分にチャンスをくれた画家Pとも上手くいってはいない様子。そんな彼に先生Eは、同類の自分だからこそ出来るアドバイスを贈る。それにより、学生Dは画家として覚醒していく。

人生に迷っていたのは、元学生達だけではなかった。先生Eは、化学が持つ危険性(武器転用への可能性)を恐れ平和活動を行ったりしていたが、それが原因で迫害を受けていた。このままでは身の危険がある為、アメリカへの亡命が計画されていた。(この知性を守る為の国策?)
だが、彼個人にとっては、それは亡命であり、一生、祖国へ戻れないことを意味する。そんな旧友を案じ、アメリカ行きを進める為、この寮に来た画家P。話ながら、もう二度と会えないかもしれない旧友の姿をスケッチする。現実では右側面から観察しながら、先生Eの背中を描いた画家P。リアリズムという絵画の概念を覆した、キュビズム誕生の瞬間。先生Eは旧友である画家Pの諭しを受け入れ、アメリカ行きを決断。画家Pは活動拠点であるパリに戻る。

元学生Dもまた、画家として再出発する為、パリに戻り、元学生Bも同じく、映画監督として歩む為、国外に拠点を移す。

だが、元学生Lは、この国を離れられない。何故なら、彼の「衝動」は彼自身の言葉を紡ぎ出すこと。それが出来るのは母国語であり、彼が書いた戯曲や演出した芝居を理解する人々もまた母国にしか存在しない。
内戦は激化し、検閲は今や弾圧となっていた。母国でさえ、自分の思うまま、言葉を紡げない現実。それに抗おうとすれば、それは落命を意味する。

自分自身の「衝動」を捨てて、自分の命を守るか。
それとも、生きること、すなわち、己の衝動を守り抜くか。
その究極の選択を迫られた元学生Lは母国に残ることを選ぶ。
史実では、結果、彼は若くして銃殺される。

学生時代からの友達、Lの決断。その後押しをしたのは、旧友であるBとDだった。自分の衝動を、生きることの尊厳を、守れと。結果、彼は殺される。その最後まで、旧友BとDは目を逸らさず見つめ続け、自分の「衝動」へと昇華していく。
自らの持つ「衝動」の怖さ、残酷さ
それを確認し合う、旧友BとD。

画家Pもまた、反戦として「ゲルニカ」を描く。
物語は後半、時空を交差しながら、各々の心を描く。

そして、元学生Lの死と、その未来との交差を持って、終わる。


<<観劇感想>>

この作品の中で一番心抉られたのは、人間が持つ「衝動」だ。
劇団としての御名前は存じ上げていたし、事前に機会があって配信も拝見させて頂いていた。それが今回の観劇に繋がってはいるのだけど、初演の「プライベート・ジョーク」は残念ながら拝見していない故に、この作品に出会うことで自分の中に抱える「衝動」を見つめることになるとは思いもしなかった。この出会いは、何なのだろう?偶然か、必然か。自分が思い悩む今、自分が観たいものを観てしまったのか?それとも芝居の神様の思し召しか?それは判らない。自分にとって芝居に対する「衝動」は闇の部分でもあり容易に語れない。なので今回は、「衝動」に纏わるもの以外の感想を書こうと思う。


以下、観劇感想。

コロナ禍となった2020年も、12月。今年の年が明けた時は、まさか、こんな全てが覆るような大転換期になるとは予想だにしなかった。十代の頃から自宅の居間のように座り続けてきた劇場客席。今年ほど、劇場という場所の存在意義について考えたことは無い。

劇場で、人は、色々なモノやヒトに出会う。
その場・その時でしか感じ得ない一瞬の出会いが、心から大好きだ。
それらの出会いによって、人は日々、変わっていく。
生きている限り、その未来には「人は変われる」という可能性がある。だか、「人と人」が、「人と社会」が、出会うことが容易には出来なくなり、改めて、人と人が出会うという必要性を感じると共に「出会い」が併せ持つ力(引力)と危険性について考えさせられた。

先生Eは語る。
 ※台詞に忠実ではありません
自然界の中で、同じ場所に留まることの方が不自然だと。
自然界の中では、事象は常に動いている。変化こそ自然だと。

人と人の出会いは、正にそうだ。
人と人が出会うことで、人は何かしらかの影響を受ける。
それはまるで惑星が持つ引力に似ている。
互いに引き寄せ合い、影響し合い、未来という軌道が少し変わる。
それによって、未来が明るくなったり、豊かになったり。
だからこそ、生きる中で人に出会う意味や楽しさがあるのだと思う。

同時に、人と人との出会いは、危険性も孕む。
特に、自分が尊敬する人や偉大な人物、信頼する人との関わり。
元学生BやDのように、人間としての尊厳や表現者としての衝動。
それを守れと友に望むことは、友の尊厳を守りたいという友情と
同時に、友の命を結果奪ってしまったという末路を生む。

だが旧友BとDは、自分達の発言が彼の死を招いたことを自覚しながら、その罪深さに落ちてはいけないと、自らを戒める。勝手な推測だけれども、人の人生は、その人個人のもの、どんな親友であっても、一生、解り合えない、個と個である。例え多大な影響を与えたとしても、その結果は全て個に戻る。その現実や、人が持つ冷酷さも同時に感じたのだった。

あの時に、全てを放棄して逃げろと諭していたら
元学生Lは、幸せな人生を送れたのだろうか?
それは誰にも判らない。
時により、自分の中から湧き上がる衝動は、何よりも強いからだ。

人と人とが出会い、お互いに影響を受けて、変わっていく。
それは、とても自然なことだし、人に必要なことなのだろう。
だが、物事は、一面では無い。
2020年。その人と人との出会いが制限され、その価値を再考する今、改めて、人と人との出会いが自分にとって何なのか、考えている。
人と出会い、人生を送る中で、人が避けられないもの、選べないもの。
その一つは、生まれ育った母国だ。

時代という大きなうねりのなかで個人は無力だけれど、そのうねりを生んでしまったのもまた、個人という一人の人の集合体だ。この2020年の中で、今まで以上に、私達は社会からの影響を強く受けている。約100年前に生きた彼達の姿は、人と社会の関わりについて私に何を気付かせてくれるのだろうか?

「プライベート・ジョーク」というタイトルの意味を考えたとき。それは、内輪ウケが通じるような、ごく親しい人達の物語でもあり、同時に時代に翻弄され人生が分かれていった仲間の話でもあり、どんな天才や鬼才にも、人としての面があるという当たり前のことを舞台を思い返して気付かされた。

最後に感じることは、人と出会いたい。その素朴な願いと
人が人が想うという、どうしようもなく離れられない温かさだ。


<< 後記 >>

野木さんの戯曲は最近だと「骨と十字架」で拝見しているけれど、「パラドックス定数」公演として拝見したのは初めてだし、「プライベート・ジョーク」2020年版を拝見したのも千穐楽だった12月13日が初見でしたが、とても良い出会いに恵まれたのではないかと感じている。
ここでは書けなかった「衝動」について、購入した戯曲本をバイブルに自分の心の中を見つめてみたいと思う。そう思った機会でもあった。正直に言えば、もっと早くに観て、戯曲を読んで、再訪したかった(笑)それはまた、次回公演でのお楽しみに取っておきたいと思う。

最後になりましたが、私にとって、また一つの出会いとなった劇団の皆様の創り上げられた舞台に対し、心からの拍手と感謝を込めて。
「ありがとうございました!」
また、いつか、出会わせて頂けますように(^^)/