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鬼滅の刃と車田正美とH×H - タイマンの超克

いまさらですが鬼滅の刃を少し読んで非常に深く感銘を受けたので、それを記すものです。私は鬼滅の刃を一言で表現すると「組織としての人間の力とジャンプの正統派主人公を並立させ、機能としても価値観としても整合性のある世界を描いた画期的な作品」あるいは「ジャンプの正統派主人公が、最終的に個の力ではなく組織の力(≠個人の集合の力)で圧倒的な個を打ち破る話」と思っています。
そのような考え方で鬼滅の刃を俯瞰してみると、鬼滅の刃がHUNTER×HUNTERのキメラアント編へのある種のアンチテーゼに見える瞬間があり、気になって色々と考えていました。そうすると、鬼滅の刃を聖闘士星矢と比較することで、聖闘士星矢の"課題"を見事に技術的に克服していたり、あるいは見事に引き継いでいたり、という姿が見えてきました。この記事ではそのような事についての考察をします。
以下、非常に多くのネタバレを含みます。鬼滅の刃も、聖闘士星矢も。(HUNTER×HUNTERも)
なお、タイトル含め敬称を略しています。


干支と(十二)星座

鬼殺隊の主要な人物は十二支をモチーフにしていると考えることができます。この事については以下のノートが詳しいです:
鬼滅の刃考察 鬼は病を、鬼殺隊は十二支をモチーフにしている
また、鬼殺隊の階級は十干で示されています。あわせて干支ですね。
聖闘士星矢の聖闘士は星座を割り当てられており、特に黄金聖闘士には黄道十二宮が割り当てられていました。

柱と黄金聖闘士、癸と青銅聖闘士

鬼殺隊には柱というトップ集団が存在していて、(これは十二支を網羅しているわけではないですが)黄金聖闘士と対応しているように見えます。また、上位集団ではなく下位集団に目を向けると、(最初)炭治郎たちは十干階級の中で最も低い癸に属していましたが、これは聖矢たちが聖闘士の中でも最下層の青銅聖闘士であったことと対応しているように見えます。
(最終的にも炭治郎たちは甲にはなりませんでした)

小ネタ:禰豆子の箱と聖衣の箱

小ネタも挟んでいきます。禰豆子の箱は聖衣の箱にそっくりですね。
あの箱を背負ったシュールな姿を令和でも拝むことができるとは。
※私はこの事をまったく意識していなかったのですが、検索したら出てきてウケたので入れてみました。

血統主義?

ジャンプのマンガにはしばしば主人公の才能の説明としての血統主義的な要素があります。ドラゴンボールのサイヤ人であったり、ワンピースのDの一族であったり、ダイの大冒険の竜の騎士であったり。ジョジョに至っては「誇り高き血統」とまで言っています。
さて、聖闘士星矢では、なんとほぼすべての青銅聖闘士の父が同一人物であるというトンデモ設定が存在します。腹違いの100人兄弟...
一方の鬼殺隊においては、当然そのようなトンデモ設定はありません。しかし半ば世襲のような煉獄さんや、黒死牟の子孫である時透さんなどがいます。また、炭治郎は"始まりの呼吸の剣士"の直接の子孫でこそ無いものの、その技を伝承され、さらには形見の耳飾りまで引き継いだ一族の生まれであり、その呼吸を体現する才能もあります。鬼の王になる資質も備えていました。

五感の一つが優れているか、五感を飛び越えるか

炭治郎には他人よりも明らかに優れた嗅覚が与えられています。また、炭治郎と同期で試験を突破した仲間には、五感のそれぞれにおいて優れた能力が与えられています。
一方の聖闘士星矢においては、五感は次元の低い感覚です。第六感、第七感(セブンセンシズ)、第八感(阿頼耶識)と、五感を"超える"事によって謎の能力を発現して戦いました。これは対照的な要素ですね。私は「五感がなくなっても戦える(インプットがなくてもアウトプットはできる)」という点で、聖闘士星矢から非常なインスピレーションを受けましたが、しかし荒唐無稽・豪快すぎる設定だと思いました。鬼滅の刃でも、実態としては五感の超越の仕方が豪快ではあるものの、なんというか現実的な路線かなと思いました。それはある種の正当進化であるように思います。

また、聖闘士星矢ではシャカのように五感を奪うという攻撃も存在していました。鬼滅の刃でも、愈史郎が鳴女の五感を狂わせてそれによって無惨に誤った情報を伝えるなど、五感への直接的な攻撃というものが見られますね。五感そのものへの攻撃という事は同じものの、その意味が今ひとつよくわからない聖闘士星矢と比較して、情報への攻撃という意味が明確な鬼滅の刃ではより"現実的"に戦闘を描こうとしているように見えます。しかし...(次に続く)

必殺技一枚絵

「リングにかけろ」の時代から存在する、車田正美の由緒正しい戦闘描写です。ギャラクティカ・マグナム!どーん!ギャラクシアンエクスプロージョン!どーん!積尸気冥界波!どーん!
鬼滅の刃の戦闘シーンにも、似たような空気を感じます。水が存在しないところに、冨岡義勇や炭治郎の水の呼吸でいかにも水があるかのような映像が流れたりするのは、聖闘士ですらないボクサー剣崎がギャラクティカ・マグナムを放つ時に宇宙の星々が崩壊するのと共通するものを感じます。
これは技の説明・機微というよりは壮麗な絵の方にウェイトがあるのかなと思います。これは全く正しく、しかしある意味では暴力でもあります。鬼滅の刃では後述のように戦略の重要性が非常に際立って表現されている一方で、個々の戦闘における説得力というのはこの状態です。個々の戦闘でキャラクターの力量や技術を表現することは本質的に非常に難しいことなのだと思います。
※もっとも、炎の呼吸や日の呼吸では実際に熱が発生しているように見えますが...水の呼吸の水も実際に出てるのかな...
※一枚絵が悪いことだと思っている訳ではないです。むしろ、戦闘に関する難しい理屈を除いて少年マンガとして成立させるために、意図的に・技術的に必殺技一枚絵を増やしたのかな、というようにも解釈できます。

タイマンの超克・序論(ここから本論)

さて、これまでは体裁的な部分で、ここからが本論です。聖闘士星矢の最大の謎として、「どうして戦争なのに一人ずつタイマンで戦うの?」という事があります。例えば、ハデスの軍勢とアテナの軍勢で戦うのであれば、もっと黄金聖闘士が徒党を組んで撃破するシーンがあるのが自然ではないでしょうか。もちろん、部分的な共闘みたいなものはありますが、基本的には決まった場所で決まった相手を倒します。おそらく、多くの子供が疑問に思うことだと思います。お互いに、頭が使える人間のはずなのに...
これはおそらく、少年マンガの抱える本質的な課題であると思います。つまり、タイマンはマンガとして見栄えする一方で、現実的に協調できる人間が"賢く"考える限りではタイマンが最善である状況は限定されている。また、登場人物が増えれば増えるほど、タイマンは描きにくい。男塾のように完全に割り切って、「とにかく一対一の戦いを繰り返すことで決着をつける!」という謎の話に固定してしまえばある意味で解決しますが、モチベーション的な部分で話に深みを与えることができません。
鬼滅の刃ではその理由を鬼の性質に求めています。つまり、鬼は本質的に協調行動を取れず、単独で個の力によって敵を撃破しようとする。これによって、1または少数の鬼 vs 人間たち(1のこともある)の構造を自然に作り出す事に成功しています。これは大枠のシナリオによって自然に課題を解決する手法と言えます。

タイマンの超克・戦闘力インフレ

しかし、鬼滅の刃の凄さはそんな事では収まりません。
話の構造的にタイマンが許されるからといって、タイマンによって登場キャラクターの序列が決まることで不自然な戦闘結果が発生したり、とんでもないインフレが発生する問題が解決するわけではないからです。
実際、聖闘士星矢の次に大きな謎は「どうして青銅聖闘士の聖矢たちがしばしば黄金聖闘士に打ち勝ったり、黄金聖闘士以上の働きをするの?」という事だと思います。聖闘士星矢は「聖闘士には一度見た技は通用しない」という豪快な言葉とそれを上回る豪快な必殺技によって実に気持ちよく下剋上を起こしていき、強さの序列という謎に対してはほぼ全く答えません。
一般論として、だいたい物語が進むと戦闘力がインフレしていき、RPGよろしく序盤の強敵は終盤の雑魚現象が発生してしまうのですが、これが元々存在する階層的な序列と矛盾してしまい、強さの序列が意味不明になる事があります。特に、短時間でインフレが発生する場合などは、登場の順番によって同じ序列にあるはずの黄金聖闘士の中でも、上下関係のようなものが発生してしまう場合すらあります。これは数値化が必須となるRPGなどでは特に顕著で、四天王の最初の一人と最後の一人でレベルが1.5倍や2倍違うといったこともあります。
他のマンガを見ると、例えばドラゴンボールでは序盤の強敵は終盤の雑魚という事を気持ちよく全うしていて、「同じレベルの集団の間での強さの齟齬」みたいな事こそ少なかったものの、亀仙人はじめ戦闘力のインフレについていけない序盤のキャラクターたちはどんどん相対的に雑魚になっていきました。
鬼滅の刃には、それがありません。8巻で上限の参=鬼の序列4位の猗窩座に敗北した炎柱は、仮に23巻の無惨戦に参戦できたとしたら、他の柱と同等の活躍をする姿を簡単に想像できます。それぐらいに強さが整合的です。
何より、非常に成長の早い炭治郎にあってさえ、最終的に柱を超えるとは言えない強さに留め置かれました。炭治郎は、確かに柱の手前ぐらいの、あるいは一部の柱よりは強い可能性もあるような描写でしたが、最終決戦の無惨戦にあってさえ、決して最後の切り札ではありませんでした。
確かに、無惨を恐怖させた日の呼吸を使うことはできました。それは、紛れもない主人公特権のようなものでしょう。でも、それが日の呼吸であるがゆえに他の柱の攻撃より特別に効いていたかというと、必ずしもそうでもなくて、赫刀であれば"平等に"無惨にダメージを与えることができました。また逆に炭治郎の同期たちに目を向けても、姿を隠していれば無惨を惑わす程度に機能しました。
最終決戦の戦闘、ただそれだけを切り取ったときには、決して炭治郎は特別な切り札ではありませんでした。シナリオがドラマチックになるようには機能したものの。例えば、もし仮に赫刀を使える他の柱が飲み込まれていたとしたら、最後に無惨を内から倒したのはその柱であったでしょう。

タイマンの超克・主人公の機能と組織の強さ

最後の決戦に至るまでの経緯を少し振り返ってみると、炭治郎が居なければ、炭治郎の世代の柱たちで無惨を倒すことはなかったでしょう。
無惨を倒すには、"始まりの呼吸の剣士"縁壱のような異常な天才の能力を持たない人々にとっては、薬の力が必要不可欠でした。この世代にはその薬を作り得る胡蝶しのぶが居て、また珠世という人もずっと存在していましたが、その二人を真に結びつけたのは炭治郎であり禰豆子の存在でした。炭治郎が居なければ、この二人が協力して研究することはおそらくなくて、鬼殺隊が無惨を倒すのはもっと先になっていたでしょう。炭治郎の最も大きな貢献が何かと問われた時、私はこの二人を結びつけたことであると思います。
そのような点において、炭治郎は確かに物語の中心であり、主人公です。鬼も含めて誰にでも本当に優しい炭治郎がいたからこそ、この世代で人間が勝利をおさめることができました。それは間違いありません。
しかし一方で、単純な決戦だけに目を移すと「無惨との決戦は実際の決戦前から勝負が決まっていた」あるいは「決戦が確定した時点においては、仮に炭治郎が居なくなったとしても十分な勝算があった」ように思えてなりません。つまり、鬼殺隊が組織として薬を作り、組織として柱を育て、薬と柱をぶつける。最終的な戦闘の勝敗は一部には炭治郎のファインプレーがあったかもしれないが、炭治郎がもし決戦の場に居なかったとしても、薬があって柱が居れば、十分に戦うことはできた。
そのような視点で最終決戦を眺めると、炭治郎あるいは個としての柱が超越的な力によって無惨に勝ったのでは無く、かつこの結果は長い目で見て必然であったという事を感じます。鬼滅の刃という物語が、そのことを力説しているように思えるのです。多くの柱が傷つきながらも協調して一つの敵と戦う、非戦闘員の隠までもが岩柱を直接支えて無惨と戦う、お館様が必死に叫んで檄を飛ばす、チームの総力戦としての無惨戦を見ると。
最強の岩柱も、傷つけばただの脚のない盲人で、支えられないと直接戦うことはできない。それをみんなで支えて、なんとか無惨に立ち向かう。

これまでに挙げた点のすべてをじつに丁寧に描き切っているという点において、鬼滅の刃はタイマンという戦い方の超克を示しています。これは、今後の話作りに対して、一つの革命を起こしているようにも見えます。
実際、炭治郎は主人公でありながら物理的最強をある意味で放棄する事により、戦力インフレを起こさず、変な不整合も起こしませんでした。しかし、胡蝶しのぶと珠世を結びつけたということ一つを取ってみても、主人公として決定的な役割を果たしました。さらに、従来の物語で強者としての主人公が果たしていた役割を、組織に委ねることになりました。

※薬の世界において、しのぶや珠世は縁壱に類する天才であったという解釈もあり得ます。しかし、私には縁壱ほどの天才の描かれ方ではないように思えます。人間レベルで再現性がある、というか。少なくとも、個として無惨を絶対的に超えるようなものではなかった。ということかな、と。実際、認め合える"人間"が2人いるわけですし。

人間讃歌と組織の描写の並立 - メルエムへのアンチテーゼ

ジャンプの王道マンガの一つの本質には、人間讃歌という事があると思います。ジョジョなんかは、大々的に人間讃歌という事を言葉にして提示していますね。
旧来の人間讃歌を伝える作品は、個としての突出した能力に支えられているように見える作品が非常に多かったように感じており、組織的な人間の強さの本質というものを描いている作品は、あまりなかったように感じています。
過去に完結していて、私がある程度真剣に読んだことのある作品でいうと...
ドラゴンボールも、ダイの大冒険も、聖闘士星矢も、ジョジョも、北斗の拳も、るろうに剣心も、トリコも、ナルトも...
いずれも、形式的な意味での組織は出てきますが、あくまでも実態は個の集団であって、本当に組織的・戦略的な動きを踏まえて、最終決戦に直接組織が関与するというような事は、ほとんどなかったように感じます。
例えば、ダイの大冒険におけるポップやその他の仲間は、あくまでも優秀な個人としての仲間に過ぎません。ドラゴンボールにおけるブルマ、あるいは組織としてのカプセルコーポレーションは、ただの一個人としての天才、あるいは結集されてしまった技術にすぎません。逆にフリーザ軍は極論するとフリーザ一人で"何でも"できるでしょう。(ドラゴンボールみたいな探しものとかはめんどくさそうですが、宇宙でも普通に生きていられるし、部下が全員反逆したとしても殺せるような強さなので...)
レッドリボン軍のドクター・ゲロも、ただの一個人としての天才で、レッドリボン軍自体は悟空にとってはただの個人の集まりでした。

一方で、いわゆる王道ではない描き方で、組織あるいは種としての人間の戦い方を描いた作品があります。それは、HUNTER×HUNTERのキメラアント編です。
キメラアント編では、キメラアント=蟻の王たちと人間のハンターたちが戦う事になります。
鬼と蟻を比較すると、個体としての性質は近いところがあり、また絶対的な王を頂点とする組織でもあります。鬼も蟻も、原則として元は人間で、人間を食料とします。(一部の例外を除いて)
ただし、蟻の王メルエムは極めて洗練されています。これが鬼滅の刃における無惨との大きな違いです。生まれながらにして種族の頂点にある、極めて優れた個体能力を有する王は、人間の中の優れた個との触れ合いを通じて、当初は食料以上の価値を見出していなかった人間をまさしく人として扱う事を考えはじめます。これは、人間の中でも洗練されたハンター協会会長のネテロと戦闘を通して触れ合うことで一層促進され、ネテロは人間として認められます。
しかし、ネテロには元々核爆弾のようなものが埋め込まれていて、王とネテロの戦いの結果の如何に関わらず、始めから王は爆発と毒によって死ぬことになっていたのでした。
この構図は無惨に対する最終決戦と非常に対照的です。無惨はどうしようもない奴で、それに対して人間は組織的に対応を検討し、科学力も含む総力戦を挑みました。蟻の王は個として洗練されていて、それに対して人間は組織的に対応を検討し、科学力も含むある種の総力戦を挑みました。
キメラアント編の場合は、この王の洗練された部分も一つの魅力であり、また逆に人間の戦い方については、ネテロを通じてある種の邪悪として表現するなど、深みのある構造となっています。私が「王道ではない描き方」とはじめに評したのも、そのような意味でした。
一方で鬼滅の刃の場合はそのねじれのような構造がありません。無惨はストレートな悪となっており、いわゆる王道の構造です。
人間讃歌と組織の描写は並立する。すごい。そりゃあ、現実世界がそうなっているのだから、そのようなマンガも存在して当然ですが、それが少年マンガ、ジャンプのバトルマンガにやってきたということですね。

このような話の構造を見て、鬼滅の刃の最終決戦はキメラアント編へのある種のアンチテーゼを含み、また組織を王道で描く場合の一つの答えを与えたのかな、という事を思いました。
当初はなんとなく直感的にそう思ったというだけでしたが、この考察を進めるうちに、細かい部分でその思いが強まりました。
例えば、炭治郎たちの世代で個としての最強の岩柱が、同じく個としてほぼ最強と言えるネテロ会長と同じように戦いで脚を失って、しかしそのときに隠に支えられて無惨と戦ったことは、ネテロと対照的だと思いました。

「いま」鬼滅の刃が出てきたということ - むすび

吾峠呼世晴は紛れもなく天才であると思います。
しかし、とはいえ「いま」鬼滅の刃が出てきたという事には、それ自体に鬼滅の刃で語られたような意味があると思います。つまり、過去の色々な作品があって、その作品の課題があったりして、あるいはすばらしい技法があったりして、それらを踏まえて吸収・昇華して、「いま」鬼滅の刃が出てきたという事なのだと思います。つまり、先人の様々な知見があって、はじめてこのタイミングで、天才によって仕事が為されたのではないかな、という事を感じます。

これまでの考察に関しても、じつは本当は、聖闘士星矢と直接比較が成り立つというよりは、聖闘士星矢が少年マンガの主たる要素を持っていて、その少年マンガの主たる要素を軸にして鬼滅の刃を解釈するとこうなる、という言い方のほうがより正確なのかもしれません。その意味では、実は吾峠呼世晴には聖闘士星矢に対する特別な意識はなくて、伝統を無意識的に踏襲すると結果として鬼滅の刃が生まれた、という事なのかもしれません。HUNTER×HUNTERとの比較も、「たまたま」そうであったというだけかもしれません。実際、もっと直接的にオマージュになっているジョジョの第三部、DIOとの決戦と比較する方が自然かもしれません。

しかし、ここまでに述べたような考察の観点で眺めると、これまでの歴史からの飛躍みたいな事も見えるのかなと思ったりして、すごく面白いなあと思いました。ただの思いつきの妄言が並んでいるだけ、かもしれませんが、こんな考え方もできるかもしれないですね、ということで。具体的に吾峠呼世晴の考えていた事やその経緯についてはわかりませんが、少なくとも先人の作品を非常によく研究されているのかな、という事は強く思います。

1/24追記:ノーインフレの中の主人公 - SLAM DUNKについて
炭治郎が最強者でなく、かつインフレを引き起こさず、しかし主人公であり続けた事によって組織・チーム的機能が協調されたという事については、バトルマンガ以外で似たような構造のものにSLAM DUNKがあります。SLAM DUNKの主人公桜木花道は、作中でも天才といえば天才ですが、しかしバスケの腕前でトップという事では全然ありません。しかし、紛れもなく物語の主人公ではあり、離脱しながらも決定的な貢献をしました。
この構図を、さらに大きな組織規模で、かつバトルマンガに取り入れて実践できたという事が、すごい事かなと思います。

他に、鬼滅の刃全体の考え方とか、才能とか、挫折とか、利他的に考えることとか、鬼滅の刃の中で伝えられている事ですごく大事なことは沢山あって、ここで述べたのはむしろ技巧みたいな一部分ですが、色々と面白かったので書き記しました。おしまい。

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