【怪談】寒波とともに 後編

襟合わせが左前……


Aさんは、最近参列した叔母の葬儀を思い出した。

和装より洋装の好きだった叔母は、死装束にドレスを選んだ。

白基調の「エンディングドレス」だ。


その襟合わせは、左が前になっていた。


Aさんは立ち上がると、後退りを始めた。

女性は木々の間から、無表情でAさんを見つめ続けている。

その目つきは、感情が欠落し冷やかに見えた。


女性は小さく口を開けた。

その瞬間、Aさんに極寒の風が吹きつけ、氷水を浴びせたように冷たくなった。

Aさんが震えて呼吸する。

肺に氷の霧が侵入したような感覚だ。

息を吐くと視界に白いものが現れる。

吐息がまつげに霜をつけた。


女はさらに口を開ける。

その度、Aさんの身体は凍えてしまう。


Aさんは身の危険を感じた。

踵を返して駆け出す。

死装束を着た若い女。

口を開けば吹き付ける凍った空気。

子供の頃に聞いた、おとぎ話のようだった。


Aさんは冷たい空気をゼエゼエ吐きながら走る。

長い距離を、必死で走り続けた。

もういいだろうと思い、振り向いた。


だが、女はすぐ後ろの雑木林に立っていた。

無表情にAさんを見つめ、口は不自然なまでにぽっかりと開いている。


この女は俺を凍死させるつもりだ。


Aさんは悲鳴を上げ、前も見ずに、女を見たまま走りだした。

靴底は宙を引っ掻いた。


Aさんの前方は、傾斜が急な斜面になっていた。

飛び出すように急斜面の上に飛び出したAさんは、もんどりうって滑落した。


激しい痛みと、冷たい石や砂、木の枝が体にぶつかり、ひっかいていく。

悲鳴を上げながらAさんは斜面を滑り落ちた。


突然、ざぶんとお湯の中に落ちた。

凍えた身体に、熱いお湯が流れ込んで心臓が止まりかける。

つんとする硫黄の臭いがAさんの鼻を刺した。


Aさんは急斜面を落下し、野湯に落ちたのだった。

野湯は管理された風はない。

そばには斜面から流れる川があった。

Aさんは振り向いた。


斜面の木から、女が覗いていた。

だが、女は口を閉じ、振り向いて雑木林の奥へ消えていった。


Aさんは安堵して、自分を包む暖かい湯に心地よさを感じた。

風呂のそばには、苔の生えた石があり、よく見ると字が彫ってあった。

道祖神みたいなものかもしれない。


無事町に戻ったAさんは、老齢の町民に話を聞いてみた。

大昔、このあたりは雪女が出るという言い伝えがあったそうだ。

野湯に関しては、全くだれも知らなかった。

役場の人間が調べたところ、郷土資料に

「明治以前に野湯を集落が利用していたが、近代になって枯れてしまった」

そのような記述があったそうだ。


現在、Aさんが意図せず再発見した野湯は、地元の人間に愛され、よく利用されているそうだ。


【おわり】








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