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とこちゃんは、何を目指していたのか

2021/04/08 22:49

はじめに

さすらいみちお(杜胡三蔵)は、卒業のためのゼミ論で、このようなことを書いていた。

ゼミ論の全文は、写しが取られていなかった。提出日ギリギリまで、清書していて、コピーする暇がなかったのである。いつしか、下書き原稿も散逸し、確認できたのが、「これ」だけだ。他の部分は、自分で積極的に破棄した可能性がある。出来が悪いと思い、自主的に始末したのであろう。

これは全体の一割強でしかない。この手書きの原稿をそのまま清書したかどうかも不明。かなり変なところがあるので、第一草稿なのかもしれない。今再読して、自分でも、何が言いたいのかわからないような代物だったのだと思い知る。これが「さすらいのてつじん」とあだ名されていた杜胡三蔵(通称とこちゃん)の本性だったのだ。

手書き原稿が極めて悪筆で、ほんの一部、読み取りを誤った可能性のある部分があることと、どうしても、そのままでは、納得がいかない部分をほんの僅かだが、書き直した。また、例のごとく漢字変換を機械任せにしたので、手書き原稿とは完全に一致していないところがあるが、内容がそれによって変わってしまうようなことはない。

第二部「哲学的主体定位」経営主体を規定する。

経営主体の存在を考える場合、その存在の在り方を考察せねばなるまい。つまり、それがどこにあるかということに関する問題である。

1. 世界内存在ということ

まず、考えるのは、ある器の中にあるとの考え方である。つまり、コップの中にある水のごとき関係にあたるものである。水がこの場合経営主体を意味し、それに対してあるコップについて、考えてみるということである。越えることのない枠なのであり、それが、決まり切っているところの決まりもそれにあたるであろう。この場合の世界は、単にそのもの経営主体を入れている器なのである。私は一番すぐにわかるものに、この世界にあたるものに資本主義的生産様式があると考える。マルクスはこの資本主義的生産様式を解明することに一生をささげたのであるが、私の理解では、その社会は、商品を中心に運動するものと考える。本当は、「資本」と言わなければならないけれども、一般的にそれは、単なる Concept に過ぎず、これが資本だと明確に示すことは、はなはだ困難である。

商店街も、百貨店も、supermarket にも、商品が、あふれている。これは、一目見ればすぐわかることである。商品を生産し、売ることが資本主義のモットー…人間の労働力でさえも商品と化すことができるのが資本主義……これらの果てしなく続く連想が、資本主義が何であるかを解明することはないが、一つの理解にはなるであろう。

商店は、まさに産業資本が生産した商品を販売するために存在するのである。小売店を成立させている資本は、産業資本に対して商業資本と呼ばれている。ここにも資本主義社会という枠組みが商店の存在の受け皿としての世界であると考えられるのである。商業資本の運動は G―W―G' という形をとる。資本主義的生産様式についての解明は、本来の目的ではないが、すべての原因であるとも、考えられるので、これは、常に考察し続けることが、商店の経営といえども必要なことである。

2. 状況内存在ということ

第二次大戦の終わったのち、最初の国際文化会議において、「ヨーロッパ精神の危機は、資本主義的経済機構が人間を個人化し、孤立させたところに起因する。まず全体に目を向けよ。政治と世界観とを切り離してはならない」と説いたが、これに対して、実存哲学者であるヤスパースは、こう答えたのである。「全体は常に我々の理解するすべてよりも大きい。全体を理解した上で生きるということは不可能である。我々が知りえるのは、部分でしかない」

実存哲学は、人間存在を追求する哲学である。「実存主義者は、共通して『実存は本質に先立つ』と考えている」とサルトルは言っているが、この言葉は甚だ有名なものであり、この考え方は、経営に関しても言えるのである。また、サルトル氏は言う「主体性から出発せねばならない」と。経営を考えるうえでも経営の主体性は、問題にされる。management cycle においては、plan ― do ― see と簡単に言うが、これをまさにする主体の存在がなければいったい誰が、それをすることができるのであろうか? 行動をすることを考える場合には、それを行うところの主体について考える必要があるのである。

状況内存在という考え方は、ヤスパース氏の考え方であるが、その考え方は、1 で述べた世界内存在の考え方( Heidegger の考え方)とは、正反対のものといえるであろう。ハイデガー氏は、『存在と時間』において、存在の時間性についても考察している。しかし、信じられないほど思想的に難解である。

はっきりしていることは、《存在する》という言葉を使うとき、それがもともとどんなことを意味しているか、君たちはもうずっと前から熟知していたということなんだ。僕たちには確かに昔は《存在する》ということの意味が分かっていた。けれども今はそれが分からなくなってしまって、うろたえているんだ。

彼は、『存在と時間』でプラトンの言葉を冒頭に掲げている。プラトンといえば、idea 論である。彼の世界内存在という時の世界は、idea の器なのではないかと考えてしまうほうが、より理解しやすいかもしれない。そのためかもしれないが、現実的な思考と要求される経営の問題が、まったくの形而上学になってしまい、場違いである。「経営」そのものが相手にしている世界は、もっとシビアーである。現実的であり、あまりにも現実的な世界(状況)なのである。万物の根源が、「数」であるとピタゴラスは考えていたようだが、これは、はなはだ興味を引く考え方である。なぜならば、現代社会における「経営」が、数を基礎にしているからである。商品には、価格がある。これは一例に過ぎない。経営を判断する場合の大きな資料となる財務諸表はまさしく「数」から成り立っている。これは、はなはだ面白いことである。

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後記

この論が果たして、全体として、どういうものだったのか、興味を引く人はいないでしょうが、「てつじん」と揶揄されて、一人深い思索の世界に入り込んでいた、さすらいの大学生は、いったい何を目指していたのであろうかという、疑問はわいてくるのではないでしょうか。

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