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頑張っても伝わらないもの

近くに住んでいる下の息子の友達が家に遊びに来ました。
その子は日本人ではなかったので上の息子が辿々しくも一生懸命、いろんなおもちゃや遊びを提案しては、ホスピタリティを発揮していたのを最初は微笑ましく見ていたのです。

ただ途中からその子が、上の息子が一生懸命作ったレゴを壊し始めた瞬間、空気は一変。
またその子がとあるゲームで下の息子が一生懸命貯めたポイントをどんどん消費していく。

そのうち、"Don't” ”Stop it"しか言わなくなる。
なぜなのかちゃんと言わないので、うまく伝わらず、息子が殴りかかって大喧嘩になりました。

それから個別にゲームする事態になり、その友達が置き去りに。
私は必死に一緒に楽しめる方法を提案するも、その険悪なムードのまま帰ることに。

お友達が帰った後、上の息子は、自分が時間をかけて大事に作り上げたものを泣きながら直していました。
お兄ちゃんだからと必死に我慢したんだよね。聴いてくれなくて怒り心頭だよね。そしてうまく言えなくて伝わらなくて悲しかったよね。
大切なものを守りたかったんだよね。

ただ、その子の立場になってみれば、遊びに来たのに八方塞がりで何をやればいいかわからない。

それに、後から私は気づいてしまったんです。その子は息子たちが一人でゲームを始めても割り入って違うゲームをさせろ、とは一言も言わなかったのです。そして、息子たちの隣に座って、「これは何?」と話しかけながら、必死に一緒に楽しもうとしていたのでした。

極め付けは、途中、アニメを観ようとなって、その子が好きなアニメをNetflixで見始めました。Netflixだと言語設定は自由にできるので、日本語設定になっていたのを、何度も英語にしようか?と提案したにもかかわらず、「日本語のままでいい」とその子が言ったのです。それが2回続いて、なぜなのか、よくわかりませんでした。

よく考えれば、ただ「仲間に入りたかった」「一緒に楽しみたかった」だけだったんだなと。

その子もオランダに仕事の関係で移住してきた立場でした。無意識であったとしてもその子なりに身につけた処世術だったのかもしれません。

息子が殴りかかって怒ってもその子が感情的になることはありませんでした。お母さんが迎えにきたときにだけ、自分の上着に難癖をつけるなどなんでもないことで苛立ちを表現していました。

ちょっとしたボタンの掛け違え、そしてそれは言語や文化の違いでさらに溝は深まりやすいものです。
ただだから交わらない、ということになると分断は進み、狭い世界で生きていくことになります。

私はなぜかその状況を見ると、悲しくなり、愚かに感じるのです。

先日のNVCの講座でとても素敵な表現を見つけました。
私たちの感情から無意識は氷山のようになっており、海底側には
「ダイヤモンド」
が隠れていると。

表層的な感情のぶつけ合いではそのダイヤモンドの発見には至りませんが、お互いの中にそのような美しいものがある、ということに気づいた時、カタルシスが起きます。

お友達が帰って、片付けがひと段落した時に、改めてその子の行動を振り返り「仲間になりたかったんじゃないのかな」と話すと、上の息子はスッキリしたように、いつもは選ばないような静かなYouTube動画を見始めたのでした。


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