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風をこぐ 橋本 貴雄著 /読書案内

東吉野村に住んでいる時、私たち夫婦は、超大型犬と一緒に暮らしていた。名前をエルクという。体重は、40キロを超えるが、超大型犬のなかでは小ぶりな方だった。レオンベルガーという犬種で、ゴールデンレトリーバーの顔だけ黒くしたような毛色で、普段はおっとりとしている。犬種紹介のところにも、「静穏に浴しつつ暮らす」と書かれていたが、さすがに超大型犬はエネルギーというか質量が違った。

ある日、散歩の途中でエルクが田舎の坂道を逃げ去ってしまった。「エルク~エルク~」と大声で呼び戻した。エルクが下り坂を全速で戻っきたところを受け止めようとして、正面衝突してしまった。跳ね飛ばされた私は、肋骨に少しヒビが入ったが、エルクは無事だった。痛む肋骨を押さえながらエルクが無事で良かったと心底思った。

そのエルクが我が家に来て6ヶ月が過ぎたころ、家から脱走したことがあった。近所を探し回った。ご近所の方もとても気にかけてくれて、一緒に探してくれた。日が暮れて泣きそうになりながら家に帰ってきて、どうしようかと絶望の淵を彷徨っていると、しばらくして、ヒョコッとエルクが帰ってきた。エルク~と叫びながら駆け寄ろうとしたが、なぜか腰から崩れ落ちてしまった。まったく立ち上がることができない。寄ってきたエルクを抱きしめながら、これが「腰が抜ける」ということかと思った。人生で初めての「腰が抜ける」経験をした。

レオンベルガーは珍しい犬種なのでmixi(facebookなどの前に流行ったSNS)ですぐにグループが出来た。月に一度くらいは、河原のあるキャンプ場などでオフ会が開催された。とてもいい仲間と出会えた。人生の楽しかった時を思い出すと、その傍らにはエルクがいる。
犬たちとの思い出は尽きない。犬や猫が少しでも虐められたり苦労したりする映画やドラマを見ることができない。

大和郡山の「とほん」で犬が主役の分厚い写真集『風をこぐ』があった。どこかで虹が出ているのではないかと感じるほど暖かくて優しい写真集だ。
偶然の出会いから、筆者と12年をともにした、後ろ脚の不自由な犬フウとの日々。
ゆっくりとゆっくりとページを繰る。フウを包み込むように世界が映しだされている。フウが見た世界、感じた風景、撮影者との距離、フウが不自由な後ろ足を上手く使い風をこぐように進んで行く細道。そのすべてを感じることができる。

繰るページごとに小さな物語がある。犬たちとフウの話し声が聞こえる。冒頭の福岡でのモノクロ写真は、フウの楽しそうな声が聞こえてきて、胸が熱くなる。海岸での写真を見ているとフウの「待ってー」という呼び声が聞こえてくる。ハアハアと息を切らしながらフウが「仲間っていいよね」と言っている。
福岡から大阪、東京、ベルリンへと筆者の引っ越しとともにフウの生活も変わっていく。
変わらないのは、筆者のフウへの思いと、フウの笑顔。300ページほどある写真を見終わった後には、切なさと緩やかな心地良さが訪れてくる。どこかで虹が出ているような予感がする。その虹をフウが見ているような気がする。そして私もその虹を見ている。

私たちは、愛猫を交通事故でなくしてから、ずっと犬と一緒に生活している。犬との生活が随分と長い。大型犬、超大型犬から小型犬まで、犬と出会い、そして見送ってきた。今では犬の顔を見ると幸せにしているかどうかわかる(独断ですが)。しぐさを見れば犬たちの思いが伝わる(これも独断です)。
本書のフウも様々な顔をしている。喜んだり、拗ねたり、心配したり、時に少し悲しんでいる。小さく写されたフウのしぐさからフウの息吹が伝わってくる。そっとフウを見守るように撮影された写真には、いわゆる「表現」というような強いものはない。ただフウを見守る優しい眼差しの中にフウが写っている。このことがとても心地よい。

巻末の文章を読めばフウとの経緯が簡潔な言葉で綴られている。出会いと日常の日々、そして別れが。
巻末の文章を読んでから再度写真を見ていると、だんだんと涙があふれてくる。この涙の意味が私には分からない。ただ何かがこみあげている。本当に素晴らしい犬と人の写真集だと思う。


今は亡き、我が家の愛犬
光の美しい村

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