介護で燃え尽き症候群になった話
こんにちは。久しぶりの投稿です。
私は、もともとおじいちゃん・おばあちゃんが大好きでした。おばあちゃんとは今でもたまに文通をしています。
高校生の頃は、介護士になることを当たり前のように思ってました。
介護施設で働きはじめると、やりたいことがたくさんありすぎて、忙しくてしんどいこともあったけど、ホントに楽しかった!
でも、ずっとそんなハイテンションな日々は続く訳ありません。
急に、明日のジョーがリングの端で真っ白に燃え尽きてる感じになってしまいました。その時のことを思い出して書いてます。
やりたいことができる!!
最初に働いていた特養で、同じグループのリーダーだった人に、
「グループホーム(認知症高齢者対象)を立ち上げるから、来ないか」と、誘われました。
特養でも、やりたいことが形になってきた時期だったので、楽しかったけれど、制限もあって、不満も少なからずありました。
「もっと、利用者さん主体の介護がしたいなぁ」
って気持ちが強くなりました。そんな時に、誘われたもんだから、
「これで、もっと利用者さんのための介護ができる」と、嬉しくて仕方ありませんでした。
ずっといいなと思っていたグループホームに休みの日に行って、話を聞いてどういうケアをしているのかとか、熱心にメモ。
それをまとめて、グループホームの管理者になる人に渡して、
「こういうことがしたいんです!!」と、よくプレゼンしてました。
今では、考えられない熱量と行動量。若いってスゴイとつくづく思います。
グループホームのオープニングスタッフ
念願の、グループホームのオープニングスタッフになれました。
「私がやりたかったことができる!」と、期待に胸を膨らませて、やる気は十分です!!
ところが、実際にやってみたら、何の規則もルールも決まってないから、それを決めることから始めなくてはいけません。
おまけに、ほとんどパートの主婦ばかり。正社員は私を入れて、3人だけ。
いきなり、リーダーにされて、パートのおばちゃんたちを束ねる立場になってしまいました。おばちゃんの調整でまずぐったり。
そして、とにかく夜勤が多い。2交代で月8回入ってました。
日勤は数えるほどしかないので、体力も削られます。
私のやりたかったことは、できないまま月日は流れてしまいました。
離れてみてわかるありがたみ
特養を離れてみて、自分がいかに守られているかを痛感せざる得ませんでした。特養のときは、介護の仕事のみに集中でいていました。
利用者さんの病院への車での送り迎えとか、食事の用意・洗濯・掃除など、グループホームは「自分でできることは自分でしてもらう」というテーマがあったので、建物の作りも一般家庭使用。
でも、実際できる人なんて、20人いて1人か2人。できたとしても、見守りが必要で時間がかかります。
やることが多すぎて、待てなくて結局職員がすべてやってる感じ。特養と変わりません。
「もうちょっとおしゃれに気を遣ったら?」
利用者さんのためにやりたいと思っても、夜勤で体力を削られてます。
それに、私が一番若くて、気を張って周りに気を遣うことが多かったので、精神的にも疲れ果ててました。
いつしか「その場をなんとか乗り切りたい」って、思いに変わってしまい、自分の身だしなみすら気を遣えない人になってました。
そんな時に、上司の男性(坊主でヤンキーっぽいゴリラ)に
「さっちゃんさ、もうちょっとおしゃれに気を遣ったら?」
って、笑いながら声をかけられて。
ふと、鏡をみると髪をゴムで一つ結びにしてるけど、ぼさぼさで顔色の悪いガリガリの人と目が合いました。
「あかん。終わった」
このままやったら、うつ病になる
坊主のヤンキーゴリラに身だしなみを指摘されてしまった、私。
このまま働いていたら、うつ病になってリストカットとかしだすと、思いました。早急にこの状態から離脱しなければ!!
危機感は募りますが、3年しか働いてないペーペー介護士を雇入れてくれる施設があるのかも分からないし、また病んだらどうしようと、悩みました。
そうだ、看護師になろう
そんなとき、近所に看護大学が新しくできたという記事がふと、目に留まります。
直感的に「看護師になろう」と、思いました。
社会人入試まで、あと1か月の出来事。
早急に願書を取り寄せ、慌てて、小論文と面接の勉強をしました。
そのまま、看護師になりたいからやめますと伝え、大学の入学式前日まで働きました。
まとめ
死にそうな現状を抜け出したい一心で看護学校を受けました。
動機は、不純かもしれませんが、今は看護師になれて本当によかった。
現状が辛くて、どうしようか悩んでる人がいたら、そこに無理にとどまる必要はこれっぽちもないと思います。
読んでくださってありがとうございました。