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幸せになろうとしない

瞑想をしていると、ただ座っているだけなのに、じんわりと幸せな感覚に包まれます。
これは私だけではなく、多くの方が同じようにおっしゃっています。
なぜだろう…と思っていたら、禅僧、藤田一照さんの言葉に出会い、理由がちょっとわかりました。

誰もが幸せになりたいと願って努力しています。
その努力自体が幸福を遠ざけているという皮肉なことがしばしば起きています。
釈尊が洞察したように、我々は苦しみから逃れようとして、わざわざ苦行をしているのです。
藤田一照さんの言葉

ふだんの私たちが思う幸せとは、A地点からB地点への移動が必要。
どこか向かった先にある、今こことは違う景色を見れた時、幸せがあると思っています。

例えば…
欲しかったものがない状態から、手に入った状態に
不便だと思う状態から、便利へ

これらに対する欲求があるからこそ、文明は発達し、人も成長していくのでしょう。

でも、往々にして私たちは、そのことを握りしめ過ぎてしまいます。
すると、とたんに幸せを求める道が苦行に変わります。

それらが得られていない今を嘆いたり。
得たとしても、また別なものを渇望します。

いつまでも、どんな状態でも、満足できないのです。

いつも今ここではないどこかへ向かい続けなければならず、終わりがありません。

それに対し、座っている時、私は幸せになろうとしていません。
何か身体や心に対して働きかけたり、期待することもなく、どんな状態であったとしても、ただ一緒にいるだけ。

何も求めていないのです。

求めていないから、失うこともない。
求めていないから、得る必要もない。

いつか幸福になるために今苦しいことをするのではなく、今していること自体が本当の意味で幸福でなくてはなりません。
欲望の充足は常に未来に想定していますが、涅槃静寂は足下に見出されるものなのです。
藤田一照さんの言葉

慈悲の瞑想では「私が幸せでありますように」と唱えます。

マインドフルネスを始めた頃は「私が幸せになりますように」ではないことを疑問に思ったものです。

でも、今は自信を持って言えます。
どんな人でも、無条件に今ここから幸せで在ることはできるのです。

そんな時間を少しずつ日常に広げていくため、私は瞑想を続け、学び、伝え続けています。

頂上は見えません。
生きているうちに辿り着けないでしょう。
でも、今、その道のり自体が、とても幸せです。

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