【大河ドラマ連動企画 第45話】どうする清正(加藤清正)

 今川氏真がすごく良い役どころで出ている。戦国大名という枷から解き放たれ、乱世を一人の文化人として生きてきた今、すべてのしがらみを捨て、家康の「兄」として家康の弱さを心から受け止めてやれる存在になった。かつてはともに切磋琢磨し、その後敵対し、最後は立場が逆転してもなお続く二人の友情。史実においても、今川氏真は家康と度々茶を喫したり、和歌の談義をしたりと交流している。今回の会見の後、品川に屋敷を与えられた氏真。一説には度々の来訪に辟易しわざと江戸城から遠方の品川に住まわせた、とされるが、当時氏真は京都住まいが長い。わざわざ江戸に呼び寄せたくらいなので、逆に家康は会いたかったのではなかろうか。仲良しが故の戯言の「あいつはしょっちゅう来て困る」みたいなものを記録されたのかもしれない。彼は三河家臣団と同様、家康を支えてくれる大切な存在だったのかもしれない、そう感じさせる演出であった。
 そんな彼との出会いの後で出てきた、家康から秀忠への継承のシーン。かつて1話で義元から家康へと託された、「王道」の願い。今度は家康から秀忠へと、バトンが託される。私の大好きなCOTEN RADIOのヘレン・ケラー回でパーソナリティの深井さんが話していたことがある。

 ヘレン・ケラーは盲聾者の状態から大学院卒業まで至ったのだが、彼女が障害を持ちながら成長できた偉業の前にそれにつながる無名の人々がいた。彼らの存在がなければ後の偉業はなしえなかった、と。
 歴史と言うのは時に小さな積み重ねの結果、最後のひと押しが世界を大きく動かすことがある。家康が天下を取ったのはまさしく、様々な積み重ねと言って良い。義元に学び、信長に学び、信玄に学び、秀吉に学び、その結果が江戸幕府なのである。そして正確には家康が平和を作ったのではなく、秀忠が、家光が、以降十数代の将軍と家臣が平和を作った、と言える。

 今回は秀頼の最後の忠臣とも言うべき加藤清正を取り上げる。家康が主人公のドラマである以上、どうしても扱いが小さくなってしまうが、彼は名将と言って差し支えない。
 彼が生まれたのは永禄5(1562)年。桶狭間の戦いは2年前、家康はすでに19歳である。尾張中村(秀吉と同郷)に生まれた彼は又従兄弟である秀吉の小姓として仕えることになる。彼は秀吉子飼いの武将の一人として徐々に出世していく。天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いにおいては敵将・山路正国を討ち取り、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられた。天正16(1588)年には佐々成政の改易に伴い肥後北半国19万5000石を与えられる。この際に隈本城に大規模な改修を加え、熊本城へと改築。この熊本城は後に西郷隆盛の攻撃にも耐えた名城となる。この加藤清正時代の影響は領民に残り、彼は今でも「せいしょこさん」の名前で親しまれている。文禄元(1592)年には朝鮮へ出兵。二番隊主将として朝鮮二王子を捕虜とするなど大いに活躍するが、その後の和睦か戦闘継続かを巡る方針で小西行長・石田三成と対立。石田三成の讒言により強制帰国・謹慎処分となってしまう。この直後に慶長伏見地震が発生。清正は謹慎処分を無視して秀吉の元へ駆けつけ、赦免されたと伝わる。しかしその後、秀吉の死により朝鮮出兵が終結、帰国後は徳川家康に接近。関ヶ原の戦いでは東軍として動いている。
 その後、慶長16(1611)年における二条城での会見につながるわけだが、どうやら清正はこの時、秀頼の護衛としてよりは徳川頼宣の護衛として動いていた、という説がある。ただし、その後、清正は秀頼・頼宣と豊国神社参拝、鳥羽までの見送りにも随行しており、豊臣と徳川の外交調整役として期待されていた節がある。しかし、この英雄の死は突然に訪れる。会見の直後、発病し3ヶ月後に死去した。その死はあまりに唐突であり、毒殺説まで流れるほどである。彼の死後、三男・忠広は突然改易され、加藤家は大名としては滅亡する。先に挙げた通り、加藤清正は熊本で慕われている他、豊臣最後の忠臣として賞されている。


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