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まさに街中が博物館!【鹿児島市】


はじめに

 先月、鹿児島市を探索してきたのでそのルポです。(全部で3500文字ほどです。)

 鹿児島に行くのは2回目なのですが、ゆっくり史跡を巡るのは初めてでした。

 史跡巡りをして思ったのは、鹿児島は街そのものが博物館だ!ということです。

 有名な歴史上人物たちがみーんなご近所さんで、お殿様から一介の武士・商人までバスも電車も乗らずに巡ることができます。

 街並みは全然違いますが、なんだか山口県萩市と似たものを感じました。

 萩市と違ってさすがに古地図を見て歩けるほどではありませんでしたが、街の至るところに当時の街の規格などが描かれた看板が建っていました。
 それによると、幕末と比べて区画はほぼ変わっていないようでした。

 そんな鹿児島市中心地は、偉人が多すぎて語り尽くせないほどだったので何回かに分けたいと思います。

 今回は鹿児島の中でも加治屋町(かじやまち)をメインに書きたいと思います。
(ですので写真は銅像と石碑ばかりです💦)


郷中教育について

 最初に、薩摩藩を語る上で欠かせない郷中(ごじゅうorごうじゅう)教育について説明したいと思います。

郷中教育とは江戸時代の中期から明治にかけて、薩摩藩で行われた教育システムです。
郷中というのは今でいうと町内会のような小さな自治組織でした。

その郷中では6歳から24歳までの青少年が先生の家に集まり、学年の枠を越えて同じ学舎で勉強していました。
そこでは先輩が先生から学んだことを後輩に教え、後輩は先輩から教わったことを、また自分の後輩に教えていくというシステムでした。

城南コベッツ

 早朝の座学から始まり、午前中は鍛錬、午後1番には先輩の家で読み書きや道徳、歴史を学び、夕方まで武芸の稽古(剣、弓、槍など)を行いました。

 教師はいないので、子供同士で学びつつ教え、教えつつ学びます。

 こうして朝から日が沈むまで切磋琢磨した仲間との結束力は、並ならぬものがありました。

 このような郷中が鹿児島には30あったと言われており、その1つが加治屋町です。


1.薩摩藩英国留学生

『若き薩摩の群像』作:中村晋也さん


 トップバッターは、薩摩スチューデント15名を含む薩摩藩英国留学生の皆さんです!
(加治屋町出身の方はいませんでしたが、迫力がありすぎたので載せます)

 鹿児島駅を出てすぐに目に入ります。

 なんと19人の銅像がウエディングケーキのように立っています。高さは約12m。なんて贅沢なんでしょう。

 360度どこからも見えるようになっていて、ファンサービスも完璧。抜かりありません。

 英国留学生で有名な人物をあげると、五代友厚(実業家。大阪の発展に貢献)、森有礼(初代文部大臣)、寺島宗則(電気通信の父。外交官としての方が有名?)などがいます。

 個人的に嬉しいのは、薩摩藩出身ではない通訳の堀孝之さん(長崎出身。このときなんと19歳!)や高見弥一さん(土佐出身)もいることです!

 また、駅前ということで銅像の前には路面電車が通り、さらには後ろに観覧車があるというなんだか不思議な空間でした。


2.大久保利通

 この駅前の道沿いには、もう一人有名な方が・・・

『大久保利通像』作:中村晋也さん

 通称、一蔵どん✨大久保利通さんです!

 カーニバルでも参加するかのように、背中に飾りを背負っています。厳格な大久保さんもたまにははっちゃけたいのでしょう。

 この銅像も『若き薩摩群像』と同じ中村晋也さんが作られてます。

 この台座見るからに高くて大久保さんを見上げる形になるのですが、泊まったホテルのスタッフによると「いたずら防止」のためだそうです😱

 西南戦争(西郷さん率いる士族の軍と大久保さん属する政府軍の戦い)の影響で、大久保さんは鹿児島であまり人気がないとは聞いてましたが・・・ほんとに?

 言われてみれば西郷さんの銅像は上野のものが1898年、鹿児島のものが1937年に建てられたのに対して、大久保さんのものは没後100年記念の1979年に建てられていました。

 しかもこの時、大久保さんの銅像をどこに建てるかすごーく揉めたそうです。
 駅前や城跡、県庁前などにしようとすると地元の人から反対の声が飛んでくるため、悩んだ結果現在の広場に建設することになりました。それでも不満の声は多かったとか・・・。


 ここで、『加冶屋町』の看板を発見。

加冶屋町

 路面電車の駅名も加治屋町でした!

 西郷さんというと、小説やドラマの影響で『加冶屋町』と名乗っているイメージがあったのですが、現在の鹿児島でそういった地名は見つけられませんでした。
 昔の区画なのかもしれません。

 次は井上良馨さんの誕生地を目指します。

3.井上良馨(よしか)

『井上良馨誕生地』

 あまり知名度は高くないかもしれませんが、海軍大将、元帥まで登り詰めました。

 江華島事件での勝利や、初めての日本製軍艦「清輝」の艦長を務めたことで有名です。

 ただこの石碑は誕生地と書かれているのですが、井上さんは隣の高麗町で生まれたはずなので『井上良馨成長地』の方が正しいのでは?なんて思いました。

 ちなみに高麗町には大村益次郎の暗殺を命じたと言われる海江田俊斎などがいます。

 次はどどんと大物3人いきます。

4.大山巌(いわお)

『元帥公爵大山巌誕生之地』

 「〇〇誕生地」シリーズの中では桁違いに大きな石碑です。
 文字は公爵の島津忠重(最後の薩摩藩主島津忠義の子つまり久光の孫)が書かれています。

 西郷さんの従兄弟であり、また陸軍大将として日清・日露戦争での活躍が有名ですが、私は薩英戦争のときにスイカ売りに化けてイギリス船に近付いて行ったエピソードが好きです。

 また大山さんは山川捨松(すてまつ)という奥様も有名ですね。
 捨松さんはかつて戊辰戦争で戦った会津の出身でしたが、西郷従道(隆盛さんの弟)が恋のキューピットとなり結婚しました。

5.東郷平八郎

『東郷平八郎誕生地』

 大山巌誕生地から1分もかからないところに東郷さんの誕生地があります。

 大山さんに比べ、東郷さんの誕生地は素朴なものでした。(大柄な大山さんと、小柄な東郷さんらしい?)

 東郷さんはやはり日本海海戦での活躍が1番知られてますね!日露戦争で、世界最強と言われたバルチック艦隊(バルト艦隊)を破りました。

 2人の元帥がこんな近くに・・・この辺り、『坂の上の雲』ファンや明治軍人好きにはたまらないのでは。


6.山本権兵衛

『山本権兵衛誕生地』
『山本英輔誕生地』


 第16代内閣総理大臣の山本権兵衛さんです。
 階級はやはり海軍大将で、海軍の父と呼ばれています。

 左の石碑は、権兵衛の甥の英輔さんです。(同じく海軍大将)

 権兵衛さんは今日紹介した方たちの中では1番年下なので、郷中では、西郷さんから東郷さんまで全員の教えを受けてきたことになります。そりゃタフになるはずですね。


 もうこの辺りで「加治屋町すごっ!」となって来ましたがまだ続きます。

7.村田新八

『村田新八誕生地』


 この人も加治屋町の生まれではなかったような気がするのですが・・・加冶屋町育ち、ということで。

 新八さんは幕末期はずっと西郷さんと共に行動し、薩長同盟の締結にも活躍しました。(この方の特技は和解や他藩との調整だと思います。)

 新政府では特に大久保さんに厚く信頼され、「大久保の後継者」とも言われました。

 西南戦争では西郷さん率いる軍につき、第ニ大隊長を務めました。アコーディオンが得意で、西南戦争中も常に持ち歩いていたそうです。またシルクハットも被っていたとか。

 第四大隊長の中村半次郎(人斬り半次郎としても有名です)もコートに香水付けてましたし、西郷軍はなんだかおしゃれですね。

 黒木為禎さんと伊地知正治さんを残し、時間の都合で加治屋町探索は終了。

 歴史小説家の司馬遼太郎さんが加冶屋町のことを「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである」 と著書でおっしゃってましたが、正に幕末・明治を堪能できる町でした。


あとがき
 西郷さんは加冶屋町の出身なので『西郷隆盛誕生地』の石碑があります。
 大久保さんはお隣の高麗町で生まれ、幼い頃加治屋町に引っ越してきました。そのため、加冶屋町には『大久保利通生い立ちの地』の石碑があります。

 ・・・もちろんどちらも行ったのですが、その場で当時の2人やその家族を想像したり、対立することになった明治に考えを巡らせたりしていると、感動と興奮で胸がいっぱいになり写真を撮ることができませんでした。なので肝心の西郷さんと大久保さんの石碑が出てこない記事になってしまいました💦すみません。

 当時の街並みや建物が残っていなくても、偉人と同じ場所に立つことで歴史に思いを馳せることができる。そのことを改めて認識した旅でした。

最後に、加治屋町周辺の地図を貼っておきます。あなたも1日加治屋町の郷中に入ってみませんか?

遊園地のアトラクションマップを見るような、ワクワクする気持ちで眺めていました。

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