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【着物コラム】文化の軽視は何故なくならないのか?ヴァレンティノ広告動画に見る「文化への無理解」の本質を考える



こんにちは、着物コーディネーターさとです。

既にネットニュースでも報じられていますが、
イタリアのラグジュアリーブランド、ヴァレンティノが、
日本人モデルが「帯に見える布」をハイヒールで歩く動画を公開しました。
これに対して批判が殺到し、動画を削除。
その後、公式Twitterに謝罪文を掲載する騒動に発展しました。


ニュースサイトが「謝罪」と報道した投稿は、上記のように、画像貼り付けによる謝罪文掲載のみです。
この謝罪方式、最近流行ってますよね…
「検索避けなのでは?」と言われても反論できないやり方だと思うので、
これもあまり良い対応ではなかったと思います。

また、上記の謝罪文で「このシーンで使われた布は帯ではない」と釈明されていますが、
該当する動画で使用された布には、帯の特徴である中無地(帯の内側の部分になる無地の布地の部分)があり、
これを「帯ではない」と言い切るには、少々無理があるように思います。

また、ウェブサイト等に掲載されたビジュアルでも、
「お行儀が悪いこと」とされるようなシチュエーションが度々登場します。
例えば、屋内で靴を履く、敷居を踏む、などです。
「これらのビジュアルは日本の文化に敬意を込めて作成した」
と言うには、あまりに不勉強だと感じざるを得ません。
また、1人でも製作者に意見ができる、かつ、日本のこういった生活習慣に染み付いたタブーを理解した人物がいれば、
このような事態は未然に防げたようにも思えます。


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炎上の根底にある「文化への無理解」


同ブランドは2015年にも「文化の盗用」として批判を受けています。
ヨーロッパ系人種のモデルに、アフリカ系民族のヘアスタイルであるコーンロウをさせた事に対しての批判でした。
コーンロウについての歴史的背景の説明は、今回は省きますが、
その際の経験は生かされていなかったようですね…

今回の件は「文化の盗用」とは少々異なりますが、
原因が「無理解」であった事は共通している、と私は感じます。


上記の記事内では、ボストン美術館でのクロード・モネの作品の前で、レプリカの着物を着用した上で記念撮影が出来るイベントが、
SNSで炎上して中止になった例などを例に、「文化の盗用」について解説しています。
この騒ぎがあったのも2015年です。

異文化からインスピレーションを受けた作品を発表する事をタブー視する動きが、年々高まっているように思います。
権利侵害や差別に晒されている人種の文化なら、なおさら問題視されやすい傾向がありますよね。

しかし、何度も問題になっても、ファッションブランドによる文化軽視はなかなか無くなりませんね。
2018年にドルチェ&ガッバーナが中国市場から追放されたのも、記憶に新しいです。


時系列でまとめられている記事がありました。
ドルチェ&ガッバーナは2020年の春節に、中国市場の復帰を試みましたが、
中国版Twitterと呼ばれる微博では「帰れ」のコメントの嵐でした。


排他的なハイファッションの世界の構造


ファッションの歴史を語る上で、
異文化にインスパイアされた作品で脚光を浴びたブランドの事を耳にした事がある方も、たくさんいらっしゃる事と思います。

オリエンタリズムを取り入れたファッションの先駆者として著名なポール・ポワレは、
1906年頃にコルセットを使用しないスタイルを提案し、
ファッションの世界に革命をもたらしたとされています。
簡単に言ってしまえば、服のシルエットがすごく変化したわけですよね。
「孔子コート」など、中国に着想を得た作品も多く発表しています。

ポール・ポワレは1910年代にも、動き易さと美しさを追求したファッションを次々と発表し、脚光を浴びます。
これは和暦で言えば大体明治40年前後の事です。
和暦と比較すると、どれだけ革新的な事だったのか想像がしやすいですよね。
その後の1950年代から80年代にかけても、
イヴ・サンローランやジョン・ガリアーノなどによる、異文化に着想を得たショーやドレスは高い評価を得ています。

日本では、第二次世界大戦、太平洋戦争の終結でファッションは大きく変化しました。
日本の場合は終戦がきっかけになっていますが、
経済発展のモデルは「西洋化」である、という事は
過去、旧帝国主義から支配を受けていた地域でも共通していると言えます。
他に経済発展の手段のロールモデルが無いですし。

経済や社会構造も欧米にならって発展する、という事は、
社会構造、ひいては生活スタイルやファッションも変化するという事に繋がります。
元々あった生活スタイルからの乖離により、土着の文化は減少します。
そうなればもちろんファッションも変化しますよね。
西洋のファッションが色々な土地に共有されるようになったのは、
こうした流れから見ても必至だったのだと思います。

しかし、実際のファッションの世界では、こうした変化を反映しているとは言いがたいのが現状です。
例えば、ファッションショーはヨーロッパ系人種のモデルがほとんどですよね。各コレクションに数人、アフリカ系人種やアジア系人種のモデルも起用されます。
しかし、比率としては大変少なく、ほんの数人なのが現状です。
市場の傾向としても、欧米圏の企業が欧米圏向けに商品開発を行っているのが現状なのでしょう。

繰り返し行われる、ファッションブランドによる文化の軽視は、
こういった現状が表面化してきている、
という見方もできるのではないでしょうか。


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表面化する無理解とその対応


文化への理解が伴わない、表層の部分のみを真似したインスパイアへの批判は、
そのコミュニティをまるごと批判してしまえば、とても簡単です。
「●●人が××って言って私達を侮辱した!!」
こうしてしまえば、
例えば「正義と悪」のような、シンプルな対立構造に持ち込みやすいです。
しかし、これは新たな対立を生むことに繋がりますよね。
対立構造にするとスッキリ片付いてしまうし、
怒るための大義名分になります。
しかし、それでは問題の本質から離れてしまいます。

2015年、ボストン美術館で件の騒動があった際、
私はどうしてそんな事が起こったのかすらも理解できませんでした。
しかし、時間をかけて読み取って考えてみた今、こうして振り返ってみると、
前に進んでいるのは私だけではないように感じるのです。

正直に言えば、
文化への無理解や軽視に対し、私もどうしたらいいのか分からないのが現状です。
しかし1番大切なのは、問題の本質は何であるかを繰り返し考え、
根本的解決には何が必要なのかを導き出す事だと私は思います。