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高校時代、忘れがたい情景、二つ(9/8)

スノードームの中の景色と、建物の破壊を見守る教師。

二つ、ただ二つの情景が、僕の高校時代を、暗く侘しい高校時代を、美しく仄照らしている。
二つとも高一の時だ。
下宿の門限に間に合わなかった、冬の時。
見上げた雪景色の美しさは、酷く僕をロマンチストにした。(或いは、輪をかけてそうした。)
空から、暗い夜の空から、果てなく白雪は降りてくる。吸い込まれそうだ。『帰りたい?』とも聞かれた気がした。昔から幻聴はあったのかも知れぬ。
スノードームの中に僕はいて、そこは無音以上に無音であって、雪は街を教会や伽藍のように荘厳した。
寒さに美は優り、かじかんだ手を、缶コーヒーの暖かさでぬくめた。自動販売機におつりが残っていて、それは僕への冬の恩顧として強く記憶に刻まれた。
時折通り過ぎていく国道のダンプカーや、まだガソリンスタンドだった場所の、オレンジの灯に映る雪の美しさや。
迷惑のかけ通しだったろう僕の青年時代を象徴している。あるいは僕の人生、そのもののような気もする、真っ暗で、でも真っ白な。残酷で、でも優美な。
悲しみも、少し嬉しいような、美しいような。
そんな人生を望んで生まれてきたのかもしれないが、悲しみに入り浸ることは、少し控えよう。それはここ近年の収穫。正直、悲しみに眩暈して自分を見失うことは、もう懲りた。30年かかった。少し長すぎた気もするが、もう喜びを喜ぼう。
雪は美しいまま、心は暖かい。そんな、人の世の温もりも強く知ったのだ。
高一の悲しい美景は遠景となったが、美しさだけが溶けず残っているのだ、僕の中には。それは嬉しいことだ。

もう一つ、もう一つ。
忘れ難い情景というのはあって。
僕の学年は新校舎で学ぶことになっていて、旧校舎が重機で壊されていた。ガラガラと、鉄骨を剥き出して壊れていく様を、一人の背広姿の教師であろう人が、パンツのポケットに手を入れて、身じろぎもせず眺めていた。(それが勤続の長い教師であったことは、後に、全校集会の別れの時に知った。この時のことも話していた。)
それは一種、異様な感じがして、小僧の僕に理解できない世界をその背中が物語ってくれたのだった。『大人というものは、こういうものだ』とでも語ってくれたのだろうが、当時の僕には、そのメランコリーばかり印象された観は大いにある。間違いない、若いとは愚かなことである。愚かなことが、若い特権のようなものかもしれない。長いこと旧校舎を見詰めていた教師を、少しだけ、後ろから2、3分僕も見ていたように思う。
ガラガラと崩れ、思い出と化していく。
現実とは、そういうものであると知り乍ら、それはなんと虚しいことであったろう。
今思うのは、メランコリーではなく、その教師、その校舎の歴史に対する敬意である。
メランコリーばかり吹きすさんでいた、哀しい秋のような心は、冬に浄化され、春を待つ。
今、41才。愚なものである僕にも、否が応でも年の功はついてくる。天の理に感謝するしかない。生きていて、良かったことの一つ。生は悪くない、悪いことばかりじゃあ、ない。
教師は知らず知らず、僕に大きな贈り物をしてくれた。僕も同様になりたい。徳高く生きる、その効用を僕は知った。それは自己と世界を利益する。優しい力が、徳それ自体にある。徳高く生きる人生として、僕は世界に僕を贈ろうと志す。

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