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古池に飛び込む蛙は何匹か

先日、とある方とお話していた時。

松尾芭蕉の俳句「古池や蛙飛び込む水の音」が話題となりました。

俳句って言葉からいろいろなイメージが広がるけど一人一人浮べる画像はそれぞれ違う。

でもそんな多様性があっても五七五の文字にしゅっと収まるって面白いね。

そんな話しをしていたら、

その方曰く。

スペイン語学校に行っていた時、スペイン人の間でこの句を巡って解釈の議論があったんですよ。

その議論の論点は、、、

いったい『蛙は何匹だったのか』

スペイン人の方々の解釈は「複数の蛙」が古池に飛び込んだことで決着したそう。

その解釈に日本人達から、「いやいやそこは1匹じゃないの?」と総ツッコミがあったとのこと。。

私も、え? そこ議論になるところ?

と、ちょっとびっくり、のけ反ってしまいました。

やっぱり小さな一匹の蛙が古池にぴちょんと小さな音を立てて飛び込み、、波紋が静かに広がって行く。。

そんな静寂の中、遠くで鹿おどしがカコンと鳴った、、的な風景でしょ。

複数の蛙が飛び込んで行くってあなた、、侘び寂びの世界では。。。

とはいえ、ちょっと気になってあれこれ調べてみると、グローバルでみた時、どうやら「一匹」とはいえない面白い世界が広がっていました。

俳句は「Haiku」として世界に広がっています。

アメリカ俳句協会(Haiku Society of America)とか、英国俳句協会(British Haiku Society)とかがあるくらいで、海外の方も短い詩として結構楽しんでいるようです。

日本の様々な有名な俳句も英訳されていて、芭蕉のこの句も当然英訳されています。

しかし、面白いのが「蛙」の訳が、単数形の”a frog”なのか、複数形の“frogs”なのかで翻訳者によって違うところ。

例えば、日本文学に精通した2名の英訳。

【ドナルド・キーン訳】
  The ancient pond
  A frog leaps in
  The sound of the water

【小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)訳】
  Old Pond - frogs jumped in - sound of water

あの、日本文化、侘び寂びの情緒にも馴染んでいたであろう、ラフカディオ・ハーンがなぜ複数形の表現にしたのか。

何か意図があったのだろうか。

この句を通してどんなイメージを描いていたのだろうか。

そして、当然、「一匹の小さな蛙が池にぴちょん」だよね、という私のイメージは、侘び寂びと言いつつ、思考の前提として持ってしまっていたステレオタイプ的なものの捉え方なのかもしれません。

また「春」と「Spring」のイメージの違いもあるかもしれない。

ヨーロッパの冬は、一日中雲が天を覆い、どんより寒く暗い日々。

しかし、春になると明るい日差しが差し込み、一気に解放された雰囲気の中、生命の芽吹きを感じる日々となる。

蛙は春の季語。日本の春のイメージは、他の季語となっている「朧月夜」、「麗らか」、「霞」、「春雨」などをみるにつれ何か柔らかく茫洋とした感のある季節感。

一方で、”Spring”(春)の語源は、古英語のspringan「跳ぶ、飛び上がる、跳び跳ねる」。また別の意味の泉や水源については「突然湧き出る」、また「飛び上がる、広がる、成長する」を意味していて、動きのある溌溂としたイメージ。

西欧の「春」は、生命の始動、躍動感を実感する季節なのかもしれない。

となると、一匹の蛙が池にぴちょんと飛び込む静寂さではなく、数匹の蛙が池にジャンプ・インする躍動感のあるイメージも十分成り立つ。。

スペイン人の方の解釈を「それは違うよ~」とツッコミを入れるのではなく、

「へぇ~、それ、めちゃ面白いね。何匹?どのくらいの大きさ?どんな色?飛びこんだときはどんな音?」。。

などと、フラットに聞いてみたら、想像もしていなかった風景に出会えるかもしれない。

それでも、そんな豊かで多様なイメージの世界が、五七五の日本語の「文字」、あるいは英語の短い「文字」に収まってしまう不思議さと面白さ。

言語の構造の違いによる発想の違い。

また、その土地の風土、感性による違い。

その違いもまた楽しみつつ、俳句はHaikuとして広まりながら、その違いもまた包摂してしまう。

もしかしたら、日本文学としての俳句は、”Haiku”として、お互いのイメージ交換コミュニケーションツールとして”Diversity & Inclusion”の先端を行くGlobal literatureとして再構成できるのではないかと思いました。

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