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ヴィーガンとヴィーガンじゃない人の争い

僕がヴィーガンになってから2ヶ月が経ちました。
その期間たくさんの人と話をして見えてきたことは、
ヴィーガン VS ノンヴィーガンという対立。

僕はヴィーガンとしての期間が短いのでまだまだ知らないことはたくさんありますが、
まだどちらの気持ちも理解できるうちにその対立を理解し、緩和させたいなと思いnoteにまとめることにしました。
(話は広がり壮大になっていきますが、ぜひ最後まで読んでいただきたい🙏)

この問題はヴィーガンという思想が広がり始めた時からすぐに始まった長い長い戦いです。
誰1人戦いたいとは思っていないのに、なぜか戦ってしまう。
その原因はすれ違いからきていると僕は思います。
同じ内容を話しているはずなのに、論点がどんどんずれていってしまう。
たった2ヶ月でその違和感をビシビシ感じました。
どちらが正しいとか。どの意見が強いとかじゃなく、論点がずれているんです。
少しづつお互いの主張を見ていきましょう。

ヴィーガンとはまず何なのか

ヴィーガンとは・・・動物性の素材を摂取、消費しない人。よく驚かれるのが、甲殻類や魚介出汁、蜂蜜、毛皮、革財布、白砂糖(精製に動物の骨を使用)など。また、化学添加物、農薬のような、動物実験の上に成り立っている商品は使用しないなど、人によってボーダーラインは違ってきます。
(その他のヴィーガンの詳しい種類などはこちらを参照ください。
http://www.ethicalvegan.jp/vegetarianism/)

ヴィーガンという考え方を知る上で大切なのが、色々な考え方の人達を総称して「ヴィーガン」と呼んでいることです。
色々な考え方、種類、キッカケがあり、動物性のものをやめた人たちがいるのです。
本当に様々なので、ヴィーガン全員がそうとは言い切れませんが、僕の出会ったヴィーガン達が重んじることの中に「エシカル(倫理的)」というものがあります。
倫理という正解のない考えがまた事をややこしくさせている気もしますが、わかりやすくいうと

「言ってることとやっていることが違うじゃない」
「人道的に、道徳的にその行いはどうなんだろう」
「現状のままだと未来が危ない」

ということです。
中心にある考えやキッカケを僕なりに分類分けしてみました。
4タイプに綺麗に分けられるというわけではなく、あくまでも中心。別のタイプだけど、ヴィーガンになったことで健康にもなれた等、いくつも理由があってやっている人もいます。


環境保全系
家畜の飼育による空気汚染、加工の環境負荷は排気ガスと同じと言われています。それだけでなく、家畜達の排泄物は水質を汚し、家畜を育てるために森林を伐採。抗生物質やホルモン剤を投与することでの人間への被害、人獣共通感染症、飼料のために大量の穀物を育て土壌劣化。家畜にあげている水や穀物を人間が摂取すれば世界の飢餓は救えるとも言われています。

世界の人口と同じ数の牛が飼育されているらしいので、牛、馬、豚、鶏、羊などを合わせると余裕で人口を上回ります(鶏に関しては人口の3倍常に飼育されている)。皆さんの思っている以上の家畜が世界にはいて、地球の恩恵を吸い取っています。でもそれは動物のためではなく、消費をしている人間のため。
人間の「肉を食べたい」という欲求のために、地球をボロボロにしているという現実があります。
魚も例外ではなく、大量に魚を捕獲しすぎて海の生物はものすごい速さで減り、生態系を崩しています。養殖も然り。
環境保全系のヴィーガン達は、自分たちが動物性のものを断つことで環境保全に貢献したいと思いヴィーガンになっています。

動物愛護系
家畜の飼育法、動物実験、動物捕獲など、人間のエゴで生態系を崩している現状を止めたいと思いヴィーガンになったのが、動物愛護系だと思っています。無理やり妊娠させられ、3ヶ月に一回ほどのペースで出産させられる豚。20年生きるはずの乳牛は6年で殺され、そのうち3回は妊娠させられます。ほとんどの家畜が身体と同じ大きさの檻で一度も出ることはなく一生を過ごします。ご飯も出産も排泄も人間のシングルベットよりも狭い場所。遺伝子は人間の都合に合わせて弄られ、ご飯も人間都合。どれだけストレス性の異常行動を起こしても、ツノやクチバシを麻酔なしで切り取ったり、フル無視をかましたり。
生き物として捉えているのではなく、物として扱っています。学校で命の大切さを習ったはずなのに、おかしすぎる。
そんな理由からヴィーガンになった人もいるのです。

自己健康系

アレルギーや食品や素材との体の相性からヴィーガンになった人もいます。日本人の3人に2
人は牛乳が合わないなど、人によって合う食材合わない食材があります。合わない食材を無理やり摂取しても大して体には反映されないので、その栄養素を別の食材で補います。
実際僕もヴィーガンになってみて、肌が綺麗になったり、よく眠れるようになったり、体が軽くなり仕事の効率が上がったりとメリットをたくさん感じています。
西洋医学のみの考え方に納得できない人や、化学添加物の影響からという人もここに含まれます。
化学添加物や農薬などの有害性は年々重要視されてきていて、発癌性、アレルギー、味覚障害、アトピーや喘息など、さまざまな報告があがっています。
食品に着目し、食品の作られ方、加工の仕方を追っていくうちに家畜の育て方や農薬などの害を知り、エシカル消費(倫理的消費)を心がける人も多いですよね。
さらにグルテン(小麦)を避ける人や、生姜、ニンニク、ネギを避ける人もいるそうです。それぞれちゃんと理由や想いはあり、信念のもとに動いています。

宗教系
ここあまり詳しくないのですが、仏教やイスラム教の宗教上の理由からヴィーガンになっている人もいます。

ヴィーガンの想い

ほとんどのヴィーガンが、世界の動きや現状に違和感を抱き、動き出した人たちということが伝わったでしょうか。
よくある誤解は、「オーガニックが好きだから」「動物性は体に良くないから」と表面だけをみられてしまい、融通の効かないやつ、自分で自分を縛っているやつと思われがちです。
案外当人達は、縛りなどは感じていません。
僕が出会ったヴィーガン達は、野菜の可能性を引き出す喜び、環境問題に参加できている喜び、社会貢献できている喜び、体が軽くなりデトックスされ循環していく喜びを感じている人たちしかいませんでした。
スーパーで買えるものが減ったり、値段の高いオーガニック食材を買うことに関しては、特に悩んでもいません。そこまでお金はかからないし、自然食品は栄養豊富で無駄が少ないものも多いのでコンパクトに生活ができて結構楽なんです。
お肉や添加物から離れるとスーパーで一気にまとめ買い。みたいなのも無くなり、エコバックがパンパンにもならなくなりました。

ノンヴィーガンの想い

よく言われたのは、
「押し付けないでほしい」
「理解できない」
「私には無理」
「過激派な人たちいるじゃん」
という言葉。
その言葉が、ヴィーガンとの話の論点をずらしてしまっているのかもしれないなと思います。
実際僕もヴィーガンになるまでは、
「なんて面倒な人たち」
と思っていました。「食べたらいいじゃん。」「こっちの労力も考えてよ」と。
それが押しつけに感じてしまうのも良くわかる。
でも、僕はその奥にある理由までは一度も聞いたことがありませんでした。
勝手に「健康上の理由だろう」とか「宗教からかな」とか決めつけていたんです。
「どうしてヴィーガンになったの?」
「何かきっかけはあったの?」
そんな言葉を僕がかけられていたら、もっと早く世界の違和感に気づけていたのかなと思います。

僕はある日突然ヴィーガンに変わったので、それを不思議に思った人たちがたくさん質問をしてくれました。でも、大半の人はヴィーガンの人に出会った時、どうしてヴィーガンになったのか質問はしないでしょう。

僕に質問をしてくれた人たちの反応は、「考え方は様々だからね」と、言ってくれます。でも、その言葉はどういう意味なんだろう。と、最近思います。
「環境について私は全然考えていないし、これからも考えるつもりはさらさらないよ。」と言ってくれたらもう少し話がしやすくなるのですが、考え方は様々だからね。というコメントに、すごく壁に感じてしまいます。
実際エコロジーという問題が世界的に重要視され始めてから40年くらい経つんじゃないかな。でも、普通に生活できてしまっている日本。
「まだまだ危機感は持てないんだろうなぁ。」と、ヴィーガンとして勝手にノンヴィーガンたちの意見を想像で決めつけてしまっています。
相変わらずヴィーガンとノンヴィーガンは話し合いが少なすぎる。

知ってしまった人達

ヴィーガンとノンヴィーガンの違いは、「現状を知ってしまったかどうかなのかな」とも感じます。
情報社会なので何が本当で何が嘘かはわからないと言いますが、だからといって全てが嘘とは思えません。僕のヴィーガンになった時の感想は「知ってしまった」でした。

ノンヴィーガンの人たちからたくさん質問をされて答えるとほとんどの情報をみんな知りませんでした。
地球温暖化=車や工場の排気ガスくらいに捉えていて、根深い問題や地球環境の現状、家畜についても知らない人がほとんどです。

確かに世界の問題は重たい。もっと楽しみたい気持ちも良くわかる。でもそれを知った上で楽しむことだってできるんだ!と、ヴィーガンの人たちは叫びます。だからこそどんどん情報を吸収したいと思うし、発信もしていこうと思えます。

まずは現状を知ってほしい、聞いてほしい、調べてほしい、教えてほしい、吸い込んでほしい。その状態になってから、これからどうしていくのかを考えてみてほしいよ。とよく思います。

もっと他のやり方でもできるんじゃないの?

「押し付けないでほしい」というノンヴィーガンの主張に、「もっと他のやり方でも環境について考えることができるんじゃないの?」というものがあります。
「ヴィーガンしか道はない。ヴィーガンこそ全て。ヴィーガンにならなきゃ意味がないとまで思われている!」と。
ごもっともです。一瞬そんな気持ちになったりもしました。でもいまはそこまでは思いません。

実際ヴィーガンとノンヴィーガンで、環境負荷という点でみると違いはありますが、
ほとんどのヴィーガンはこう思っていると思います。
ノンヴィーガンの人から
「たくさんたくさん知った上で、あえて今の選択をしているんだ!私はこんな方法で生きていくんだ」と強いプレゼンテーションを受けるとヴィーガンたちはちゃんと納得ができると思います。
知らないということ、考えないということに疑問を抱いてしまうんです。

確かに、知らないでいる自由、考えない自由はある。それも人権だと思う。
でも、それによって周りに被害が出ているのはやっぱり違うんじゃないかと思います。

そして最初にも書いた通り、人間の毎日の食事によっての環境負荷は相当なものです。確かに他のやり方があるのかもしれない。アニマルウェルフェア(動物が生まれてから殺されるまで自然的で幸せに過ごさないといけない)という考え方もあります。
「とにかく今すぐこの問題に何かアクションを起こさないと未来は暗いんだよ」とヴィーガン達は伝えたがっています。

肉は栄養素として必要でしょう!

これには僕はなんとも言えません。でも実際、15年くらいヴィーガンとして生活している人たちを何人も知っているので、絶対に必要とも言い切れない。ヴィーガンのトップアスリートもいるし。まあ、栄養素のことをよく考えてご飯を食べるようにはなりました。
ただそれは、ヴィーガンとか関係なくずーっと昔から言われてきたこと。それをやってるだけとも言えます。
あとは、人生の目的によると思います。僕はもともと長生きしたいとも思わないので、弱って死んじゃっても特になんとも思わないかな。
病気の対処法も、薬が全てではないと思うし。

ちゃんと栄養を考えた食事、適度な運動、十分な睡眠をしていれば病気になりにくいことは全国民が知っていることです。
それはヴィーガン、ノンヴィーガン、関係ないですよね。お肉を食べているから健康とか。そこはまた話が違うかと。
実際動物性のものを摂取すると一気にたくさんの栄養が取れるのも事実。
「限度ある最低限のお肉を動物から食べさせてもらう」くらいが今世界が向かおうとしている位置なんじゃないかと思います。
果たしてその量はどれくらいなんだろう。
僕は週一でお肉を食べるくらいがちょうど良さそうに感じるけど。

食を楽しんでほしいという想い

これも結構言われます。
「唐揚げ食べたいと思うでしょ?」
「これも食べられないなんて損してるよ」

僕は、ヴィーガンになってから3週間くらいしてから動物性のものを食べるとめちゃくちゃ気持ち悪くなりました。もう体は動物性のものを必要としてないんだと感じました。
そして、動物性の食材の搾取、加工の仕方を知れば知るほど、「そんな犠牲の上になりたったものを食べたいとは思わない」と思います。

少し話はずれますが、
頭(情報)、心(感情)、身体(摂取)。この3点が人間の健康を守っているという考え方があります。
そのバランスがとても大事で、
唐揚げを食べたいと思うのは頭です。美味しいと言っていた記憶があるから。でも、僕の心はもう嫌と思っていて、身体も今は受け付けていません。
それを無理やり頭が指令しているからと食べるのは違うんじゃないかと思います。そんな状態で唐揚げを食べることは本当に食を楽しんでいると言えるのでしょうか。
頭も心も身体も食べたいと思えるものを食べるのが、食を楽しむことなんじゃないかと僕は思います。

ちなみに現代の人たちは大体、頭と心でご飯を食べます(ほぼ頭)。頭が安いと言うから、頭がうまいと思っているから。
あとは心が、貰い物だからと食べることも(周りが食べているからも)。
それに身体は本当に振り回されていて、必死で細胞が駆け回ってくれています。食後に胃もたれしているのに胃腸薬で心を軽くしたり、お腹がゆるくなっているのに牛乳を飲んだり。気持ちよくなりたいからお酒をたらふく飲んだり。
食前は頭でしか判断できないので、そういう食生活になってしまう気持ちはもちろんわかりますが、もう少し食後の身体の意見も聞いてあげてほしい。

実際僕も、ネギトロが美味しいと感じていた記憶や、化学添加物の入ったお菓子を美味しいと感じていた記憶もあります。
でも、食後のことまで考えると手は止まります。今の身体でネギトロを食べたらすごく嫌な気持ちになるかな。すごく気持ちわるくなるかな。と、身体にちゃんと質問をしてから食べるものを選ぶようにしています。

動物は許しをくれているという考え方

「動物は何も考えていないよ」
「動物は案外受け入れてるらしいよ」
確かにそうかもしれない。僕たちには動物から言葉で気持ちを聞くことはできません。
でも、だからいっか!とはならないですよね。
甘えるタイミングがすこし早すぎるんじゃないのかな?
ぞんざいに扱って良い理由にはとれないなあと。

地球上の生物の生態系の1番上に人間がいるという考え方は古来からあり、格下だと思っている動植物からたくさん搾取することで人間は繁栄してきました。
この長い歴史が生んだ現状が今です。これからもそのヒエラルキーを守っていくのでしょうか。多様性や格差を埋める動きが多くなってきた近年。それは人間だけの問題ではないのかと僕は思います。
そして、そのヒエラルキーはしっかり人間の首を絞めていますよね。

地球が温暖化しても生きていけるんじゃないの?

僕は結構生きていけると思います。なんだかんだで人間はしぶといので、僕たちが寿命を迎えるくらいはいけると思います。
動植物が先に結構なダメージを受けるんじゃないかなぁ。たくさんの動物が絶滅し、森が無くなり、天候が荒れ。それでも人間は生きている。
そんな未来は本当に幸せなんでしょうか。
たくさんの動植物、細菌によって支えられている人間の生活。そのありがたみに全人類が気づいた時にはもう何も残っていなさそうですね。
さて、どんな未来にしていきますか?

優先順位の違い

ある時友人と話していて、僕の話と相手の話の温度の違和感の正体がわかりました。それは「優先順位」でした。
僕にとって「地球環境を良くしたい」という思いは何よりも一番上にいます。自分の命も差し出せると言っても過言ではないのかもしれない。
友人の優先順位は、「仕事」や「趣味」、「今の幸せ」などが上にあり、「地球環境を良くしたい」はめちゃくちゃ下でした。昔に比べるとエコやサスティナブルという言葉を知ってるだけでも優先順位は上がっている方なのかもしれない。

よく聞くもので、「今の生活は変えられないから」や、「仕事が忙しいから何もできない」というもの。
でも、みんな買い物はしていて、生活はしていて、食事をしているんです。
普段の生活も選択の連続です。買い物も選択。献立を考えるのも選択。お菓子を食べるのも選択。掃除の仕方も選択。
現状を変えるということは、新しい何かをしなければいけないと思っている人がほとんどです。
でも今現在も日常生活で常に選択を繰り返しています。
その選択肢に地球環境のことを考えた選択を増やすだけでいいはずなんです。

新しい選択を嫌がる人もいます。
でも、新商品が出たらチェックする選択の労力と、サスティナブルかどうかを判断する選択の労力はそんなに違いますか?
なぜか地球環境を良くするのを怖がる人もいます。のめり込んじゃうんじゃないか。後戻りできないかもしれない。周りに流されちゃうかもしれない。
なんでのめりこんじゃいけないのかよくわかりませんが、
新しい趣味を始めることよりももっと簡単なことです。今使っている洗剤がなくなったら、自然由来の海を汚さないものに変えてみる。ペットボトルの商品を買うのをやめてみる。お弁当を持ち歩いてみる。化学調味料無添加の商品にかえてみる。
優先順位を何よりも引き上げろとは言いません。でも、もう少し日常の選択に意識を置いてみることで、少しづつ優先順位が上がっていくと思います。

僕は生まれた時からサスティナブルを考えていたわけではありません。ヴィーガンになったのも2ヶ月前。3ヶ月前にはまだコンビニのコーヒーを使い捨てカップで飲んでいました。
でも、ある日からその選択をタンブラーを持ち歩くという選択に変えてみただけです。
もうここまで来ちゃっているから、進み続けるしかないという思い込みは捨てましょう!
まだまだ道はある、変われる、できることはたくさんある。
まずは1つ、何かのいつもの選択を変えてみましょう。

ノンヴィーガンは悪じゃない

ここまで読んで、ノンヴィーガンの人はすこし攻められたように感じたかもしれません。
「なによ!私だって頑張ってるんだから!」
ほんとそうです。頑張っていない人なんていない。
全員が精一杯生きてる。正しい人なんていない。
頑張っているところを否定したいんじゃなくて、その頑張りの方向を少し変えてみませんかという提案です。

よく言います。
「頑張っていても、周りが見えていないと意味がない。」
「周りに迷惑をかけていたらやらない方がマシ。」
これは環境問題にも言えると思うんです。
あなたの頑張りはもしかしたら、別の国の誰かが苦しむ原因になっているかもしれない。

もしチョコレートを作るのが大好きで、チョコレートを使って世の中を幸せにしたい人がいるとします。
本当にその活動は素敵だし、応援をしたい。
でもそのカカオを、超低賃金で働かされている人たちのところから買っているとしたら、その活動ははたして本当に幸せな活動と呼べるのでしょうか。
世界中のどこからでも物が買えるようになったからこそ、こんな問題が出てきているんです。
もし、カカオを1箇所で育てることでその地に雨が降らなくなり、その地に住む人たちが苦しんでいるとしたら。。。

もし、町おこしをするためにイベントを企画したとして。
そのためにたくさんのチラシを印刷したとします。その紙はどこからやってきた紙でしょうか。南米の森林を切り裂き、地球の天候を荒らしているその紙でしょうか。
たくさんのお客さんがお金と共に落として行ったゴミは、どこへいくんでしょうか。自分たちがPRしている場所を一緒に汚していませんか。
美味しいと言ってくれていたご飯に入っている化学調味料が海や川へ流れ出て、水質を変えてしまっていませんか。。。

これは、わかりやすくカカオや町おこしで例えているだけで、こういう問題は本当にたくさんあるんです。
自分たちの知らないところでどんなふうに作られていて、その場所はどんな問題を抱えているのか。
そんな見えない問題をもっと見ていかなきゃ本当の幸せ、本当の平和は成り立たないんじゃないかと思います。

だから、ノンヴィーガンが悪いのではなく、今一度食や生活、活動について考え直してみようと、僕は言いたいです。

戦うヴィーガン、諦めたヴィーガン、フレキシブルなヴィーガン

すごく戦っているヴィーガンの人、ヴィーガンが続けられなかったと言っていた人、家では菜食しか食べないフレキシブルなヴィーガンなど、色々な人がいます。
結構みんな疲れてる。というか、周りに発信することを諦めている人が多いです。あとは慣れすぎてその溝に何も感じない人も。
それをみて元気を出して!と僕は伝えます。結束をしたいわけではなく、あのフレッシュな気持ちを忘れないで!と。
僕も最近なんでヴィーガンになったのか説明し疲れてきています。
「答えたところでみんな全然変わらないじゃん。ぼくは活動をしていきたいからこれからも答え続けるけど。」という、黒い感情も。
これ良くないわぁ。
伝えるのが下手なだけなのにね。
なにも変わらない説明だけの毎日に疲れちゃうんだろうなぁと思いました。

僕は直接話すのは少し抑えて、方法を変えてみようと思っています。
楽しい楽しいと思っていたら、なぜか環境負荷を減らしてた!
そんな方法を編み出したい!!✨

ヴィーガンは愛で成り立っていると思う

これは確実に個人的な意見ですが、
ぼくはヴィーガンは愛でしかないなと思います(僕の周りでは、が正しい表現かもしれない)。
僕個人のヴィーガンとしての意見は、
「肉を食べたいなら全てを知ってから食べて欲しい。でも、何も考えずに食べている人たちも地球環境問題から解放してあげたい。動物たち全員が幸せになってほしい。地球の植物、水、エネルギー全部が幸福になってほしい。地球自体を幸せにしたい」と、結構本気で思っています。

細かく言うと、幸せかどうかは結構どうでも良い。そこは本人の自由。でも、愛は誰しも受け取る権利があると思います。そのクラウドみたいなところにむかって僕は愛を注ぎ続けたいと思います。
もちろんそれは循環して、自分にも返ってきますが、それよりもそうやって注いだ愛で幸福を感じる人たちを見ると本当に喜ばしい気持ちになるから。
その一つの手段としてヴィーガンを僕は取り入れました。
この愛を受け取る受け取らないは別として、僕は地球という星全体に愛を注ぐというのが、今1番やりたいことです。

全員楽しまなきゃだめ

結構長く書いてきましたが、
結局のところ、僕はここが1番大事だと思っています。
もしも、全人類がヴィーガンになって、地球温暖化が回復して、サスティナブルな世界がついに実現したときに、人類全員が暗い気持ちで過ごしていたら、そんな人類滅んだらいいと思います。
全員が何かを我慢して時間を過ごすだけの退屈な世界を誰が求めてるんでしょう。
苦しんだ先に明るい未来が待っているという考えもありますが、今の人類の数ではちょっとそれは無理そう。またぶり返すに違いない。

サスティナブルとは持続可能ということ。一時的な改善じゃだめなんです。永久的に循環できるシステムにしないと。
そのためにはまず、精神的に楽しんでいる必要があると思います。
我慢と思うとしんどいようなイメージがありますが、実はしんどくない我慢もあるんですよ。
それは、結果から見えてきます。

ノンパッケージの商品だけを使い、ゴミを全く出さず、環境負荷を極限まで抑えたご飯を作れた時は、僕は最高に気持ちがいいです。すごく幸せな気持ちになります。
マイボトルやマイ箸を持ち歩くのもその幸せにのためにやっています。
この割り箸を使わなかったことで、地球に少し恩返しできたかしらとすごく嬉しい気持ち、清々しい気持ちになります。

それが習慣になって当たり前になったらその清々しさは感じられないの?と思うかもしれないですが、
そんな当たり前の習慣からまた別のことに気がつくんです。人と会話する楽しさ、環境負荷について学んだからこその環境負荷の少ないアイディア。そしてそれをまた共有して、その輪を広げていく喜びにもなります。
ヴィーガン、ノンヴィーガン関係なく、今を動植物も含めた全員で楽しまなきゃだめ!そんなおもいが僕の根底にはあります。

重たい問題に笑顔で参加するのはすごく驚かれるとは思う。でも、よく考えてる笑顔と何も考えてない笑顔の違いなんて一瞬でわかる!

正直、もう何が環境負荷で何が環境負荷じゃないのかわかんなくなります。
今流してるスピーカーの電力はどれくらいなの!?これはどれくらい環境に負荷がかかっているの!?
もう全然わかりません。
もしかしたら実はこれがめちゃくちゃ環境負荷かもしれない。それに気づいた時に落ち込むというのはするつもりはありません。自分を責めもしない。
「え!!??そうだったの!!??ごめん!!!本当にごめん!!知れて嬉しい!!なんかいいアイディアある!?もはやアコースティックギター始めてみようかな!!笑。だれかアコースティックギター貸してよ!!」
これは我慢だけど我慢じゃないんですよね。人や動植物、環境のために生活を変えるのは、愛でしかないからめちゃくちゃ楽しくて嬉しい。

ヴィーガンくらいじゃ終わらない世界の問題

ヴィーガンは人間の食べる食品の話。世界にはまだまだ問題が山積みです。プラスチックや石油の問題。電気やガス、水などのエネルギーの問題。貧困、飢餓、フェアトレードのような人権的問題など。海の問題もたくさんあるし、雨、森の問題も。もちろん戦争も。

1つの問題を深く知ると、いつのまにか別の問題の情報も入ってくるものです。
問題はたくさんありますが、これから僕なりに勉強し、考え、行動、発信をしていきたいなと思っています。

地球という星を選んで生まれてきた全人類の人たちが、もっと地球に愛を返せるように、僕はその先導を切っていきたいと思います。

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