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愛は自分の心を差し置いて

昨日、急に兄から電話がかかってきた時、私は運転中だった。
「大事な話がしたいから、ビデオ通話にしてほしい。」と言われて、そんな映像を見ながらする大切な話なんて、いつも気さくな兄が
痩せた姿を見せてくるか、何か大きな怪我をしたか、美味い酒を飲んでいるか、家族団欒な姿を見せたいか、のどれかだろうなとクスクス予想しながら
いつもより気持ち急ぎめで、帰宅後、車から降りて家に入った。

ビデオ通話を繋いだ先にいたのは、まるで梅干しみたいな変顔をしている兄と、覗き込む母の顔。私が最近、精神的に参っていたのを心配してかけてくれたんだろう、ということはすぐわかった。元気なの?と聞かれたので、「元気になってきたよ、今日は髪も切ってきたよ。」と伝えた。

私の家族は少し変わっている、というか割とオープンな家族で、兄弟とはいつ母と父が離婚してもおかしくないな、とよく話す。別にとても仲が悪い家族というわけでもないし、家族LINEグループでもよく会話が飛び交うような家族だが、親には親の生きる権利があり、もう末っ子の私が24歳を迎えた今、親には親の苦労があることを自覚できている、という感じだ。
「大切な話って、もう離婚するとかそういうこと思ったよ〜」と私がいうと、兄が爆笑しながら「どんだけお母さんたち、信頼ないっつや(ないんだよの宮崎弁)」と言いながら、お母さんから「離婚だけは絶対しないから、安心して笑」とそんな会話を交わした。今日も愉快な佐藤家である。

大切な話の内容は、母親の親族が自殺したという話だった。もともとその人が精神疾患を抱えていて、病院に通っていたり、お母さんも気にかけていたのは知っていたし、重度のうつ病だとは話を聞きながら理解していたので、
死にたいと言っていた言葉が現実になったんだ、というのが、話を聞いて真っ先に感じたことだった。人は、本当に自ら命を絶つ。

その話を聞いたのは昨日のことで、亡くなったのは5月下旬のことだった。約1ヶ月間何も知らなかった。話を聞いてみると、春ごろから何度か睡眠剤の多量摂取や首を吊ろうとするなどの自殺未遂があったり、病院に入院したり、ということがあったので母自身も、もうギリギリだったんじゃないかな、と教えてくれた。
自分の大切な親族を亡くした母の、いつものように丁寧に優しく表現された言葉。その言葉を確かに受け取って、返す言葉など見つからなかったが、そこにあったのは私がいつも尊敬する母の姿だった。

亡くなってからのこの1ヶ月の間に私は24歳を迎えていた。誕生日には、毎年必ず、家族からメッセージが届く。母からは「お誕生日おめでとう、通帳にお祝い振り込んでるから、何か欲しいものを買ってください」ときていたので、何に使おうか悩むな〜!と返すと、「ワクワクしながら、考えてね。」と母から返信があった。結局、小顔上半身整体コースのサロン代などに使った。

最初にも少し書いたが、24歳を迎えてからの1ヶ月は、私が精神的に参っていた。人間付き合いにも、食事にも、暮らしにも、後ろ向きになり、これまでも落ち込むことはあったとはいえ、人への怒りの気持ちに押しつぶされそうになっていた。この怒りの感情は前にnoteにも書いたが、なんせ感情的になって苦しんでいたので、人への共有の仕方がわからず、母にも相談せずにいた。
インスタのストーリーの投稿が減り、LINEの返信が途絶えた私を心配して母からは「心配です。」「ものは食べれてるの?」という連絡がたびたびきていた。無理に頑張ることはないよ、と言ってくれた。

親族が亡くなった後、電話で私がそのことを知るまでの1ヶ月、母の気持ちはどこにどうやって存在していたのだろう。大切な親族が亡くなった後にも関わらず、私の誕生日を祝い、私を心配してくれる、その時の母の心情がどうであったのかは聞いていないから分からないけれど、
自分ではない他人に心配る、その愛の強さというか、心のしなやかさに、私は胸がいっぱいになって涙が止まらなかったし、今この文章を書きながらも、LINEの文章を振り返りながらも、涙がつーっと出てくる。

生きることが辛くなったときに人が本当に死を選ぶことも、想像しても想像しきれない母の心情も考えていたら、家族との電話を切った後、どうも眠れなくなり、友達に電話をかけた。通話中のため応答できません、という内容が表示され、結局、電話に友達は応じなかった。その友達には本当に私の勝手な事情も含めて悪いと思っているが、電話に対するメッセージが返ってこなかったことに、正直、心の中が冷えていくのを感じた。

母から親への心を配る方法と、友達から友達への心を配る方法、その重要度に違いがあることは当たり前だと思うが、総じてそのような「愛」や「気遣い」「心配り」には平等に与えられている時間や大きさの決まっている心の器のようなものをどれだけ相手に割くことができるのか、という部分が私にとっては重要だ。相手が自分の時間を割いてくれているから、心の容量分をこちらに充ててくれているという実感があって、はじめて「大切にしたい」相手になるのだ。

これまで、この価値観のもとでメンヘラのような気質、というか、わがままというか、相手が自分に何をしてくれるのかで愛情を計りがちだということまでは分かっていた。
しかし、はっきりと分かったのだ、私が幼い時から受け取っていた愛情の前提に「母が自分の心よりも優先して」という特性が強かったからこそ、
私が感じる愛の前提には犠牲のようなものが確かにあるのだということが。

悲しみながらも、友達が電話に出なかったことがきっかけで、愛についてあれこれ考えていると、母親の愛の大きさというか、愛ゆえに崩れない人としての強さを感じ、私も愛するということを誰かに向けてみたい、愛する人が欲しいと思った。

いただいたサポートは、私が私の言葉にしたものを「あっよかったんだな」と信じるきっかけにさせていただきます。