真っ当な人間に見えるように、僕は僕を理解したい。

 ツイッター(X?)で三島由紀夫の言葉が「メンヘラを容赦なく鈍器で殴るような」言葉だと紹介されていた。

 やたらと人に弱みをさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。

三島由紀夫『不道徳教育講座』

 確かに三島由紀夫から見れば、それは「無礼者」になるんだろうな、と思う。
 これが当時の日本のメンタリティなのか、三島由紀夫自身の問題なのか、については少し考えるべきところがあるだろうけれど、現代の日本は「人に弱みをさらけ出す人間」が多い社会になっている。

 それは単純に「人に弱みをさらけ出す」方が得になるからで、逆に言えば三島由紀夫が生きていた時代は「人に弱みをさらけ出す」ことが損になるから誰もしていなかったんじゃないか、とも思う。

 僕はカクヨムという小説投稿サイトでエッセイを毎週書く、ということを三年くらいやっていた。
 内容は創作論の悩みとか、読んだ小説や漫画の感想だったりしたのだけれど、ときたま僕の中にある弱みとか悩みを書いた。
 三島由紀夫的に言えば、無礼者な振る舞いなのだけれど、書くことで自分の頭の中の整理になったのは確かだった。

 最近、人生をゲームに例えて考えることが癖になっている。
 僕をゲームのキャラクターのように考えて、何が弱点で何が得意で、どこがゴールなのか。
 そんなことを考える時、過去の自分が書いた悩みなんかを読むのは一つの参考になる。今後のさとくらの育成方針を過去の文章や今の環境から考えて、作っていくような感じだ。

 僕は僕のことを理解したい。
 理解していないと他人に説明することができないし、不意に予想外なことに巻き込まれたとき、僕ならこうするだろうと咄嗟に動くことだってできるかもしれない。

 そういう意味で考えると僕は僕のことを信頼はしていない。目の前に大金の入ったアタッシュケースが落ちていたら持って帰るだろうし、怠けていいと言われたらどこまでも怠けてしまうだろう。

 だから僕は、僕が少しでも真っ当な人間に見えるようなルートや環境を整えるようにすべきなんだろうな、と最近よく考えている。
 そして、そのために僕は僕を理解したいと思っている。

 〇〇〇〇〇

 ようやくパソコンに向かって作業できる環境が少しずつ整っています。
 長かった。

 とはいえ、まだ完璧ではないので、試行錯誤したような文章が続くかもしれませんが、お付き合いいただければ幸いです。


サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。