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僕が見失っていた「生きるとか死ぬとか父親とか」

 今期のドラマはちょっと見ようかな、と思ってジェーン・スー原作の「生きるとか死ぬとか父親とか」の一話を見ました。

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 最後まで見た時、僕が今年のはじめに抱え込んだ、引っかかりを丁寧に説明されたような気持ちになったんです。
 今回はその話をさせてください。

 まず、僕が抱えていた引っかかりについて書かせてください。それは今年の初出勤の日、仕事は昼には終わる、ということで同じ部署の人たちと軽い昼食を取ろうと集まりました。
 話題は仕事のことからプライベートなことに移って、一人の方が子供のことについて語り始めました。

「私、子供を全部、無条件に可愛い、好きだって言えないんです。多分、自分が産んだとしても、その子を好きって思えるかって自信がないんです」

 けれど、それは今であって、出産に関わるあらゆる環境や気持ちの変化によって、好きだって思えるかも知れませんよ、と脊髄反射で言おうとして、やめました。
 今から考えれば、言わなくて良かったと心から思っています。

 その方が自信がないと言っているのも今で、今そう感じる以上、それで良いし、この先は変わっていくのかも知れない(変わらないかも知れない)けれど、とりあえず今はそうなのであって、人は必ずしも誰かの親にならないといけない訳でもありません。
 僕は受け止めの言葉を間違えてしまったのですが、それよりも僕は母親、父親は子どもを好きなんだと(あるいは、愛しているんだと)素朴に信じているんだと気づきました。

 舞城王太郎の短編小説「裏山の凄い猿」にて、他人に対して愛情を持てない夫婦が、子供にも結局は愛情を抱けぬまま子育てをした、というエピソードが語られていました。
 そういう夫婦がいて良いし、愛情があるから乗り越えられる、みたいな瞬間があるのかも知れませんが、それが全てでは決してないでしょう。
 
 RADWIMPSが「愛にできることはまだあるかい」と歌っているけれど、そういう綺麗ごとって言うか、ある種の美しさを語る前にもっと現実的で地味な問題が出産や子育てには山積みになっていて、それらは結局、機械的にこなしていく必要だって絶対にあるんですよね。

 三浦瑠麗が「私の本」なるインタビューを受けていて、そこで「父も母もまだ20代のうちに三人の子供を産み育てました。大人になってから考えると、まるで子供が子供を育てているようなものです。」と語っていて、更に「若くて体力もあり、さまざまな理想もあったんだと思います。」と続けます。
 この箇所を読んだ時、少々ぎょっとしました。

 文面だけですが、厳しい物言いに感じられたんです。とくに「さまざまな理想もあった」という箇所。
 理想を調べてみると「考えうる最も完全なもの。最善の目的。「―が高すぎる」理念。イデー。イデア。」と出てきました。

 子育てにおいて理想を抱くべきではない、と三浦瑠麗は言っている訳ではないのですが、「まるで子供が子供を育てているようなもの」も加味すると、そこには「さまざまな理想」の空回りがあったのかな? と裏を読んでしまう物言いには感じてしまいます。

 何にしても、出産や子育てはあらゆるフェーズがあって、僕のような独身男性があれこれと口出すことではないんですよね。
 ないんですけど、親は子を愛すべきものだ的な単純化した思想だけを持っておくのも、実際どうなのよ? と思います。それはあまりにも素朴すぎるだろ、と。

 そんな僕が「生きるとか死ぬとか父親とか」の一話で、なるほどなぁとしみじみ思ったシーンがありました。それについて書かせてください。
 と言いつつ、その前に「生きるとか死ぬとか父親とか」の監督をご存じですか? 
 映画「溺れるナイフ」を撮った山戸結希監督で、ドラマの監督は今回初めてみたいなんです。
 個人的に「溺れるナイフ」って好きな映画なんですが、一つ判断に困っている部分があって、それが撮影時間がトータル十七日という短い時間だったことなんです。

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 山戸結希監督いわく、「17巻分の原作を17日間の現場の中で撮影すること」は、「小松菜奈さんと菅田将暉さんが、毎日原作1巻分の夏芽とコウを濃密に追体験してゆく」ことだとインタビューに答えています。
 また、菅田将暉は「非常にピリピリした現場でした。だからこそ生まれるものがあると信じて臨んでいました」と語っていますし、実際「溺れるナイフ」はピリピリした緊張感のある映画で、ピンっと張った一本の糸が弛むことなく、最後までたどり着いていることは確かなんです。

 だから、良いと言えば良いんですけど、ラストの展開っつーか、小松菜奈の叫びが、あまりにも突発的な感情の発露と言うか、原作が2004年から2014年の10年弱くらいかけて、癒そうとしたトラウマをあまりにも単純なものに変換してしまった気がしたんです。

 僕が今言っているのは、二時間弱の映画に収める為の脚本に関する部分なので、撮影期間が三ヶ月でも十七日でも、変わりなかったとも言えます。
 なので、困ったなぁと「溺れるナイフ」を見た後に思い続けていた中で、今回のドラマ「生きるとか死ぬとか父親とか」を見たのでした。

 こちらも、まだ明かされていませんが、主人公の蒲原トキコは父親に対し、許せていない何かを抱えてしまっているようでした。そのわだかまりがどのように撮影されるのか、というのは注目しつつ見たいと思っているんですが、今回僕がおぉっとなったのは、蒲原トキコがやっているラジオ番組に届いたリスナーの悩みでした。

 その悩みは、既婚者を好きになって、付き合うようになった二十代の女の子からのものでした。
初めはこんな関係よくないし、本当に好きなら深くなってしまう前に別れようと思いましたが、何よりも私を優先してくれる彼の姿勢に気持ちが止まりませんでした。

先日突然奥さんが倒れ、脳と体に障がいが残り、彼がこれから一生介護をしなくてはならなくなってしまいました。それを知らされた時は混乱して、奥さんにも嫉妬し、家族のもとに戻る彼に失望しました。でも、彼の現在の状況と気持ちを落ち着いて考えた結果、彼のことをすべて受け入れて、支えたいと思うようになりました。

もう結婚しなくていいから、一生彼の彼女として、彼の側にいたいと思い、彼のことで頭がいっぱいです。トッキーさん(主人公)はこの状況をどう思いますか?

 このシーンを見た時、僕は帰り道でドラマを一時停止しました(アプリで見ていると、そういうことができるんですよね)。
 もしも、僕が誰かに、この手の質問をされたら、どうするか。

 うーん……。
 えー、もう好きなんだったら、仕方ないのでは? と言うくらいしか浮かばない。

 アプリを操作して続きを再生すると、蒲原トキコの答えは以下のようなものでした。
ちょっと厳しいこと言うけど、『好きだから』とか『好きなのに』っていう風に、〝好き〟っていう気持ちをなんかこう、ピュアな感情として優先しようとすると、見失うことって多いと思うのね。読み違えるっていうか。『何よりも私を優先してくれる彼の姿勢に気持ちが止まりませんでした』って、そういう風に始まった関係だとは思うけど、今はっきりと彼は、家族を優先してるわけですよ。

 これがベストアンサーだよ! と言ってしまいたい、僕がいるんですが、僅かな躊躇もあります。ただ、この蒲原トキコの答えは正しい。
 正しいだけが良い答えとは限らないけど、間違いなく正しい。

 それとは別に、うぎゃあっと思ったのは「〝好き〟っていう気持ちをなんかこう、ピュアな感情として優先しようとする」小説を書いたし、読み物としても面白いって言ってきたなぁ、ということでした。
 そして、これは冒頭の親が子供を好き/愛しているんだと素朴に思ってしまっている部分にも通じていて、僕は実に多くのことを「見失」ってしまっていたんです。

見失」っていると気づかずに「“好き”っていう気持ち」を「ピュアな感情として優先しようとする」物語を書くことと、気づいて書くことは大きく違ってくるなぁと思う今日この頃です。
 僕が今後、どういう小説を書くのか、現状の僕でさえ分かりませんが、地盤には「“好き”っていう気持ち」を「優先」する物語は「見失うこと」が多いと分かっている上で、小説と向き合いたいと思います。

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