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反省と自己批判が行き着く先に人間らしくいられる文化がある、と僕は信じたい。

 ※友人と『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』が1話で連載中止になった件で往復書簡集みたいなことをしよう、と言う話になっていた原稿です。
 現在止まっていて、時が経てば経つほど意味を失う内容だと思ったのでアップ致します。もう、単なる反省って大事だよねって言う文脈で読んでもらえれば良い気もしますが。

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 西加奈子が何かのラジオでゲスト出演した際に若者の言葉を使うおじさんを批判していた。
 自分の常識に即した言葉ではなくて、若者に合わせるような言葉を使って若者に媚びて、どうなのよ? ということなんだろう。

 新型コロナウイルス感染症対策分科会尾身茂会長が先日、インスタを開設した。
 理由は「コロナ対策は「科学だけでは決められないこと」がたくさんあります。例えばコロナとの戦いが長期戦になる中で、「どんな社会で生きていきたいか?」ということなどです。これは皆さんと話し合って決めることだと思っています。」としている。

 それは「尾身茂」という名前でやる理由にはなっていないし、尾身茂会長が国民から求められていることは、そういうことではない(と少なくとも僕は思う)。
 個人的にしたかったのであれば、「コロナ専門家有志の会」というアカウントで「尾身茂」のインスタの宣伝したりするのも、おかしい。

 僕は時代の流れは読むべきっていう考えで、その時代の常識に即した言葉使いや考え方はすべきだと思っている。けれど、それはその時代とは何かを考えた結果に出る結論としてあるのであって、表面だけ掬って若者の言葉を使ったり、インスタを始めることではない。
 むしろ、表面だけ掬って時代の流れを読んでいると思っている人は、自分は分かっているという自覚がある分、時代に取り残されている印象が僕にはある。

 最近、宇野維正の「『ブラック・ウィドウ』が残した「遺恨」が意味するもの」という記事を読んだ。
 その中で、

 パラマウント映画及びユニバーサル・スタジオからウォルト・ディズニー・スタジオに移る前のMCU作品(2011年の『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』まで)、あるいはドナルド・トランプの政治資金提供者としても知られるマーベル・エンターテインメントCEOアイザック・パルムッターがマーベル・スタジオ作品の企画監修に関与していたMCU作品(2015年の『アントマン』まで)に、キャスティングを含め配慮の欠けている部分が多々あったという事実がある。

 とあって、それ故に、「マーベル・スタジオ現社長のケヴィン・ファイギが全権を掌握するようになってからのMCU作品は、世間や映画界の変化に過剰に対応しているだけではなく、まずそうした過去作に対しての自己批判から生まれている」と宇野維正は書いている。

 現在、最も注目されるエンターテイメント作品を作っているMCUが「過去作に対しての自己批判から生まれている」という点は面白い。
 あくまで僕の印象だけれど、新型コロナウィルスによって一ヶ月後の予想も難しい世の中になってしまったせいか、多くの人が反省や自己批判することをやめてしまったような気がする。

 今この瞬間が良ければいい、という刹那的な生き方が肯定されている。
 それはそれで大事でもある。しかし、そういった考え方が横行することで、失われてしまうものも確実にあって、今は非常事態だから、とそれを蔑ろにされてしまうのを見ると切なくなる。

 反省や自己批判をすることで、守られるものや作り出されるものは確実にあるんじゃないか、と思う。

 別の言い方をすると、東浩紀が「#ゲンロン友の声 |020 】音楽やスポーツはどのように社会と共存すべきでしょうか」という読者の質問に答えるコーナーで、以下のような返答をしている。

 そもそも「生きること」には2つの異なった意味があります。ハンナ・アーレントはそれを「ビオス」(人間としての生)と「ゾーエー」(動物としての生命)と区分しました。音楽やスポーツはゾーエーにとっては不要不急かもしれません。しかしビオスにとっては必要不可欠です。そしてビオスがなければ人間は人間ではいられません。

 今この瞬間が良ければいいは「ゾーエー」(動物としての生命)で、反省や自己批判が「ビオス」(人間としての生)に僕は見える。
 反省や自己批判する動物もいるかも知れないので、僕の見え方は間違っているのかも知れない。ただ、動物は音楽やスポーツという文化を持ち合わせていない。
 ビオスはその言葉の通り、人間にのみ当て嵌まる「生きる」意味だ。

 ハンナ・アーレントという哲学者繋がりで、ニーチェが以下のような言葉を残している。

 何か新しいものを初めて観察することではなく、古いもの、古くから知られていたもの、あるいは誰の目にも触れていたが見逃されていたものを、新しいもののように観察することが、真に独創的な頭脳の証拠である。

 僕はこの「真に独創的な頭脳」の手前にある意識というか、姿勢こそが反省や自己批判なのではないか、と思う。
 長々と書いてしまったが、僕が言いたいのは世間やあらゆる業界の変化に対応しつつ、反省と自己批判をして行くべきだよね、ということだ。

 さて今回、本題にしたかったのは、『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』という作品についてだ。
賭ケグルイ』の河本ほむらが原作を担当した漫画作品で、わずか一話で打ち切りになった。

 内容は、「チート能力をもつ異世界転生者によって幼馴染を失った主人公リュートが、異世界転生者達に復讐を行う」というもの。

 打ち切りになった理由として編集部は、「当該作品につきましては、他作品の特定のキャラクターを想起させるような登場人物を悪役として描いている」と読者から多数の指摘があり、編集部が改めて検証したところ、「キャラクターの意匠、設定等が他作品との類似性をもって表現されている」、「特定の作品を貶める意図があると認められるだけの行き過ぎた展開、描写があること、またそれらに対する反響への予見と配慮を欠いていたこと」を挙げ、「連載中止の決定に至」ったと述べている。

 僕は今回、『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』に関する反省ないし自己批判とまでは言わなくとも、連載中止にならなくて良い方向性はなかったのか? ということを考えて行ってみたいと思っていた。
 しかし、そんな考えを持ちつつ、自作の制作や日々の日常を理由に後回しにしていった結果、2021年8月27日(金)に「チートイーター異世界召喚尽く滅ぶべし」という漫画作品が公開されてしまった。
 作者は『屍姫』を描いた赤人義一だった。

 あらすじは

女神によって異世界から喚ばれた召喚者たち。
彼らはチートスキルと呼ばれる人知を越えた能力を授かり、来るべき「滅び」から世界を救うため闘うかに思われた…。
だが彼らはそのチートスキルを私利私欲に使い、人々を虐げ、世界をより混沌へと誘っていってしまう…。
 
そんなチート召喚者たちの対抗策として女神が喚んだのは、「最後の召喚者」カイナだった…!?
 
最強VS最凶の人外大戦が今、始まる――!!

 というもので、主人公はチートスキルを持った召喚者に姉を連れ去られており、姉を取り戻すべく召喚者が作った街に潜伏している。
異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』は幼馴染で、殺されてしまっており、その復讐という形で物語が進んでいったので、それが姉(また生死不明)に変わったのが「チートイーター異世界召喚尽く滅ぶべし」と言える。

 更に『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』を踏まえて、「チートイーター異世界召喚尽く滅ぶべし」を読むと、連載中止に至ったマズイ表現は全て避けられていて(パロティとかレイプとか)、表現もマイルドになっている。

 赤人義一はさすがに『屍姫』でアニメ化も経験している漫画家で何がマズイ表現か、ということは熟知しているし、一話でちゃんと悪役のチートスキル保持者を倒して話も締めている、という点でも『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』の技術的に未熟なところは補填している。

 最近、この手の少年向けの漫画や小説を読んでいて思うことなんですが、「呪術廻戦」とか「Dr.STONE」って言う少年ジャンプ系が流行っている今、主人公の個性が薄すぎませんか?
 逆に言えば、「呪術廻戦」とか「Dr.STONE」の主人公の存在感、濃くない?

チートイーター異世界召喚尽く滅ぶべし」とか『異世界転生者殺し -チートスレイヤー-』って、大切な人が殺されたから復讐するぜ! は良いけど、そこ以外に何の個性というかキャラの味付けがなされていないような気がするんですよね。

 それをどうすれば良いのか、というのは、この手の作品の課題なのかも知れない。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。