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10月17日という日を

【はじめに】

10月17日という日を忘れないために書き残そうと思ったが何から書いて良いかだんだんわからなくなってきた。

とりあえず書いておきたいのは、昨年、今年と、10月17日は私の推し(角野隼斗さん)のまわりは色々とあった。

同じ推しを推す皆さんの胸には、
2021年の、
2022年の、
それぞれ推しに対する「10月17日」の色々な思いがあると思う…。
私もたくさんある。
そして、それぞれの思いを胸に忘れられない日となっているのではないか、と思う。

私もその1人。

ただ、実は私の場合、30年前の10月17日も人生の中で記す日であった。

それから毎年色んな10月17日を過ごして来たが、29年目の2021年、30年目の2022年の10月17日は推しにより、今までの10月17日が、すべてぶっ飛んだような気持ちでいる。

そんな気持ちをまとめてみようと思った。
30年前の10月17日、昨年の、今年の…。
私が思った事や感じた事を振り返り、色々あったけど、こうして推しに出会えて乗り越えて来れたから、これからも頑張れるかなと前向きになれた今の気持ちを。

今までとこれからの10月17日を大事にしていくために。


以下、大変個人的な話です。

(つまんない所は読み飛ばし…くらいのスタンスで読んで頂けると幸いです…。そして自分語り多いです…)

ご興味ある方はどうぞ。

【1992年10月17日】

30年前のその日は土曜日だった。
なぜそこまで覚えているかというと市役所に1人で婚姻届を出しに行った日だから。
今、考えればロマンチックも何もない住所変更のついでの婚姻届みたいな位置付け。
そもそも翌年2月に結婚式の日取りは決めていたので、そのあたりで籍も、と漠然と思っていたのだが。

さかのぼる事、1週間前。
私は夫の実家へ引っ越していた。9月に結納も済ませたし、もうコッチに来てれば、との夫の母の提案に若気の至りで私はあっさりと自分の実家から引っ越した。
夫の独立開業の時期がまだはっきりしなかったので、結婚後、独立が決まるまでは夫の実家で暮らす事になってはいたが、思ったよりも早く、父(57)母(51)夫の妹(16)と夫(24)と私(20)の同居生活がはじまった。

今まではのほほんと、徒歩通勤で、お弁当も実母まかせの私が、夫の実家に暮らし始めて、同じ市内ではあるがバスを2本乗り継ぎ出勤、その前に、父、夫、妹、私の4つ分のお弁当を小さな台所で夫の母と一緒に作る朝…。

料理なんてほとんど出来ずに嫁に行った私は、ホントに勇気あると今は思うが、その時はそんな事より毎日夫と過ごせる事がうれしくて(その後そんなバラ色の日々ばかりではない事に早々と気付く事になるのだが)夫の実家での暮らしに少しずつ慣れていった。

(その後結婚式の参列に合わせて帰省した夫の姉は臨月で、3月に子を産みGWに仙台から迎えに来た姉の夫と帰るまでの2ヶ月ほどは前述の家族5人に加え、姉(26)姉の娘(0)の7人生活をするという今思い出しても、なんともカオスな日々だった。)

引っ越しをして数日後、私は職場の上司に引っ越しをしたので通勤手当が欲しいと申し出た。私が働いていたのは小さな信用金庫の小さな支店で上司はすぐに本店の担当部署に問い合わせしてくれた。その回答が今、考えるとホントか?と記憶を疑いたくなるが、結局は結婚に結びついての住所変更ならば、それを証明するもの→婚姻届を出して戸籍謄本を提出せよと。まだ結婚してないんだけど…ただ引っ越ししただけでは通勤手当くれないワケ?などなど頭はグルグルしていた。でも結局そのあたりのものを提出しないと通勤手当はもらえない様子だったので、まさに通勤手当のために婚姻届を出すのが早まったことになった。

その頃、まだ土曜日も市役所は開いていた。でも夫は土曜日も18時まで仕事で、さすがに一緒に市役所には行けそうもなく…前の日の晩に家で仕上げた婚姻届を土曜日の午前中に1人で提出してきた。私の住所変更も一緒に済ませた。

そんな味も素っ気もない10月17日が入籍記念日となった。(結婚式が2月なので一般的な結婚記念日は2月と、なんとなく呼んでいる。)
10月も2月も2人の誕生日とか、出会った記念日とか、そういうものもなく通勤手当欲しくて10月、日曜の大安があったのが2月、って笑える。
でも私にとっては、人生の最大級のイベントで、結婚願望の強かった私はどんな事でもうれしかった。

こんなロマンチックでもなんでもない流れではあったが私にとって10月17日は大事な日となった。

それから夫の独立開業が決まり、それに合わせて私達も引っ越しをしたので実家での生活は8ヶ月ほどで終わった。

月日が流れ、私が22歳から25歳の間に子が3人生まれ、毎日毎日自分の事は二の次状態で子供の世話、家事、夫の仕事の手伝いなどなど目まぐるしい日々だったと今も思う。
そんな中でも、この10月17日近辺で子供達も連れて記念日ディナーに行ったり楽しい思い出もある。


でも私は何度か家を飛び出した。

あまりにも耐えられない事が色々起きた。
散々ケンカして家を飛び出すのだが、その度に夫は謝りに来た。 
そして子供達にも悲しい思いをさせた。
その内、嫌なことは私が我慢すれば良いのだと思い始め、それなりに楽しいこともあったし、結婚生活を続けて来た。

辛い時って、今が1番辛い、って思う。
だけど、月日が経って、また辛い事が起きる…そして、あの時も辛かったけど、今も十分辛い…って事を繰り返す。

そうやって、繰り返すたび私は前の辛さは何だったか思い出せない事が多い。忘れる、というより、

心の中のものすごく重たいフタのついた箱の中にしまっている

という言い方が正しいかも知れない。

そんな事ができるなら、きっと大した事じゃないのか…とも思うけど、その時はその辛さにどっぷり浸かり、私の人生ってなんだったんだろう…とか、20歳に戻って違う道を進んでみたい…とか、考えてもどうしようもない事をグダグダ考えて、また落ち込む…。
10月17日に戻って、市役所に行く私を止める事が出来たら、とか。

なので、この30年、ジェットコースターのように浮き沈みの激しい結婚生活を送り、特に10月17日は、この運命を毎年自分に語りかけ、楽しい時もあれば、もう諦めになっている時もあった。

そんな10月17日を毎年送り、色々ありつつ仕事などでワタワタと過ごしていた私は、2021年2月に推しと出会う。

【角野隼斗さんの存在】

2019年の末より、世界的な疫病で世の中が、私達の生活が、一変した。
人と会えない、マスク、消毒…今までにない経験。(これを書いている2022年11月でも、まだ同じ状況で感染者は増えている。)
この頃、我が家は今までで、1番の正念場を迎えていた。
3人の子供達だ。

我が家の場合、夫は自営業、私は東京に本社のある会社の小さな支店で働いているため、コロナ禍における就業継続には特に大きな問題はなく、通常通り仕事をさせて頂けた。

だが、子供達のうち、首都圏でそれぞれ、航空業界、旅行業界の仕事に就いていた2人は、モロにコロナ禍の厳しさに直面し、本来なら東京五輪で沸き上がる需要に、てんてこ舞いの日々を送るはずだったのに時間カット給料カット、そして全然関係のない仕事への派遣など…。

2020年は試練の年だった。

家族でも色々と話し合い、結局2人とも転職をすることとなった。
(現在、1人は東京に残り、1人は帰郷し、それぞれ新たなお仕事に就いています。)
そして同じ頃、東京にいたもう1人が体調を崩して(心の病と診断され)休職し、実家にて療養することとなった。
(現在、実家より時短ではあるけれどリモートワークが出来るまで元気になっています。)

私が角野さんと出会った2021年は2020年に続いてまさに試練の真っ只中だった。

1人は帰郷して就活するも、なかなか良い職場はすぐには見つからず。
1人は摂食障害や不眠、自傷行為などなど目が離せなく、居間で1日中布団で横になる生活…。大きな音や声にも敏感で、私達の生活も無音となり、TVやラジオも✖️。私はピアノの練習も出来なくなった。
その上、私の対応や声掛けが症状を悪くしているかのような夫からの苦言…。
同じ屋根の下で暮らす家族なのに、私だけ1人になっているかのような…いや、あの頃は完全に1人だった。私が口を開けばまた何かしら言われるという恐怖もあった。
私はただただ、家族みんなの幸せを願って日々暮らしていたのに。

そんな寂しく悲しい時間、私は誰もいない部屋へ行き、イヤフォンを着けて目を閉じて必ず角野隼斗さんの音楽を聴いていた。

もう、そこに行くしかなかった。
角野さんの音色しか信じられなかった。

前の私なら、きっと夫に対して言い返したりして、自分でもっとその状況を悪くしたり、惨めになったりしていたと思う。
私の心が少しは成長したのか、それとも病に臥す子の前では慎んだのか、それとも夫への諦めなのか、言い返すことはなかった。
理不尽な言葉を言われてもじっと耐えていた。この時間が過ぎれば、私には行く場所があったから。

私が私らしく、1日を終え、また明日を迎え、進んで行く勇気を与えてくれたのが、角野隼斗さんだったのは間違いない。

その頃、Twitterを恐る恐る始めた。角野さんの情報を知りたかったから。こんな田舎で、どんな風に応援が出来るのか知りたかった。
Twitterで知り合った方々は皆さん優しくて素敵な方々ばかりだった。皆さんと推しについてわちゃわちゃとお話しできる事は私にとって大事な大事な時間だった。

角野隼斗さんの存在が、私の存在意義をまた心に呼び戻してくれた。

そして、その後角野さんはショパン国際ピアノコンクールの予備予選を通過して秋にワルシャワへと向かう。
1stステージ、2ndステージ、3rdステージ…毎回ドキドキしながら祈る思いで小さなスマホの画面を見ていた…。

そして、あの日が来る。

【2021年10月17日】

日本時間の早朝、ファイナルステージで聴けると思っていた角野さんのコンチェルトは聴けないことが遠いワルシャワからの生配信で知ることとなった。
それまで盛んに動いていたTwitterがしばらく静かになったのを覚えている。私と同じ気持ちで待っていた人達は日本のみならず海外にもたくさんいて、だいたいの人はきっと1人でジッとPCまたはスマホの画面を見ていただろう。私もその1人だった。
ファイナルに進む12人の中には、角野さんのお名前は呼ばれなかったのだ。

必ず聴けると思っていたのに、それが叶わないなんて。

他の誰でもない、角野隼斗さんのショパンコンチェルト第1番が聴きたかったのだ。

オーケストラと融合しながらもキラキラ輝く、あなたのピアノの音をワルシャワのホールからの配信で聴きたかったのだ。

でもその結果がわかった時、私は泣かなかった。
審査され結果が出るものであるのがコンクールだから。
誰かは進み、誰かはここで終わる。

散々、1stステージから、その光景を見て来ていた。次のステージには半分くらいの人しか進めない。私は角野さんがファイナルステージに進めなかった事を残念、悲しい…と思いながらも結果は冷静に受け止めていた。

その日は、角野さんファンの方々のツイートをずっと読んでいた。
泣かなかった私は、感情がおかしいのかな、と考えた事を覚えている。

私は、セミファイナリスト、おめでとうございます!って気持ちでいっぱいだったから。勝ち進む事は当たり前ではないし。でも色んな出場者さん達の背景を知るにつれて、改めて厳しい世界だという事を知った。
その中でセミファイナリストとなった角野さんは本当に素晴らしい!と素人ながら今もずーっと心から尊敬している。

その夜、角野さんご本人からの発信があった。素直なお気持ちを綴ってくれていて実直なお人柄を改めて感じて、あぁ、私は本当に素晴らしい音楽家さんに出会えて、好きになって良かった…と感激していた事を覚えている。

もちろんコンチェルトが弾けないのは悔しいですが、きっとお前は自分の道を行けということなんだと思うことにします。
上記ツイートのツリー部分より抜粋

思えば2021年2月、私が角野さんを知る事になったラジオ番組…大阪のMBSラジオ「メゾン・ド・ミュージック 角野隼斗のはやとちりラジオ(メゾンスミノ)」は、小曽根真さんがゲスト出演された神回だが、その中で小曽根さんは角野さんに

「やりたい事をやったらええのや!」

と伝えていた。

その小曽根さんの言葉に後押しされて2021年5月のblue note東京でのソロライブを成功された角野さん。(ライブのMCで、そのように話されていました。)

そして、またその言葉が思い出されたのか、ショパンコンクールの後、会いたい人に会いに行きましたね。

バルセロナでFrancesco Tristano さんに、ロンドンでKeyon Harrold さん、フランスでHania Raniさん…。

そんな角野さんの様子をSNSで拝見してた日々、本来ならきっとショパンコンクールの入賞者コンサートなどのために日程を空けていたのかとも思うけど、日本へ帰る前に

「やりたい事をやる。会いたい人に会いに行く」

そんな角野さんが角野さんらしくてかっこよく見えた。

ショパンコンクールの1週間後とか10日後に、TristanoさんやHania Raniさんと即興演奏出来るショパンコンクールの出場者は角野さんしかいないのでは、と思っていた。たくさんの引き出しを持つ角野さんだからこそ、と思う。

(Tristanoさんとはバルセロナで即興演奏をして今度一緒にライブをしようと約束して、1年経った今月、本当に日本でライブしちゃっているのですから…。)

日本行きの飛行機に乗り遅れてしまうくらい、ヨーロッパを楽しんだ角野さんはお仕事がどんどんお忙しくなり、TVでも拝見出来る機会が増えた。

「やりたい事をやったらええのや!」

その言葉通り、
自分の道を探しながら進み始めたな…って感じた事を思い出した…。

【2022年10月17日】

そして今年。
2022.10.17AM0時過ぎ、ビックリするお知らせが届いた。

角野さんが弾くショパンコンチェルト第1番をいつでもサブスクやYouTubeで聴くことが出来ると。
そしてCDも発売されると。

そんな夢のような日が本当に現実にやってきた。

9月にポーランド放送交響楽団(NOSPR)、世界的指揮者マリン・オルソップさん、そして角野さんはツアーで日本を回っていた。その演奏会で角野さんはショパンのピアノコンチェルト第1番を演奏していたのだが、その音源がいつでもサブスクなどで聴けるなんて!
ライブ録音の件は告知があったが、まさかサブスクでも聴けるなんて…。

思えば1年前の今日は、ワルシャワのホールでショパンコンチェルトを弾く事が出来ない知らせを受けた日だ。
それから1年経って今日からは、ずーっとずーっといつでも聴けるなんて…。
この1年、自分の道を探しながら歩いて来た角野さんの濃い1年が結実したような素晴らしいニュースに本当にビックリ、そしてうれしかった。

急いでSpotifyで検索した。
本当に、そこに角野さんの音はあった。

私は奇跡的に日本ツアーの初日公演に行く事が出来、その音を生で聴くことが出来た。

私はその日初めて角野さんの演奏するショパンを生で聴くことができたのだ。

この日のことは一生忘れない。

(ちなみに私は角野さんの生演奏を聴けたのは今までに2回。最初はラプソディ・イン・ブルー、2回目が、このショパンコンチェルト。まだソロを聴ける演奏会には行けてません。)

その時の事を思い出しながら1楽章から3楽章までジッと聴いていた。初日に行けた喜びがよみがえる。

その後、確か、聴いている途中だったと思うが角野さんのツイートのお知らせが来た。

えっ!?
動画upのお話しはシンガポールからのYouTube LIVEでも話されていましたが、まさかまさかの、この、今、私が聴いてるショパンコンチェルトの動画…ですか?
それをYouTubeで…ですか?

DVDなどにして欲しい!と願ってはいたが、YouTubeでの公開とは…?
サブスクと同じように、いつでも自分が見たい時に見れる事になるの…?
そんなザワザワした気持ちを持ちながら、眠気も覚めて、結構深い時間までサブスクを何度もリピートした私だった。

そして、10月17日、21時。
世界中の人たち、1万1千人を超える方々とショパンコンチェルト第1番全楽章を観ることが出来た。
サブスクで音だけを聴いているより、映像がつくと、何故こんなにも胸が切なくなるのだろう…。

私は、演奏が始まった直後から涙が出て止まらなかった。

NOSPRの皆さんの素晴らしい演奏、マリン・オルソップさんの温かな優しい眼差しの指揮、そして角野さんの美しい音色…。

初日の演奏には泣かなかった私だが、この映像、この演奏には、何故だか泣けていた。

その時、思い出した。

私、初日の演奏の時は、確かに泣かなかった。演奏後は清々しい気持ちでいっぱいだった。
だから、こんなツイートもしていた。

だけど、このツイートには下書きがあって、それは休憩中にこの気持ちを忘れないようにスマホのメモに書き残していた。(実際にツイートしたのは、演奏会終了後、都内の子供の部屋にたどり着いた後、メモを見ながら、文字数の壁に悩まされながら笑)

初日当日の休憩時間もクレジットされている
メモ画面のスクリーンショット

コンチェルト終了後の休憩時間に今の気持ちを忘れないように、このメモをポチポチ打っていたら昨年の10月17日が脳裏によみがえり、一気にこの初日までの角野さんの活動、きっとこんな気持ちだったのでは…などと、そのほんの短い時間に考えを巡らせた私は涙を抑えられなかった。

特に、このツアーの前日にリリースされた会見で話されていた言葉が忘れられなくて余計に私は泣けたのだと思う。

角野は「ツアーのソリストを務めることを光栄に思います。全11公演の成功のため全力を尽くしたい」と意気込みを語った。曲目は、ショパンのピアノ協奏曲第1番。昨年行われたショパン国際ピアノコンクールでは、3次予選まで進むもショパンの祖国のオーケストラとの共演は叶わなかった。「1年前にはとても辛い思いをしました。今回のツアーは自分の中でのショパンコンクールが完結する機会と考えています」と述べた。
上記"ぶらあぼ"2022.9.6の記事内より抜粋

心して聴かなくては…と、何度も読み返していた角野さんの言葉。
(結局、ツアー終了後のインタビューでは「1年前に終わっています」と話されていましたが(毎日新聞2022.10.9朝刊掲載)、どちらも角野さんの本心なのだろうと私は受け止めました。)

そんなことも色々思い出しながら、ありがたくYouTubeで、ショパンコンチェルトを聴いていた。
そんな忘れられない10月17日を過ごすことができた。

【終わりに】

色んな10月17日を毎年過ごして来たが、昨年と今年の10月17日は本当に心に残る忘れられない思い出の日となった。
私の推し活上、とっても大事な日で、たまたま私のプライベートな記念日と2年連続重なったが、それも良い思い出となっていくのかと思う。
夫婦関係的には、10月に入ってから角野さんの関東遠征を巡ってバトルし、結局私が負けて(折れて)しばらく行けない状況になった。

それが原動力となったかは、わからないが、やはり推しはとんでもないパワーを与えてくれる。
昨年から欲しいけど勇気が出ずに買えなかった物を(フォロワーさんに助けて頂きながらだが)とうとう買うことが出来た。昨年からずっと、本当はもっと色んなグッズを買いたかったが、何せ通販サイトがポーランド語か英語しか選べなくて、海外通販はやった事もなかったので、サイトには行くけど怖さが先に立ち、いつもいつも次に進めなかった…笑
その内、昨年のグッズはどんどん少なくなり、やっぱり記念にどうしても欲しくなって…。
とうとう、ポチッと…。

ショパン国際ピアノコンクールのトートバッグ

推しの存在とは、本当に勇気と元気とパワーを与えてくれる大事な存在となり、私の大事な人になった。

角野さんはNOSPRとマリンさんとの日本ツアーの後も、お忙しく、たくさんの演奏会を成功させて、そして今はNYCにご滞在…。(2022.11.20現在)

共演された方々、角野さんが演奏した曲の作曲家の方々、著名なマエストロの方々…関係者の皆さんが角野さんを絶賛し、角野さんも充実した笑顔を見せてくれてファンとしては、とてもとてもうれしい出来事である。

なかなか生の演奏を聴きに行けない田舎の一ファンだけど、心から角野さんのご活躍を祈っている。

角野さん
忘れられない10月17日をありがとう。
私も頑張っていくよ。

ちなみに…
どうでも良いかもですが、ホントに10月17日が記念日なのか一応わかるものを載せておきます。

2016.10.17の私のFacebookの投稿の
スクリーンショット。

Facebookは実名投稿なので、こちらでリンク貼るのは控えました…。

なんだかんだで、夫と大好きなWSSを観て、バーで散々飲んだ投稿です笑笑

読んで頂き、ありがとうございました。

(おわり)

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