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『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』 君はひとりしかいないのと同じように

『広い宇宙に地球人しか見当たらない75の理由』,スティーヴン・ウェッブ著,青土社発行,2018年刊行

" Where is everybody ?" … 「みんなどこにいるんだろうね?」
 このフレーズがたまらなく魅力的で、声に出したくなる。

 デキるビジネスパーソンの思考法、みたいな文脈でもよく引用される「フェルミ推定」を考え出した物理学者エンリコ・フェルミの名を冠したパラドックス、
「宇宙の膨大さを考えれば宇宙人は広く存在してしかるべきなのに、地球人が未だに彼らに出会ったことはないのは何故なのか?」
宇宙人 みんなはどこにいるのか?」
という疑問に対する仮説を74個紹介し解説し、最後に著者のウェッブ自身の仮説を記述するという形態の本である。

 仮説のバリエーションはさすがにすごくて、本気の宇宙科学・宇宙生物学の概念から説き起こした読むのに骨の折れる濃密な仮説もあれば、「実は……すでに宇宙人はわれわれの中に潜んでいるんだよ!」「ΩΩΩ<ナ、ナンダッテー!」な仮説まで、各方面が網羅されている。
 あんまり科学について詳しい知識がない向きは、最初のこの「本当はもう来てるが実は」系の仮説を集めた章を読むのが、一番楽しかろう。私も楽しかった。別にアレな陰謀論ばかりではなく、真面目な説もいっぱいある。

 それ以降の、骨太な宇宙科学・生物学の概念を駆使した仮説については、そちらの方面の興味や知識がないと、正直読んでいて眠くなる(笑)。
 けれどわからないなりに流し読みでも読み続けていけば、最後の著者の仮説が訴えたいことがスムーズに理解できる(その仮説を否定するとしても)ので、がまんして通読した方が面白いのではないか。

★★★

 著者が言うには、(宇宙)物理学者や、逆に科学者ではない人々は、宇宙はめちゃくちゃに大きく、生命がいる可能性がある星が無数にあり、また地球人が特別な存在だという考えを肯定する根拠はないという認識から、「知的生命は存在する」という見解になりがちなのだという。
 だが生物学者は、生命の存在だけなら大いにあるだろうと認めるのだが、「知的生命」の存在にはずっと懐疑的になる傾向があるそうだ。
 そして、著者は物理学者だが、

私自身はどう思うかというと、まあ、生物学者の友人の側にいる。

6 結論 「解75 フェルミ・パラドックスは解決された……」

と告げている。つまり、「みんな」はいない、という見解だ。
 宇宙がどんなに広大で、生命に適した星がどんなに大量にあったとしても、宇宙には知的生命は存在しない。そう著者が結論づけるのは何故か。実はその根拠は、最後の方に出される一文が何よりも強く物語っている。

 われわれが探しているのはわれわれ自身なのだ……

6 結論 「解75 フェルミ・パラドックスは解決された……」

 われわれという存在が、何かに選ばれたかのような特別な存在なのだというのは、確かに傲慢に思える。だが一方で、「みんなも私と同じようなはずだ」というのも、また別方向の傲慢さに陥っているという指摘である。知性、道具を扱うこと、自意識、言語、社会性、コミュニケーション能力、そういったものがわれわれにとってあまりにも当然の存在だからといって、「高度な存在」はそれらをみな備えてさらに発展させているに違いないと思うのは、確かに滑稽な発想かも知れない。

夜空を見上げてその奥を覗き込むとき、まさしく人類の定義となるような性質を有する存在が見つかるものと予想する理由があるだろうか。地球をともにする何百万という生物種は、すべてわれわれと同じく「進化した」存在だ。それはすべて、その生物が生きるしか死ぬかはお構いなしの厳しい世界で暮らしを立てている。壮大な数の様々な方法で何とかかんとか生き延びている。人類を定義するような知能に向かう進化の駆動力などない。ここに知能が見つからないのなら、いったい宇宙に見つかるものと予想する理由があるだろうか。

6 結論 「解75 フェルミ・パラドックスは解決された……」

 著者は、だからこそ、意識を持ち宇宙という存在を認識することができる唯一の存在であるわれわれが、ばかげた振るまいで自己を滅ぼしてしまうのは取り返しの付かない悲劇であるのだと、訴えるのだ。

★★★

 私は昔から、疑似科学やトンデモ説などを鋭い舌鋒で攻撃する人々が、なぜか自分たちの偏見やバイアスについては驚くほどナイーヴであること、「自分もバカだけどバカな自分を知っているのだ」と自己弁護したり、もっとひどくなると自分は理性的でバカではないと無意識にアピールしてしまっていたりするのが、ちょっと怖かった。
 人類という種は、自分が攻撃する過ちと同じタイプの過ちを犯すという呪いにかかっているのではないか、と考えたことすらある。(まぁ実際には、自分が犯してしまいがちな過ちだからこそ自分の影を見て攻撃的になるのだ、というのが心理学的にありそうな説明なのだろうけど)

 著者の結論が、宇宙物理学的・宇宙生物学に広く認められ共有されるものなのかどうか、専門家ではない私にはわからない。だが著者の結論が間違っているかいないかに関わらず、「宇宙は広大だから他にも人間のような知的生命体がいるに違いない」という発想がひどく無邪気な、悪く言えば幼稚な発想であることは変わらない。
 無邪気な夢であることをわかってなおそのために努力するのは崇高だが、その認識がないとしたら、危険なことなのだろう。

 私がこの本の「宇宙人 みんなは存在しない」という結論に深く心を抉られたのは、揺るぎない理性を備え科学的思考を呼吸するように行えるような知性を持ってさえも(あるいはそうであるからこそ?)、ひとは自己というバイアスに陥ってしまうのだ――という、かなしさにも似た宿命を見たからである。
 世界には何十億もの人間がいるのに、私のように考え、私を私のように愛し理解してくれる人はいない。私はひとりしかいない。そして私はそれを忘れて、私のようにみんなも考えるはずだと思って、いつも手酷い失敗をしている。宇宙人はきっといるはずだと夢見る人々のように。

 だからこそ、「他人の気持ちになって考える」「他人の靴を履く」という言葉が、私にはどこか空言のように感じられてならない。そんなことは本当に可能なのだろうか。どんなに理性を働かせ知識を蓄え想像力を逞しくしても、自己のバイアスはどこまでも入り込む。
 そうしてそんなにまで逃れられないのに、私はひとりしかいないし、人類もひとつしかないのだ。結局のところ、私にできるのは、その事実を常に忘れずに言い聞かせることしかないのだろう。

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