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なぜヒトは学ぶのか 人間の条件と配られたカードと幸せと

「学校の勉強なんて役に立たないよ!」「じゃあどんな勉強なら役に立つと思っているの?」

『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』,安藤寿康著,講談社発行,2018年刊

 安藤先生のお名前を拝見して、大学時代のことを少し思い出した。
 大学時代、一応教員免許を取るべきか……と血迷っていた私は、必要な単位を色々取得していて、そのうちのひとつ「教育心理学」を担当していたのが、この本の著者・安藤寿康先生だった。
 色々あって私は結局教員免許を取らず、そして「教育心理学」で勉強したはずのことは今や記憶の彼方でほとんど覚えていないのだけれど、安藤先生のこと自体は何故か記憶していた。先生が日本における双生児研究の第一人者であることも。
 そしてたまたま見かけたこの本で、私はようやくあの頃の授業で本当は先生が伝えたかったのかも知れないことを、少し理解できた気がする。

★★★

 そんな私の、完全に個人的事情はさておき、めちゃくちゃに面白く、内容が濃密な本である。
 教育について……と言うと、子供がいない人や教育産業に属していない人には無関係な話かと思いそうになるのだが、それが全然的外れな考えであることが明らかになる。
 教育とは、学校にいようといまいと、子供であろうと大人であろうと、全ての人にとって直接に関係する活動なのだ。この本ははっきりと言う。
「教育は、人間の条件である」

 それは、低学歴は人間じゃねえみたいなトンチンカンな差別の話ではない。むしろそんな風に考えること自体が、教育を誤解していることに他ならない。
 教育とは、学校や師弟といった枠を超えた、大いなる構造であり、人間を人間たらしめる存在なのだ。
 そのことを、心理学実験や狩猟採集民族のフィールドワークの結果を通じて、著者は丁寧に解きほぐして説明している。学校のような教育制度が存在しない世界でも、あるいは自我が発達していない幼児の段階であっても、人間はごく自然に、「自分以外の誰かによりよく生きるのに役立つ何かを教えよう」とする。しかもわざわざ自分が余計なコストを負担し、相手がその知識を得ることのメリットを自分が享受できないとしても、そうするのである。
(勘違いされそうだが、自分を相手より上の立場に置くマウンティングのためにそうする訳でもない)

 どうやら人間は、互いに教え合い、そこから学ぶという活動を経て、初めて「人間になる」らしい。
 それは、はるか昔の石器時代の頃からすでに、人間が属する社会が単なる反応や個人的試行錯誤の経験のみでは捌き切れないほど複雑な知識によって作り上げられており、その中で生きていくためには教育という複雑な営みによって知識を身につけることが必要不可欠だからである。
 同時にまた、人間は自らの知識を社会で活用することによって、社会を変化させていく。知識と社会の相互作用の網の目の中に自らの文様を編み込むのが、ひとの生なのだ。
 これほどまでに教育が本質に密着した生物は、人間しか存在しない、と著者は述べる。

(もっとも最近は動物学の研究によって、「人間しかしない・できない」と言われていた様々な認知行動を様々な動物がしていることが報告されているから、「人間だけが教育を行う」という定義は将来は怪しくなる可能性もある。とはいえ、ここまで教育が種の特性に入り込んでいるというのは、確かにホモ・サピエンスの大きな特徴なのは確実そうだ)

★★★

 この本のもうひとつの柱は、遺伝が学業成績に与える影響についてである。
 学業成績に対し遺伝が与える影響はかなり大きいことが述べられる。それは「遺伝的素質があれば教育を受けなくてもいい」ということではない。ある方法で行われた教育によって、目的としていた知識の伝達がどのくらい達成されるかは、複雑な遺伝的要素の影響を受けるという話である。
 つまり、
「遺伝的素質があっても、そもそも教育を経なければ能力は発現しない」
「方法が変わると別の遺伝的要素の影響が発現して結果が変わるかも知れない」
「逆に遺伝的素質に関わらず望むだけの知識が得られるような、夢の教授法もない」
そして、
「同じような教育を受けたとしても、どんな成果が花開くかは、遺伝的素質によって千変万化する」
ということだ。
 だから様々な遺伝的素質に対応できるようにバリエーション豊かな教育方法を用意することが重要だし、ある分野に対して遺伝的素質が高いと思われる人には素質を潰すような強制は控えなければならないし、遺伝的素質がそんなに高くないと感じられるのならより一層質の高い教育で寄り添っていかねばならない。

★★★

 人々は、「遺伝的素質」という言葉に「強制されるガチャ」のような、つらく不本意なイメージを抱きがちだ。だが著者が伝える「遺伝的素質」とはそういう暗いものではない。「その存在の持つ固有の在り方を作る根源」なのである。

ニワトリは、タカの姿になって大空に飛び立ちたいのに、ニワトリにしかなれない遺伝的制約があるから飛べないのだ、というでしょうか。これは明らかに遺伝の認識が誤っています。遺伝は、その生物をその生物そのもにならしめる大もとだからです。同じように、あなた自信を、私自身を生み出している大もとが、あなたの、そして私の遺伝子たちなのです。

第5章 知識をつかさどる脳 「「遺伝的制約があるから飛べない」のではない」

 遺伝子の集まりによって生まれた存在たちは、それぞれのやり方で、生を全うしようとする。そのやり方には無限のバリエーションがある。そして教育の過程を経て、個々の知識は遺伝的素質(と環境と本人の意思)によって異なる形で結晶していく。その様々な違いに意味がある。

 自分にとって役立つとは思えない、不得意で遺伝的素質のない分野についても教育を受けて学ばねばならないのは何故か。それは本来、内申書の点数を上げるためでも収入を上げるためでも教養人として尊敬されるためでもない。(結果的にそうなることもあるけれど)
 不得意で低い成果しか上がらない遺伝的素質から結晶化した知識の中に、高い成果を出す素質から結晶化した知識には存在しえない違い、視点、個性が存在するからなのだ。
 それはテストの点数としては低い点数として表現されるかも知れないけれど、その個性を経由しなければ決して得られない特異的な「知識」であり、自分にとってかけがえのない個性であると同時に、自分以外の全ての人にとっても、実は価値をもたらすものなのである。
 タカのように速く高く飛ぶ鳥は多くないが、遅く低く飛ぶ鳥にもそれぞれ独特で稀有な飛び方、生存戦略があり、全ての鳥がかけがえのない唯一無二の貴重性を持っていることを、鳥類学者は知っている。同じことが、人間の知識にも言えるのだ。

★★★

 もうひとつ、この本には興味深い比喩が出てくる。それは、「IQや学力は、お金に似ている」ということである。
 人間の知能と呼ばれるものには、二種類ある。ひとつは、様々な分野に特化して蓄えられた知識で、私たちが毎日の生活で利用する「目的を持ったモノ」のようなものだ。モノがあればそれだけ対応できる場面が増えていく。ミニマリストであっても、何一つモノを持たずに生きていくことはない(むしろ数少ない持ち物に凄まじいこだわりを見せている)。
 一方、そのモノを手に入れるための万能な交換財として「お金」があるように、特化した専用の知識とは関係なく働かすことができる知能もある。IQとか基礎学力とか地頭とか呼ばれるような能力だ。

お金をたくさん持っているほど多くの物品やサービス、機会が手に入ると考えるのと同じように、より高い知能、より多くの知識を持つほど、(中略)幸福になれると考えます。そしていつしかその万能交換財を手に入れること自体が目的になってきます。

第5章 知識をつかさどる脳 「脳ではさまざまなプレーヤーが総合的に働く」 

 そしてお金と同じように「地頭がよければ自動的に幸せになる」という勘違いが発展し、「地頭が悪いと幸せになれない」という思い込みに至って、色々な迷走が生まれたりもする。

 人間は可能性というものに、目がくらむほどに惹きつけられる。可能性を手に入れ、保持し続けるためなら、幸せそのものすら犠牲にしてしまえる。多くの親が子供という存在にあれほどエネルギーを傾けるのは、愛情はもちろんだが、子供が「可能性の塊」という側面もあるだろう。そこに自分の見果てぬ夢を託してしまう悲劇もあちこちで聞く。

★★★

 私はいつの頃からか覚えていないのだが、遺伝的素質という概念を、カードゲームの手札に喩えて理解するようになった。
 ランダムに手札が配られるゲームでは、時にはあほみたいに「強い」組み合わせが来ることもあれば、投げ出したくなるくらい「弱い」組み合わせになることもある。
 だが強いカードを持っている時にゲームに勝てるとは限らない。カードを無駄に使ってしまったり、他にもっと強いカードを持っている人がいたりする。逆に弱いカードを持っている時に必ず負ける訳でもない。
 もっと言えば、「強いカードを持っていて順当に勝った」という過程をたどっても、全然面白くも楽しくもない時がある。そして弱いカードで勝負して確率通りにゲームに負けても、ものすごく面白くて記憶に残るセッションがあったりする。
 それぞれのセッションで、違うドラマがあり悲喜交交があり称賛があり慚愧がある。それらはランダムの手札という起点がなければ生まれない。「常に最強のカードだけを揃えて遊ぶ」ということが可能だったとしても、それが面白いとは限らず、もっと言えば常勝必勝を保証してくれる訳ですらない。

 単一の勝利条件に則ったカードゲームですらそうである。
 ましてや人生には、無限の勝利条件がある。
 遺伝的素質が自分の結構な部分に影響していて変えることができないとしても、だからこそ、そこに面白さがあり幸せがあるのだろう。

 モノを大量に抱え、万物と交換できるお金をあふれるほどに持っていても、常に飢え渇いている不幸な人がたくさんいて、ごく少ないお金しか持っていなくても限りなく満たされた人が(こちらは少数だが)いるのを、私たちは知っている。
 だったら、地頭がよくても悪くても、知識が豊富でも限られていても、それぞれちゃんと幸せになることができ、さらにはただ自分が幸せというのを超えて、自分以外の何かにも良い影響を及ぼすことが可能なことを、理解できるのではあるまいか。

 安藤先生が「教育」という言葉にこめているのは、そういう壮大で真摯な祈りである。
 大学生の時には、その祈りに私は気付くことはなかった。ずいぶんな回り道の末に、様々な社会の「教育」システムを経て、私はやっとこの祈りに辿り着いたようである。
 先生が研究人生で成しえたたくさんの業績に比べれば、ほんのささやかなひとしずくではあるのだけど、もし先生がこれを知ることがあったら、少しは幸せな気分を味わってくれるかも知れない。

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