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『悪魔が来りて笛を吹く』 本当の悪魔は笛を吹かない

横溝正史自選集 5 悪魔が来りて笛を吹く,横溝正史著,出版芸術社発行,2007年刊行

 NHK BSプレミアムで、「深読み読書会 『悪魔が来りて笛を吹く』」が再放送(元は2019年に本放送だったらしい)されていて、ちょっと気になって録画したところで、「そういや原作読んでなかったな……」と今更気付き、原作を慌てて読んだ、というのが事の次第である。
 実は金田一耕助シリーズは、遠い昔に『本陣殺人事件』を読んだきりで、しかも遠い昔すぎて内容を大半覚えてない。『金田一少年の事件簿』はRシリーズまで読んでるのに……何故……自分でもわからない……。

★★★

 実のところ推理小説としては、犯人を割り出す確かな論理の道筋を立てようがないので、「本格推理」にはなってない気もする。「犯人当ての論理構築」「だまされる快感」みたいなものを期待するとあてが外れる。
 だが、読書体験として実にパワフルだった。心にひっかかるものが次々出てきて、それがじわじわと広がっていく悪意の過程の引力がすごい。最後のフルート曲の謎は、本格推理としては譜面がないのが反則もいいとこだけど(笑)、純粋に小説の伏線として、最後に明かされる瞬間の衝撃に威力がある。
 そして面白い、と言う気には到底なれない陰惨な内容なのだが、「人間の心を描く」という意味で……ものすごく……腑に落ちてしまうところがたくさんあり、腑に落ちてしまうことへの嫌悪感と哀しさに沈んでしまう。

 いわゆる「本格派ミステリ」は、何と言うか、論理ゲームを成立させることが第一目的で、登場人物の心も境遇も、いや小説内世界そのものが、全て論理ゲームの奴隷である(とは私個人の定義だけれど)。
 どんなに悲惨な出来事や残虐な殺人があっても、結局は「論理だけが通っている作り物」なので、終わった後に自分の現実や世界観みたいなものに影響を及ぼさない。少なくとも私の場合は。
 なのだが、この『悪魔が来りて笛を吹く』はそこが完全に逆転していて、「考えれば答えがわかる論理ゲームとしてのミステリ」を作ろうという意図と裏腹に(作者の横溝正史氏は、久しぶりに本格推理を書きたいと思ってこの話を執筆したらしい)論理ゲームを成立させる道具であるはずの登場人物たちの精神部分が、善いところも悪いところも、現実そのものなのだ。リアリティがあるのではない。リアル。
 本当に、われわれの手の届く範囲内に、こういう人がいる、こういう辛い出来事がある、そしてこうやって立ち直る人もいる、と実感させられてしまう苦しさ(あるいは救い)がある。

★★★

 この物語のあらゆる悲劇の出発点となる、新宮利彦という人物像が怖い。悪意に満ちているだけでなく、現実の人間の悪性そのもので、戯画ですらない。
 作中で再三「陰弁慶」と言われ、酒を飲まねば警察の事情聴取に耐えられないほどに胆力も能力もなく、目の前の快楽をむさぼることにしか興味がなくて、そのために必要なリソースを他人に寄生して当然だと思っており、(ある意味不幸にも)それが一定叶ってしまう状況にいるがゆえにエゴイズムを矯正する機会を失っている。
 自尊心を持ちようのない彼は、「自分より弱いものをいじめる」権力欲で自分を満たそうと足掻き続け、ますます周囲から軽蔑されていく。

 うわぁ……なんて……よくいるタイプのダメ人間なんだ。
 この男の悪事は全て、強烈な他者への悪意とか倫理正義運命への呪いとかいったものではなく、どこどこまでも「目の前の快楽を追いかけるその場しのぎ」でしかない。その目的の卑俗さ無意味さと、やることのおぞましさの落差がひどすぎて、吐き気すら出る。だが一番嫌になるのは、彼がやるような行為を本当にやってる人間がいる、何なら自分がそういう人間になることだってあるのを、われわれが知っていることだ。

 そして、新宮利彦の実の妹の秌子(あきこ)は、兄の性暴力の犠牲者であったことが明かされる。
 秌子は妖艶なエロスに満ちた、白痴的かつセックスに依存した美女として造形され、登場人物として横溝正史が彼女を配置した目的そのものは「近親相姦というインモラルなエロス装置担当」だったのかも知れない。
 実際、作中では「燃えやすい女体」「それを抑制する知性がない」といった表現で描写される。
 だが、未成年の頃から家庭内性暴力のサバイバーとして生きなければならなかった(記述される兄からの性暴力は遅くても16歳ほどで、それが最初だった証拠は作中にない)事実が何を意味するか、少なくとも横溝正史の時代よりも性暴力のトラウマに関する知識が普及した現代の私にとって、彼女の造形は作者のご都合的意図を吹き飛ばす悲劇にしか見えない。
 性暴力の被害者が、自らが汚れているという感覚に苦しみ、それから逃れるための一種の自傷・自罰行為として性依存症に陥るパターンは、決して稀ではないことが、現代の精神医学では当然の前提となっている。暗示にかかりやすく知的能力が決して高くないという性質も、長年の自己解離の結果かも知れない。彼女は自分の状況への明瞭な認識を手放すことで、何とか生き延びているのだ。自分に性暴力を与え続ける兄と今もなお同居する状況を。
 利彦の性暴力の相手が、「妹と小間使い」なのが、また嫌になるほどお決まりのパターンである。つまり「自分より目下の所有物と勝手に決めつけている相手」を彼は選んでおり、性欲ではなく権力欲、他人を支配することで満足を得ようとする行為なのがありありとわかる。ここに本格ミステリ的な幻想性・虚構性は微塵もない。

 おまけに、何回か成されたこの作品のドラマ化において、秌子は本当にただの淫乱、色情狂として設定されるパターンもあるらしく、そこでは自分から積極的に兄と性交したかのように描かれてしまうらしい。いかに彼女のような境遇で生きざるを得なかった人間に対して、われわれが偏見に満ちた目を向けがちなのかを実感してしまう。
 火焔太鼓の模様を目の当たりにして秌子が取り乱すシーンは、真相を知ってから読み返すとフラッシュバックによるパニックそのもので、それを「知性のないオンナのヒステリー」扱いする視線に、怒りすらわいてくる。

 そして秌子の夫・英輔は、優しく高潔な人物であったが、妻の悲劇に太刀打ちする能力を何一つ持たない弱い存在である。実際に秌子を「守る」ために行動する(財産や家名の保身目的であったのだとしても)のは、現実処理能力を持った伯父の玉蟲公丸や使用人の信乃であり、英輔は何もできないし、果たしてしようとしたのかも疑わしい。
 彼は「悪魔が来りて笛を吹く」というフルート奏曲の譜面に重要なメッセージを残すが、これが現実に影響を及ぼせる行為と思っていたのだろうか。実際、物語の最後まで犯人以外、金田一にすら気付かれなかった訳で、告発としては無力である。
 恐らく英輔は、作曲という芸術に告発を昇華して満足してしまったのだろう。そして何も現実的な意味のある行為をせず、娘に曖昧な暗号のようなメッセージだけ遺して、ただただ自分の家名が損なわれたことばかりを嘆いて、自殺する。彼は秌子の苦しみを想像するさえできなかったようだ。
 陰惨な「現実の暴力」に対して無力さに絶望し、何もできずに立ちすくみ逃避する人間として、英輔はあまりにリアルである。

★★★

 横溝正史は、どうしてこの作品をこんなに「リアルに」描こうとしたのだろう、と不思議に思う。
 作り物の「本格推理」を書こうと決意して配置するのに、なぜここまで「本当に存在している」邪悪と悲劇を配置したのだろう。

 もしかしたら……と、これは完全な私の想像というか妄想で、何も根拠はない勝手な考えなのだが、横溝正史は「作り物としての悪」を妄想的に捏ね上げる性質は、持ってなかったのではないか。
 様々な人生経験の中で見聞した、生身の人間の悪と弱さと歪みを正確に観察し、記憶にストックして、それを書きたい作品の必要に応じて取り出して嵌め込んだのかも知れない。 横溝正史の時代にも、利彦のような人物はいただろうし、またそういう人物によって狂わされた人生を生きざるを得なかった人々もたくさんいただろう。横溝は、何故そんな風に歪んで生きなければならなかったのか、理由を理解することはなかったが、「そうなってしまった人の振る舞い」を緻密な観察によって描写することができた。

 横溝正史は、現実の邪悪を道具のように扱って物語を組み立てることができる人だった。それは才能であると同時に、ある種の共感の欠落だった……というのは言いすぎだろうけれど。

 そのあまりにも精密な観察眼を通じて描写される悲劇は、イヤミスなどという表現を越えて、小説ですらない現実の悲劇のようなやりきれなさをたたえている。
 そして、生き残った人たちが前を向いて「新しい人生を歩もう」と決意する姿が、それこそお話のような都合の良さなのに、その陽性の光が、本当にしみじみと……心に迫ってくるのだ。

★★★

 後日談。
 録画を観た「深読み読書会 『悪魔が来りて笛を吹く』では、私の上記のような感想とはむしろ真逆の(笑)考察がされていて、「貴族階級の没落への喝采、家制度ひいては天皇制度への攻撃」みたいなまとめだった。観てから読まなくてよかった……。
 物語の中のあんなリアルな悪事の連続を、貴族階級の闇みたいな「自分と関係のない悪」にまとめる視点にはかなりガッカリだったし、そして秌子が非常に苦しんだのではないかという観点が全然出てこなかったのには唖然とした。
 まぁ、2019年の日本人の性暴力に対するスタンスなんて、こういうレベルだったのかもなぁと振り返る。今だったら、もうちょっと違っている……と思いたい。
 ……あるいは、私の方の発想が、「ちゃんとした読みができる人々」とあまりにも乖離したオカシイ代物なのかも知れないが(苦笑)。

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