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『客観性の落とし穴』 インタビューから疎外されたひと

『客観性の落とし穴』,村上靖彦著,筑摩書房発行,2023年刊行

 読み終わって、久々に滅入った。
 頭の中が騒がしく思考が乱舞する一方で、ため息が出るような孤立感と失望感。世の中でたくさん売れて、評価も高い本を読んでみたのに、自分がその波に全然乗れなかった時の、暗澹たる読後感である。

 悪いのは本ではなくて自分の方なんじゃないか、そう思うと、余計に気が滅入る。

★★★

 タイトルは「客観性の落とし穴」で、客観性や統計をあまりにも重視し、唯一の真実として扱うことの弊害、数値に還元することで現実のディテールや経験が持つ価値が取りこぼされていく問題、その流れが競争主義や経済的生産性至上主義に人々を駆り立ててしまう風潮を生み出してしまうことへの、強い警鐘を鳴らす本……だと読む前は想像していたし、著者もそういう本を書いたつもりなのだろうとは理解できる。

 だが、この本が「客観性」について分析をするのは前半までで、残りは著者の専門であるフィールドワークでのインタビューから、主にヤングケアラーや貧困家庭を救済していくためにはどんな社会を作っていくべきなのか、というテーマに、勝手にどんどん移行してしまう。
 著者の中には、
「客観性信仰→人間が非人間化される→社会全体でケア概念が軽視されていく→皺寄せとして貧困家庭やヤングケアラーが析出される」
という直線的なルートができあがっているので、この話の流れに全然違和感を感じていないのだろうし、実際その流れにうまく乗ってしまえば素直に読み進めて、感動や発見を得ることができるはずである。そういうレビューもたくさん見かけた。
 できないと、私のように不全感をくすぶらせたまま終わる。

★★★

 読んでいる間ずっと、著者が闘っている相手は本当に「客観性信仰」なのかなぁ、という疑問から離れることができなかった。

 著者が本を執筆したそもそものきっかけは、授業で学生に、自らの質的研究に対して「客観的に見てみたい」「この研究は客観的なのか」というコメントがたびたび来たことなのだそうだ。学生に対して「客観=真理ではない」「量的研究にも恣意性があり必ずしも客観性は担保されてない」と繰り返し説明するのだが、伝わっている手応えを感じられない。
 この体験を、著者は、「(学生の持つ)客観性信仰・統計信仰が根深い。」と結論づける。

 だが著者と学生のやり取りは、そもそもがもっと前からボタンのかけ違いが起こっていて、そのすれ違いに気付かないまま、著者は雑な結論に飛びついているように感じる。
 学生が言いたいのは、「数値的なエビデンスがないからおかしい」という話では、全然ないのではないか。
 もっと根本的な、「先生の研究が言いたいことはわかるけれど、私はそれに納得感を覚えないし、正直いまいち同意できない」という気持ちなんじゃないかな……と感じてしまうのだ。

 などと失礼なことを考えてしまったのは、自分が学生の立場だった時に「客観的に見てみたい」という発言をしそうな場面を思い返すと、
「権力差のある相手に正面からネガティブなことを言うと損しかしないので明確に言いたくはないが、自分の賛同できない気持ちは角が立たない程度に一応表明しておかないと、色んな意味でつらい」
という時に、「客観性」という言葉は当たり障りなく使える便利な存在だったからだ。

「あなたの感情が大きく絡まったこの結論に賛同できないと言うと、あなたの人格を攻撃するかのように受け取られるかも知れませんが、そういう訳ではないんですよ。私が取りざたしてるのは、お互いの人格とは全然関係のないものですよ。でも説得されなかったし納得もできません」
という身も蓋もない内容を曖昧にくるんで表現するために、「客観性」という表現を使うのである。

 もちろん、優れた学者である著者は、自分の研究が納得されなかったことを、自らへの人格攻撃と受け取るなどというミスはしないだろう。
 だが学生は若く人格未熟なので、そこまで人格と自分の成果をきちんと切り離して考えられる人がいるという事実に実感が持てず、相対している教授もそうであると無意識に錯覚しがちである。あと厄介なことに、大学という社会には、批判を人格攻撃だと受け止める優れてない学者も、実際いっぱい生息している。
 なので学生としては一番安全(と自分が感じる)表現を使わざるを得ない。
 つまり、ここで持ち出される「客観性」は、真実性を争う道具ではなく、権力勾配のある場における生き残りのための煙幕ではないか……という想像が浮かんでしまった。

 だが著者は、自らの「大学教授」という権力構造に思い当たっていないので、学生のこの煙幕を文字通りに受け止めてしまい、何故こんなことを言われるのだろう?と煩悶した結果、(学生という存在が総じて人格も言語表現も思考能力も自分に比べて未熟だという経験も相まって)「学生は客観性を唯一の真理として奉じてしまっている現代社会の被害者」という結論に達してしまったのではないだろうか。

 自分で書いていても、己の思い込みを敷延して何を失礼な結論にたどりついているのだとうんざりする想像なのだが、「質的研究のインタビューに対して客観性を問う」というトンチンカンなやり取りが起こる理由を、単純な客観性信仰に求めてしまう流れが、どうしてもナイーヴすぎると感じられてしまい、乗り切れない。

★★★

 どうしてもひっかかってしまうのは、研究対象の人々の内面に分け入ってインタビューを念入りに解きほぐしていく時に見せる著者の丁寧さが、学生への理解においてはすっぽり抜け落ちてしまい、ひどく解像度の低い雑な解釈に陥っていることに、誰も疑問を表明していないからだろう。

 私は読んでいる間、著者の「経験の内側に視点を取る」手法と似たところにある、精神科医の中井久夫さんの「関与しつつ観察する」という言葉を思い出していた。
 だが中井さんの言葉には、この本に感じるもどかしさは覚えなかった。
 それは中井さんが、自らの「関与しつつの観察」の仮説や結論そのものすら常に相対視し、その限界をわきまえ、「そうではない可能性」に開かれたスタンスを維持しようとし続けたこと。そして自分と患者だけでなく、患者の家族や同僚や病院全体、さらには地理的条件や家族史や地域史までに及ぶ無数の関数も考慮に入れようとする真摯さに、根本的な信頼を感じたからである。
 その信頼を、この本には感じられなかった。
 この本には、「まず学生が客観性信仰に囚われているという結論が先にあって、それを説明する根拠を探していく」という思考の流れを感じてしまったのである。
 学生が言っているのは、数値的な裏付けがあるという意味の客観性ではなく、自己の仮説や視点自体をも相対視するという意味の客観性なのではないか。

(もっとも、それはお前の失礼な思い込みと未熟な誤読だと言われれば、そうなのかも知れないなぁと思ってしまうけれど)

★★★

 客観的なデータがあるんですかと学生が問うた時、その言葉をその通りに受けとるべきなのか。

 学生は本当に客観性を求めているのか。客観性という言葉の意味を学生はどう理解しているのか。本当に客観性を重視するのだとしたら、それは社会の流れに押し流されているからなのか。学生自身の目には質的研究のどこが納得できないものに映っているのか。何に反発し、何に不足を感じ、逆に何には心を動かされているのか。彼女/彼は、無意識にどこに自己を重ね、どこに他人を投影し、どんな本心を隠しているのか。

「客観性信仰」で終わらせず、生産性至上主義にからめとられた可哀想な若者と見るのではなく、まさに著者のいう「経験の内側に視点を取る」手法を学生たちに適用してみるべきではないだろうか。

 もっとも、もしかしたら蓋を開けた中には、著者が直視できないものも入っている可能性はある。だからそれは、著者というよりももっと若い世代に託すべきなのかも知れない。

 だが、貧困家庭に対するものと同じくらい「経験を可能な限り尊重した」インタビューを、学生たちにした時に、「客観性信仰」という言葉が素朴過ぎると思えるような、深淵と洞察が開けるのではないか。無責任な外野の素人として、私はそんな希望を持っているのである。

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