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バー開業顛末記③「変わりゆく家族の風景」

※ バー開業顛末記を最初から読みたい方はこちらから。


さて、「会いに行けないから、会いに来て」というコンセプトと、その方策として「バーをやる」という考えは自分の中で定まったが、そのためには「家族の理解と協力」が必須になる。

まず、それなりの金額が必要だ。
初期費用(賃貸の頭金と内装工事費用)と運営費用(家賃と諸経費)。
貯金を切り崩すにしても話し合いが必要だし、バーが毎月赤字になっていったら佐藤家の将来設計にも関わる。

もちろんお金だけじゃない。
毎晩のようにバーのカウンターに立つ、ということは、毎晩のようにボクが家にいない、ということだ。
妻と二人暮らしの今、それは夜ご飯に「個食」を強いるということになる。外食が多くて夜あまりいない、ということと、バーに立って毎晩いない、というのでは話が違う。深い話し合いが必要だ。

妻は、アレルギーによってボクがボクの人生でいかに大きな部分を失っていかに苦しんでいるかを身近で見て知っているので、いろいろ協力的ではある。
でもいざ「仕事をしながらバーもやる、お金もそれなりにかかる」となると、様々な心配をするだろうし、きっと異見もあるはずだ。そこはちゃんと聴いて「お互いが納得できる決着点」を見出す必要がある。

だから半年くらいかけて、あまり詰めすぎずに、ゆっくり妻と話し合いを重ねていった。


実は、アニサキスアレルギーはすでに「家族の風景」を大きく変えていた。

一人娘は就職して一人暮らしを始めたから、正確に言うと「妻との二人の風景」を大きく変えていた。

もうそれぞれに「個食」になっていたのだった。

家族にとって「家での一緒の食事」は重要だ。
コミュニケーションのほとんどは食事中に取られるし、朝に晩に集まって同じものを食べる、という行為のくり返しは家族の絆を確実に強くする。

で。
その「家族一緒の食事」を大きく制限してしまうのが「食物アレルギー」なのである。

たとえば鶏卵アレルギーだと、パンや麺やお菓子のほとんどを家族一緒に楽しめない。
卵を含む加工食品は幅広いので、ハムやソーセージ、コロッケや天ぷらなどの揚げ物、ハンバーグ、マヨネーズ類なども、普通に売っているものは一緒に楽しめない。

たとえば小麦アレルギーも、パンや麺を家族一緒に楽しめない。
うどんやパスタやピザ、お好み焼きや餃子なども一緒に楽しむことができない。粉物が生活に根ざしている関西人には特に厳しいアレルギーだろう。

どの食物アレルギーもそれぞれに相当きつい。
アレルギーは併発しやすいので、複数になるともっと厳しい。とんでもない。


ではアニサキスアレルギーはどんな感じかというと・・・。

ちょっと「普通の朝食」を頭の中でイメージしてほしいのだけど。
アニサキスアレルギーだと、たとえば朝食の定番だけでも、日々の食卓から以下のものが消滅していく。

焼き鮭、目刺し、あじの開き、あじフライ、ししゃも、しらすの和え物、ツナサラダ、たらこ、明太子、すじこ、出汁巻き卵、おひたし、海苔、キムチ、ごはんがすすむくん的なもの、ふりかけ、かまぼこ、はんぺん、ダシがきいた味噌汁・・・というか海塩まで制限するとほとんどの食材が消えていく。

特に和食派(ボクだ)は、朝から「あーあ」と絶望的な気分になる。
「焼き鮭喰いてー」「しらす食べたいー」「アジフライー!」「めんたいこー!」「パリパリの海苔〜〜!!」「ダシがきいた味噌汁〜〜〜!!!」

食物アレルギーとは、こういう絶望が一日三回やってくる病気である。
大失恋もそのうち薄れてゆく。
大失敗もそのうち薄れてゆく。
でも、この病気は一日三回ずっとリマインドされ続ける。

いやマジ、メンタルきつい。


で、当然の帰着点になるのだけど、「こんなに制限が多すぎる食生活に家族を巻き込むわけにはいかない」という考えに至っていく。少なくともボクはそうだった。

有り難いことに妻はアレルギーにとても協力的で、ボクでも食べられる食事を毎日作ってくれたりした(お恥ずかしいことに一年くらい前まで料理は妻に頼っていた)。

でも、もうアレルギーになって6年である。
6年かけてだんだんと「妻を巻き込んで申し訳ない」「ボクにつきあわずに自由に好きなものを食べてほしい」と思う気持ちが勝っていき、その申し訳なさがボクのメンタルを削っていくようになった。

いままで本当にありがとう。
でももう気を遣ってほしくない。
ボクに合わせてくれるほうがメンタルきつい(←性格なのだと思う)。

やっぱり食事は別々にとらない?



ゆっくり数年かけて話し合っていき、「お互いに自分の食べ物を用意して自分で食べる」というところでお互いに納得をするようになった。

ただ、ボクには「今後の人生、ずっと、自分の食事は自分で用意する」という決意が必要で、そのためには「毎食自分で作っても苦にならない方法」も見つける必要があった。

最終的に、「一汁一菜」という解決策を見つけ、いまでは毎食のように自分用にそれを作って食べている。

妻は自分で自分の好きなものを用意して食べている。同時に食卓につくこともあるが、バラバラに食べることのほうが増えた。それでお互いに納得している。

ちなみに、この「一汁一菜」を始めて、ボクは人生で初めて「自立」した、と思っている。
アレルギーとは別の話になるけど、自分で自分を養う、ということはボクをとても自由にし、自信を与えてもくれ、メンタル回復にもとても役立ったのだった。

ちなみのちなみに、インスタに一汁一菜アカウントも開設して毎日更新しています。もし良かったら。


こんな感じで、お互いの「個食」については妻の納得を得られていた。

「家族との外食」や「家族旅行」については、納得というより、ボクが「苦痛」に感じているうちは無理、という結論になった。

無理矢理行けないことはないのだけど、ボクが「苦痛」に感じているうちは一緒に行って迷惑かけたくない。だから妻は娘とふたりで夜ご飯に行ったり旅行に行ったりして楽しんでいる(去年は娘とふたりでタイに旅行してた)。

古くからボクの書いたものを読んでくださっている方はご存知だと思うけど、ボクは家族との旅行記をいくつも本にしている。
ボクのデビュー本である『うまひゃひゃさぬきうどん』(1996年)や『胃袋で感じた沖縄』(後に『沖縄やぎ地獄』と改題して文庫化)(1998年)などは、家族旅行記でもある。
ボクが主宰していたレストランガイド『ジバラン』(1996年〜2006年)も夫婦で店を回っては評価をしていた。この夫婦での外食の日々があったから、妻はチーズにハマっていき、その後チーズプロフェショナル協会の理事にもなったのだった。

まぁそういう日々も実質的に「打ち止め」ということだ。



ちなみに、妻は50代からランニングにはまり、初マラソンで3時間半を切るくらい向いていたこともあり、いまはトレランにはまって、シーズンになると毎週2日は山に入っている。去年はモンブランでの「UTMB ウルトラトレイル・デュ・モンブラン」で160キロ走ったほどの強者に成長している(わかる方にはわかるすごさ)。

チーズ仲間にトレラン仲間、と、彼女は彼女で充実した人生を送っていて、ボクが毎晩バーに立って家にいないことも(いまのところ)まったく気にならないようなので、そこは平和的な決着点が見い出せたのであった。


ということで、残るは「お金」の問題。
そして「仕事との両立」の問題。
これらも、ボクだけの問題ではなく、家族との話し合いが必要だ。

いい加減長くなったので、次回以降に譲ろうと思う。

(続く)
続きはこちらから。


p.s.
アッコちゃんが好きなのだが、何気なく聴いていた「ごはんができたよ」という歌が、いまはしみじみと響いている。

ごはんができたよ、という呼び声。
そして家族一緒に食べる食卓。
本当に大事だし、みなさんにはマジで大切にしていただきたいと心から思う。


古めの喫茶店(ただし禁煙)で文章を書くのが好きです。いただいたサポートは美味しいコーヒー代に使わせていただき、ゆっくりと文章を練りたいと思います。ありがとうございます。